夜勤病棟 Kranke 児玉あい

 ストーリー・「あたし、比良坂先生と結婚します」突如、竜二との結婚を口にした児玉ひかる。それでも夜勤明けに院内の中庭でSEXを強要されたりと、ひかるに対する竜二の実験は終わることはない。竜二に醜い仕打ちを受けながらも、ひかるの竜二に対する愛情はますます膨れ上がって行く。そんな時、結婚に向けて幸せそうに見えるひかるに対して、あいの口から衝撃の言葉が発せられる!「お姉ちゃん、お願い!私を女にして!!」




 ・夜勤病棟Krankeシリーズ第2弾(以下Kranke 2)。様変わりしてしまった夜勤病棟シリーズに関連して、今回は保守と革新について語りたいと思う。保守と革新という単語は主に政治の分野で用いられることが多い。私は保守と革新の意味を次のように考えている。
保守 = 過去にあったある物事に対して肯定的であること。革新 = 過去にあったある物事に対して否定的であること。ここで、「ある物事に対して」というのは重要である。だから、例えば、「自民党は保守である。」という表現は言葉足らずである。自民党は一般的に保守政党であるといわれているが、日本国憲法について考えてみると、彼らは改憲を唱えているので、日本国憲法に対しては保守ではなく、革新である。一方で、社民党や共産党は革新政党と認識されているが、日本国憲法に対しては、ばりばりの保守である。このように、全ての物事に対して保守であったり、革新であったりすることは有り得ない。もう一つ問題なのが、時間である。上記の保守と革新の定義では、現在と未来の言及がない。時間は物理学では明確に定義されているが、哲学的には古くからずっと議論がなされていることからも分かる通り、最も身近でありながら、最も捉えがたいものの一つである。だから、時間は哲学の素人である私ごときが簡単に扱うことのできる代物ではないが、素人が素人なりに考えても別に罰は当たらないと思う。私は現在 = 過去と認識している。フランスの哲学者、ベルグソンはこう言った。「現在は過去以外の何ものも含んでいない。そして、結果のなかに見出されるものは、既に原因の中にあったものである。」私たちは現在の状況を総括したり、反省したりするが、その時点でその状況というのはすでに過去なのである。私は現在Kranke 2のレビューを書いているが、Kranke 2を鑑賞したのはそれ以前の過去であるし、このレビューを投稿するころには、すでにそのレビューは私が過去に書いたものであるということができよう。なんだか上手く説明できなかったが、私が主張したかったのは、最初に書いたとおり、現在 = 過去という認識である。一方で、未来については、保守と革新を説明するのに重要である。上記の革新の定義では、未来について言及していなので、まだ意味として不十分である。だから、今一度ここで革新の定義をし直す。
革新 = 過去にあったある物事に対して否定的であり、かつそれを変革するのに積極的であること。要するに、革新主義者は未来を肯定的に捉えるのである。革新はこのように前向きで、プラスのイメージが強い。しかし、過激な革新は往々にして人々を不幸にする。
ロシアや中国の社会主義革命しかり、身近なところで言えば、小泉政権の構造改革しかりである。それでは、過去にあったある物事に対して否定的であり、かつそれを変革するのに消極的な者たちをなんと呼べばいいだろう。彼らはニヒリスト(虚無主義者)だろう。ニヒリストは無気力で自堕落であるといえる。それでもやはり、現秩序を破壊し尽くす危険な革新主義者に比べれば、無害な彼らはまだましなのかもしれない。次に、保守についてであるが、これも未来を肯定的に捉えるか否かで2種類に分かれると思われる。まず、未来を肯定的に考える保守は、過去にあったある物事に対して肯定的であり、かつそれを復帰させるのに積極的な復古主義者である。過激な復古主義者は過激な革新主義者と同様に人々を不幸にさせる。例えば、16世紀の宗教改革では、それがらみの戦争が数多く起こったし、宗教改革の主役の一人であるカルヴァンはスイスにて原始キリスト教を理想とした神権政治、いわゆる独裁政治を約30年間行った。彼に反発するものは否応なしに弾圧された。また、明治時代、日本では皇国史観に凝り固まった神道原理主義者たちが仏教を弾圧し、仏像を破壊して回った(廃仏毀釈)。復古主義者、特にその中でも過激な者たちは彼らが理想とする同時代の価値観やら生活様式の完全復帰を目指す。しかしながら、これは後の項目、進化と退化についてでも述べるが、過去の状態やあるいは勢いを完全に再現させることは、彼らの意に反して、残念ながら不可能であると私は考える。夜勤病棟Krankeシリーズは復古主義者たちにより作られたのかどうか私は知らないが、以前のシリーズと比べて質が落ち、製作者の意気込みもほとんど感じられなかった。もう一つ、未来を否定的に考える保守は、過去にあったある物事に対して肯定的であり、かつそれを復帰させるのに消極的な懐古主義者である。懐古主義者は「あの頃は良かったのに。」、「最近の・・・は駄目だ。」云々と老人的な考え方をし、未来を否定的に考えている点でニヒリストとの類似点が多いように思われる。
