□ Prologue 『思春期』 □

 夏の夜空。
肌に心地よい新鮮な空気と、豊かな緑が彩る大地の風景が、満点の星空を一層雄大に見せる。
瑞々しいまでに強く息づく田畑を湛えるこの山村は、現代日本に残された数少ない自然の宝庫だ。
この山神村(さんじんむら)は、今も昔も変わらず静かにここにあり続けている。

「んん〜・・・綺麗に晴れたねぇ〜」
「ふふ、きっと舞子の日頃の行いがいいからよ」
「えぇ〜・・何よ、沙弥は日頃の行いよくないわけ?」
「ん〜?私は・・ほら、罪な女だから」
「あはははは・・な〜にいってんだか」
山神村を見下ろす小高い山の頂に、腰を下ろした2人の少女の姿がある。
この村が象徴するような純朴そうなお下げの少女と、美しい長髪で良くも悪くも美しい雪女を思わせるような少女。
この2人、岡本舞子(おかもとまいこ)と氷川沙弥(ひかわさや)は、この村唯一の高校に通う1年のクラスメートだ。
小学校からの仲のこの2人は、昔から時々こうやってここに星を見に来ていた。

「ねぇ、沙弥」
「・・・」
「・・沙弥?」
「・・あ?ああ、何?」
「入り口で見た大学生の人たち、こないね?途中で引き返したのかな?」
ここは文字通り人里離れた場所だ。
村の中央から南西にかけて家屋が点々とある辺りから、北東に向かうと広大な水田地帯に出る。
その水田地帯を村の外周沿いに囲む用水路の奥に、山中へと続くか細い道が伸びており、それをいくらか登ると山神村全体を一望できる小高い山の頂、開けた場所に出る。
ここは知る者の少ない、いや、それ以上に訪れる者のいない2人のお気に入りの場所なのだ。
だが、今日は山道の入り口辺りで、男1人・女2人の大学生くらいの3人組を見かけていた。
あの山道は一本道であり、ここ以外のどこにも繋がっていないはず。
舞子は当然その3人もここを知っており、自分たちのあとからやってくるものだと思っていたのだが、いつまで経っても来る気配はなかった。

「ああ、そうなんじゃない?」
そこに1・2テンポ遅れた返事。
どこか気の抜けたような沙弥の態度に、舞子はオーバーに頬を膨らませる。
「ちょっと、沙弥、聞いてるの〜!?」
「え、ああ、うん、聞いてるわよ」
しかし、沙弥は相変わらずの返事だ。
「・・・」
舞子はしばし言葉を奪われていた。
昔の沙弥はこんなではなかった。
持ち前の雰囲気の違いはあれど、ツーといえば即座にカーと返ってくる仲だったのだ。
沙弥の様子がおかしくなり始めたのは、ここ2・3ヶ月くらいからだ。
どうおかしくなったのかといえば、今みたいにぼーっとしているのが多くなったこと。
何か悩みを抱えているのか。
もしそうならば、何故自分に相談してくれないのか。
それとも自分のことなど、彼女の中で、もうそれほど大きな存在ではなくなってしまったのだろうか。
だが、沈黙は不安を増大させるだけだ。

「ねえ、沙弥・・最近、少し変だよ?」
「そっ、そんなことないわ!」
今回の沙弥の反応は、異様に早く大きかった。
あきらかに何かを隠している者の反応だ。
舞子はどこか寂しさを覚えつつも、無理して笑顔を作る。
「なら、いいんだけど・・でも、もし何か悩みとかあるんだったら相談してね」
「あ・・うん。ありがとう、舞子」


        ▽        ▽        ▽


「・・ふぅ」
吹き抜ける風に、2つのお下げが小さく揺れる。
舞子は肺の奥から大きく溜息をつき、ゆっくりと夜空を見上げる。
スカート越しに足に這い登ってきた蟻を払い落とすと、長く座りすぎていたせいか、臀部にはじんわりとした痛みがあった。

「沙弥、何かあったのかなぁ・・」
これは舞子の独り言だ。
沙弥はもうここにはいない。
先程、『少し調子が悪いから』と1人先に帰ってしまったのだ。
そして、沙弥の言葉に何かを察した舞子もそれについていくようなことはしなかった。

(私も帰ろうかな・・)
お気に入りのこの場所も、1人ではさすがに寂しすぎる。
それに女の子がこんな時間に山の中に1人きりというのも、よく考えれば大問題なのだ。
山神村は都会で流行っているような血生臭い事件とは無縁の場所だが、逆に田舎ならではないわくつきの怪談が存在する。
真実かどうかは大変怪しいところだが――『神隠し伝説』だ。

