●逃走
そのまま、意識が消えたままだったら、どんなに幸福だったろう。
でも、僕の意識は、すぐに現実にひきもどされた。
さっきまでの、心すら溶かしてしまうような快感の波はすっかり消えうせて、僕がずうっと感じていた絶望だけが、僕の中に満ちていた。
身体の自由が、戻っていた。あいかわらず触手にからめとられてはいたけれど、いやらしい快感をむさぼってない、いつもの僕の身体に戻っていた。
でも、動かない。
僕はもう、指一本動かす気力もなかった。なにもしたくなかった。なにも見たくなかった。
もう、なにもかすも、嫌になってしまっていた。意識が冷静になってくるのと比例して、重たい悲しさが広がってゆく。
だって、僕は。
僕は・・・っ。
男の顔が、目の前にあった。それを、無感動に眺める。
男は、本当に嬉しそうだった。もう、目と口しか残っていないのに、本当に嬉しそうだった。
男は、蛇みたいに鎌首をもたげて、大きく口を開けた。その口のなかに、たくさんの牙が溢れていた。
ヨダレが、僕のハダカの胸に、顔に垂れた。だけど、僕はもう、嫌悪感も恐怖も感じなかった。
ああ、食べるんだ。
僕を好きなだけ自由にしたから、もう、食べちゃうんだ、きっと。そう、思っただけ。
その僕の考えを肯定するように、男は大きく口を開けて、僕の首筋に顔を近づけた。
僕はもう、抵抗しなかった。
もう、いいや。
こんな、嫌な思い。こんなひどい絶望を抱えているくらいだったら、食べられたって、死んだって、きっとよっぽどマシにちがいない。
僕は・・・・。
僕は、もうそれ以上考えるのをやめて、目を閉じた。もう、なにもかも、どうでもよくなっていた。
最後に一筋、涙がながれた・・・・・・・。
ぐしゃあっっっっ!!!!!!!!
ずるりっ!!
だけど、僕は、食われなかった。かわりにすごい音と、触手が引き剥がされていく感覚が、僕を目覚めさせた。
身体が、あっというまに自由になってた。
なに?なにがあったの?
がーあいーああああああっ!!!!!!!
ワケの解らない声をあげて、男・・・もぅ、ほとんど触手の塊になっていた・・・・・が、のた打ち回っていた。頭が、ばっかりと割れてしまっている。だくだくと血が溢れていた。
原因は、すぐにわかった。石。墓石だ。
苔むした墓石が、男の脳天に叩きつけられていた。
「立て!」
男の子の声がした。とっさに声の方を見る。
そこに、少年が、立っていた。
ボロボロの学生服を着ていた。小柄で、たぶん、中学生。野生の塊みたいな瞳。粗い髪。浅黒い肌。なんだか、野生の虎を無理矢理人間に変えたみたいな。
そんな男の子が、墓石を脇に抱えて、こっちをにらんでいた。
「立て!」
生気に満ち溢れた声に押されて、僕は思わず、身体を起こしていた。腰のあたりがバラバラになるみたいに痛かったけど、なぜか、気にならない。
「きみは・・・」
思わず問う。ほとんど、かすれるみたいな声だったけど。
「何か聞いてるヒマがあったら、逃げろ!!」
ぶうううんっ!!
少年は、動き出そうとした怪物に、もうひとつの墓石を叩きつけた。ぶちぶちと嫌な音がして、怪物がのたうち回る。僕は、怪物の悲鳴と血の匂いに、金縛りみたいになっていた・・・
その頬を、少年は遠慮なくぶったたいた。しかも、グーで!!
「馬鹿かっ!!逃げろ!!逃げないと・・・殺すぞっ!!」
殺す。
言葉と一緒に、果てしない殺気が迸った。
僕の心が、恐怖でいっぱいになる。
「ひ・・・」
僕は、ハダカ同然のひどい格好で、思わず走り出していた。
恐怖とパニックに背中をおされて、必死で。
そして、それが、僕と、少年。
真鋼勇一の、最初の出会いでした・・・・・。
(つづく)
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