 保守と革新について述べたついでに進化と退化について語る。財界や政界に多い革新主義者たちは事あるごとに「変わらなければならない。」と口にする。だが、心配する必要は毛頭ない。世の中は人の意思の介入の有無にかかわらず、勝手に変わってゆくものだ。仏教の思想に諸行無常というのがある。古代ギリシアの哲学者、ヘラクレイトスはパンタ・レイ(万物流転)という言葉を残した。万物は常に変化し、少しの間もとどまらないのだ。もっとも、人間が望むように世界が変化していくとは限らない。ここで、進化と退化という概念がでてくる。ある人にとって都合よく何かが変化したら、その人はそれを進化と呼ぶだろうし、一方で、その逆であったら、彼はそれを退化とみなすだろう。陸上競技の記録等、明確な数字で表せるものは例外として、とりわけ、人間の価値観(何が正義なのか?何が悪なのか?何が楽しいのか?何がつまらないのか?等)の進化と退化の判断基準は所詮、個々人のあるいは集団の感覚に依存する。これについて、日本語を例にとりあげて説明する。現在、特に若者に使用されている日本語は、昔に比べて進化しただろうかあるいは退化しただろうか?語彙の豊富さを観点にしてしまえば、間違いなく日本語は退化したと断言できるが、その一方で、若者がしばしば使用し、昔はあまりみられなかった単語、例えば、「マジで!」「ウゼー!」「キモい!」等の優劣の判断はどうだろう?それを不快と捉える人にとっては、日本語は退化したといえるし、それを何とも思わない人にとっては、ただの日本語の変化であろう。あるいは、これらの単語を当たり前の如く用いている人たちにとっては、進化退化を論ずる以前の問題である。ところで、以前のレビューにも何度か書いたが、私は日本語の中の女性語に敬意を表している。近年、アニメの世界では、女性語は衰退の一途を辿っている。女性語を使う女キャラの割合は熟女を除いて激減し、よしんば、女性語を使う女キャラがいたとしても、使ったり使わなかったりと、その安定度はかなり低いことが多い(最近、気づいたのだが、アダルトアニメは昔から女性語を安定的に使うキャラは少ない。昔といっても、90年代のアニメがほとんどだから、90年代にすでに女性語の衰退はかなり進行していたと考えたほうがよさそうだ。)。私は女性語の衰退という変化を遺憾に思うが、他の圧倒的多数の人間はこの変化についてどう思っているだろう?おそらく何とも思っていないだろう。もし女性語が近い将来完全になくなったとしても、それに気づきすらしない者たちも何人かいるはずだ。他方、女性語の衰退を進化と捉えている人たちが少なからず存在する。タイトルと著者名はすっかり忘れてしまったが、私は以前外国のある言語学者が日本語について綴っている書物を読んだことがある。そこには思わず失笑してしまうような記事が書かれてあった。日本語の第1人称についての言及である。「日本の女性が主に用いる第1人称はワタシ(or アタシ)であったが、近年女性の社会的地位の向上のためかワタシと言わずに僕あるいは俺という第1人称を用いる女性が増えてきたとのことだ。」指摘すべき部分が多い文章ではあるが、まずこの言語学者の主張で的を射ているのは、現在の実際の女が雑談時にワタシという第1人称を用いることは意外に少ないということだ。アタシという言い方に至っては皆無である(これはアニメor漫画のみに使われる表現だとみなしても過言ではないだろう。)。ただし、結びの部分が誤っている。僕あるいは俺という第1人称を用いる女は実際にはほとんどいない。その代わり、ウチという第一人称を用いる女が圧倒的に多い。このようにこの言語学者の主張は現実とかけ離れているためジャーナリズムとしての価値は全くないわけであるが、私は決してこの部分の揚足をとりたくてこの文章を引用したわけではない。この言語学者は、僕あるいは俺という第1人称のほうがワタシという表現よりも優れているとみなしている点に私は注目したのだ。綺麗な日本語、汚い日本語、聞き惚れる日本語、聞くに堪えない日本語、それらの判断基準は個々人の感性によりバラバラだと私は言いたかったのだ。
 私はこれまでの文章で保守と革新、進化と退化について自分がふと思ったことを取留めもなく書いてきたが、次に人間は価値観のために死ねるか?というテーマを投げかけたい。