 山神様の神隠し
 女は百回酒を注ぎ
 男は百の木を育て
 山神様に祈りなせ

神隠しにあった女は7日、男は一生戻って来れないというこんな唄も、この村には江戸時代以前から伝わっている。
村の年長者たちは『昔はよくあった』等と語り、幼い子供たちを脅かす。
村育ちの舞子も当然その1人であり、昔から刷り込まれてきた言葉は彼女に不安を植え付け、それが帰宅を促させ始めたのだ。

(よっ・・と)
頭のもやもやを振り払うように舞子が勢いよく立ち上がると、スカートについていた乾いた土がぱらりと落ちる。
更にその上からパンパンと手ではたき、舞子はくるりと向き直る。
星明りでうっすらと浮かび上がるのは、ぽっかりと口を開けた村へと続く山道の入り口。
舞子はおもむろにスカートのポケットから懐中電灯を取り出すと、スイッチに手をかける。

――ボゥッ

眩い輝きが舞子の視界を広げる。
(・・えっ?)
舞子は一瞬何がなんだかわからなかった。
自分はまだスイッチをオンにしていないし、これは明らかに懐中電灯の小規模な灯かりなどではない。
そもそも、光は自分の真後ろから放たれているのだ。
浅い吐息を吐くと、舞子は視線をゆっくりとそちらへ向けてゆく。
だが、その正体を視線が捉える前に舞子は走り出した。
目より先に耳が何かの異形を捉えたのだ。
それがどんな音だったのかは、もう思い出せなかった。
ただただ、山道を駆け下りる。
普段の舞子だったなら、少しは好奇心も働いたかもしれないが、夜の山の中に1人という現状と、例の神隠しの記憶が彼女の冷静さを削いだのだ。

――ザッザッザッザッザッザザザ――ズザザ―――!

「きゃっ!」
足元のしっかりしていない山道を、夜闇の中で駆け下りればこうなることも容易に想像はつくはずだった。
舞子は足を踏み外し、急斜面を滑り落ちてしまったのだ。
「いったぁぁ・・」
でんぐり返しを失敗したような間抜けな格好のまま、舞子は声を上げる。
しばし後、ようやくスカートがめくれてショーツが丸見えになっていることに気づくと、慌てて体勢を立て直した。
痛みより羞恥心が先に立ったあたり、背中はだいぶ汚れてしまったかもしれないが、大した怪我はなさそうだった。
そして、次に気づくのが自分のいる位置。
一緒に落ちた懐中電灯で辺りを照らしてみると、まず飛び込んできたのが天然だか人工だかわからない洞穴。
だが、逆側を照らせば、ここが山道入り口の近くであることがわかった。

(・・あ)
ここに来て1つ大事な記憶が戻る。
先程の謎の光だ。
見回すが、近くにそれらしいものはない。
(気のせいだったの・・かな)
落ちたショックで逆に冷静さを取り戻したのか、舞子はそう思うようになっていた。
いくら言い伝えはあれど、さすがにあれは非現実的すぎる。
それに、深く考えてもどうせ答えは出ないだろう。

「あーあ・・汚れちゃった・・」
とりあえず水田沿いの道路まで出ると、舞子は改めて今の転落による被害をまじまじと感じていた。
背中で滑り落ちたせいで、背中から尻にかけてが土だらけになっていた。
母親の怒り顔が目に浮かび、舞子は1人肩をすくめる。
だがその時、後ろの太ももの辺りにピチャリと何か液体がつくのがわかった。

(・・ん?)
すぐにそこへと手が伸びる。
怪我による出血などではなさそうだが、『虫でも潰してしまったかな』と内心ひやひやものの舞子。
だが、指先が探り当てたのはもっと別のものだった。
懐中電灯の灯かりは、すぐにその正体を浮かび上がらせてゆく。
(あれ・・これって・・まさか・・・)
舞子の顔が夜闇の中でもわかるくらい紅潮してゆく。
それをつまむ指先が硬直して震えていた。
形容するなら、何かの粘液で濡れた小さなゴム風船。
だが、思春期の舞子にとっては強烈過ぎるインパクトを持つ代物であった。

(!!)
舞子はすぐに視線を走らせ、周りに誰もいないことを確認する。
そして、しばし考えた後、それをポケットにしまいその場を走り去ったのだった――


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