私は死ねると思う。どんな人間でも特定の価値観を有している。そしてそれは、常時変化する実世界に対して常に隔たりがある。その隔たりが人間を革新運動や復古運動に走らせる動機となる。あるいは厭世的になる人間もたくさんでてくる。そんな中、過激な革新主義者や復古主義者の中には、自分たちの理想を実現させるためなら死んでも構わないと思う者たちが現れるのではないだろうか?一方で、悲観的なニヒリストや懐古主義者の中には、どうせ理想は未来で実現されないのだから死んだほうがましだと考える者たちが現れるのではないだろうか?人間は自殺できる唯一の生物だとされる。ただ、この文章だけでは説明不足である。人間も肉体に関しては他の生物同様絶対的に死を厭う。痛みの感覚や本能的な死の恐怖は如実にそれを語っている。しかしながら、人間の魂(そんなものが本当にあるのかどうかは疑問であるが。解剖学者、養老孟司の考えでは、魂 = 精神は肉体の一部である脳の一つの機能にすぎない。) は死の恐怖を超越することが有り得る。天皇のために死んでいった一部の特攻隊員たち、イスラムの価値観を絶対視する中東の一部の自爆テロリストたちはその例である。彼らは他人をも巻き添えにする過激な自殺を選ぶので、一般人からは狂気の沙汰と思われることが多いが、一方で、一人静かにあの世へ旅立つ者たちの数は決して少なくはない。日本では毎年3万人以上の人間が自殺する。彼らのほとんどは自分の思い描いている世界像と実世界の隔たりに絶望して死んでいくと私は思う(自殺の原因の多くは経済苦とされるが、元経団連会長、奥田碩が、「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない。」と言ったように、日本は今のところ恵まれているので、一文無しでホームレスになったとしても、すぐに死に直結するわけではない。経済苦の人間は、ホームレスになるくらいなら死んだほうがましだという心理が働いて自殺するのだと思われる。)。独特の価値観を有している者たちが多い芸術家に自殺者が多いのはそれが理由だと考えられる。革新主義者が好んで使う以下のダーウィンの言葉は、人間のみに関しては真実をよく言い当てていると思う。「生き残る種というのは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。最も変化に適応できる種が生き残るのだ。」
 さて、私はアダルトアニメに関しては現在完全に懐古主義者である。2003年くらいまでは、穏健な革新主義者あるいは復古主義者とでもいうべきか(といっても、私自身がアニメを製作するわけではないので、所詮は他力本願であるわけだが。) 、アダルトアニメの未来に期待をもっており、新作が発売される度にわくわくしてそれを鑑賞したものだ。しかし、今は違う。今はどのアダルトアニメを鑑賞するにしても、どうせ駄作にちがいないというネガティブな感情が必ずといっていいほど沸き起こる。結果は、いい意味で裏切られる場合がある。それでも、アダルトアニメの未来を肯定的に考えることはできない。その時たまたま出会った名作は、鑑賞を終えたとたんすでに過去のものとなってしまうからだ。予感通り、駄作だった場合は最悪だ。このアニメ、Kranke 2はまさしくこのケースに当てはまる。夜勤病棟シリーズには、過去の偉大な最高傑作、Karte. 6&8がある。同じキャラを使っているわけだから、夜勤病棟の新作はどうしたってこれらの最高傑作と比較されることになる。結果は、言わずもがな新作の惨敗である。経験の積み重ね(この場合は、アダルトアニメの鑑賞数)は時に人間から感動という感情を奪い去る。アダルトアニメを見始めたばかりのころは、たわいない作品にすら新鮮さやエロさを感じとることができた。しかし、いくつかの名作に出会うにつれ、私の要求するエロさのレベルはどんどん高くなっていった。そしてある意味で、それの頂点に立ってしまったのが、夜勤病棟Karte. 6&8である。
以後私は新作を見る時、過去の作品群よりもエロいものを期待するといったことがほとんどなくなってしまった。その分、その虚無的な感情が裏切られた時には一入の感動が待ち受けているわけであるが。もっとも、近年ではそんな気持ちを味わわせてくれる名作は少なく、Kranke 2を鑑賞した後に感じたような虚脱感を私に与える作品が多い。そこで、私はしばしばこう思ってしまう。「昔は良かったのに。」と。完全な懐古主義者というわけである。
 さて、最後に本題であるKranke 2の具体的なレビューを行う。まず、作画のレベルであるが、素人目から見てもかなり低いことがわかる。物語の序盤に児玉ひかるが比良坂竜二により木に逆さ吊りにされ、犯されるシーンがある。これは作画の駄目さ加減が最も目立つシーンの一つである。竜二とひかるの全身を遠目で描写しているワンカットは特にひどい。遠近感が無茶苦茶で、かつ肌の色は単純なベタ塗り、細かい描写が必要とされる関節部分は適当そのものである。よって、立体感を上手く醸し出せず、木に吊り下げられているひかるが、まるでゲゲゲの鬼太郎にでてくる一反木綿のように見えてしまう。形式的存在に堕した脱糞描写はもはや評価にすら値しない。今回は、浣腸液をチューブで注入されながら、ロープに逆さ吊りにされたひかる(そう言えば、Karte. 5にも似たようなシーンがあったような・・・それにしても今回の製作スタッフは逆さ吊りが好きなようだ。)が、脱糞のシャワーを披露する。これがまた適当描写で、排出される糞はただの黄色い霧のようにしか見えないし、逆さ吊りの状態での排便だから、肌や服に糞がべったりと付着してもよさそうだが、まるで水分をはじくフッ素樹脂コーティングのように、綺麗さっぱりである。アニメでの脱糞描写は突き詰めれば、崇高美に達すると個人的には思うのだが、脱糞描写の先駆者、ディスカバリーが今やこのような状態であることから、もう未来永劫実現はしないと思われる。ストーリーに関しては、愛がどうのこうのという話に終始しており、脈絡がない。これはKarte. 6以降夜勤病棟シリーズがずっと引きずっている慢性的であり、かつ深刻な病状である。Karte. 6-10に関しては、エロ描写に全く関わらない刑事たちまで出てくる三流ドラマくさい演出を製作者が自己陶酔していたようにみえたので、そこが非常に鼻に付いて嫌だった。一方で、Krankeシリーズのストーリーは、多くのバニラ作品と同じように、ネット用語を用いれば、いわば電波的で、滑稽なイメージを醸し出しているので、不快を通り越してもはや同情心すら芽生えてきた。それにしても、製作者はなぜ恋やひかるをはじめとする主要女キャラが竜二を好きになることにここまで執拗に拘ったのだろうか?そしてそんな彼女たちの思いに、例え演技であろうと、素直に応じてしまうキャラクターに竜二を仕立て上げてしまったのだろうか?竜二は、女キャラのエロさを高めるためには、どんな鬼畜行為をもためらわない純粋な性犯罪者であって欲しかったと私は思う。今回の竜二は積極的なひかるやあいにおされて存在感が希薄であった。話は変わるが、私は最初竜二をブサイク系主人公だとみなしていた。しかし、なかなかどうして見方によればハンサムに見える。彼の特徴は、長身、長髪、眼鏡であり、頬骨さえでていなければ、インテリ眼鏡キャラとしてボーイズラブの世界でも十分やっていけるのではなかろうか。事実、Karte. 9-10にでてくる若いころの竜二はなかなかの色男であった。ちなみに、私はこっち系の世界には全く興味がないということだけは誤解のないように断っておく。
本作でおそらく最初で最後のエロデビューを果たした児玉あいはかなりの電波系キャラであるという印象を受けた。彼女が、前作Kranke 1にて竜二とひかるのセックスを垣間見てしまったことにより卑猥な気持ちになったことはわかる。ただし、竜二に犯されたいとまで思うようになってしまうのは思考の飛躍がすぎるのではなかろうか?せっかくデビューを果たしたあいではあるが、悲しむべきかな、彼女のエロシーンはオナニー、ひかるとのレズプレイ及びフェラ程度である。竜二はあいの膣に自分のペニスを挿入する気配すらなかった。どうしたのだ、竜二?彼らしくない。私は今回の件で彼を完全に見損なってしまった。あいについて印象的だったのが、病院個室での彼女のオナニーシーンである。彼女はパンツ一丁でオナニーを行い、そして絶頂に達するのだが、運の悪いことに、その後心臓発作が起きてしまう。幸運なことに、自力で酸素マスクをつけて、どうやら発作は自動的に収まったみたいだが、もしあの時、そのまま死んでしまっていたとしたら?あるいは看護婦か誰かに苦しんでいるところを発見されてしまったとしたら?パンツ一丁の状態で生死をさまよっていた彼女の心境はいかがなものであったのだろうか?ここは、笑うべきシーンではないが、失礼なことながら、私はふきだしてしまった。
 レビューの序盤で、アダルトアニメとほぼ無関係なことをだらだらと書いてしまったことを申し訳なく思う。ただ、私がアダルトアニメを評価する上で支えとなる思想、いわばバックボーンのようなものをどうしても文章で表現したかったといことだけは忘れないでいただきたい。最後に、この作品の抜ける度は1である。Kranke 2は夜勤病棟を、シリーズをおって見てきたものにとっては、まさしく諸行無常を感じさせる作品となっている。
(りぷとー)


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