第5章


 セネー海は穏やかな天候が続き、航海は順調に進んでいた。
「エンテ、こんな所にいると、風邪をひいてしまうよ」
 それはかつてグラナダの英雄として呼ばれ、ウェルトを救い、そしてラゼリアの公子である人物、リュナンであった。
「……リュナン様、一つお願いがあるのですが」
「なんだい、エンテ、僕にできる事が……」
 彼女は厳しい表情のまま、リュナンの胸に顔を埋めた。
 やはりこのぬくもりを失いたくない。だが、あの水の神殿において、悪夢のような出来事を口にすれば、それは永遠に失われてしまう恐れさえあった。そう、永遠だ……
 知られてはならない。幸い、あの件を知る者は、既に先の大戦において失われている。
 エンテは意を決し、端正整った顔を見上げた。
「その……これからはメーヴェと呼んでいただけませんか?」
「メーヴェ……そうか、古代ユグド文字では、メーヴェは海鳥のカモメという意味だったね」
 両者の思惑ほど、懸け離れたものはなかったが、それを打ち明けることはメーヴェには無論できなかった。
 そう、"エンテ"という名は、あの忌まわしい出来事と一緒に捨てよう。
「うん、解かった。メーヴェと呼ぶ事にするよ」

 それから、数ヶ月……リーヴェ王国のメーヴェ王女の妊娠が発覚した。無論として、相手はラゼリアの公子リュナンとされる。
 周囲は別に驚きも異論もなかった。終戦後の後の二人は、仲睦まじく進展した関係であり、その誰もが、メーヴェの宿された子をリュナンと疑わなかった。
 日数にしても、「公子も想いの他、手が早かったのさ」の一言で片付き、公子の側近を勤めたオイゲンでさえも、リュナン二世の誕生だと、信じて疑わない有様だった。

 先の大戦の最中……エンテは、ユトナの巫女の一人として、生贄の祭壇に上がり、一度は一命を落とした。
 そしてその戦後、解放されたユトナによって、祭壇に捧げられた巫女達は一命をとりとめ、それぞれの想い寄せる人物にもとへ戻れる事で幕を閉じる。
 エンテもまた他の巫女達と同様に、一度は死出の門を潜りつつも、再び、生を得る事ができたのである。が、彼女の笑顔は他の三人の巫女に比べ、決して明るいものではなかった。
 ユトナとしても万能でも、ましてや、全能でもなかった。
 彼女の用いた蘇生はあくまで、ガーゼル降臨の祭壇に捧げられた状態であり、忌まわしき水の神殿での出来事、それ以降である。
 エンテがリュナン公子と再会、和解した直後、祖国の帰国を待たずに関係をしたのは、このような経緯である。
無論、戦略戦術ならば右に出る者がいないグラナダの英雄も、女体に関する知識が乏しかった事も、エンテにとっては幸いであった。

 こうして、メーヴェは戦後、約一年……
 リーヴェ・ラゼリアを統べる男児を出産。だが、実際は古ゾーアの血を引く混血児であり、後の暴君とも、覇王とも呼ばれる帝王として成長するのだが、それはまた後の物語である。
 出産時、メーヴェは思わず安堵の溜息を漏らした。
 記録的には、初の出産の気負いから、とあるが、実際は生んだ子の容姿に懸念したものである。
無論、それを知る者はおらず、そして、これからも知る者は現れる事はない……

 ……はず、だった。


 それから暫しの時が過ぎ……
 水の神殿を発掘している、金目当ての男がいる。
「たく……ロクなもんがねぇ……んっ、」
 彼の名はナルサス。かつてはラゼリア・ウェルト連合軍に身を置いていた盗賊であり、また、ホームズ海賊団にも所属していた経歴もある、曰くつきの怪しげな男である。
「記憶の杖ねぇ……」
「こ、こいつは……」
 その杖から映し出された光景を見たとき、常に飄然としているこの男でさえも、驚きを禁じえなかった。

「さてと、これはどうしたものかね……」
 ナルサスは手持ちの記憶の杖を弄びながら、この後の身の振り方を考え、彼は既に失脚、没落しつつある宰相宅に売り込みにいく。新王、新王妃に憶え悪く、宰相という地位も追われそうなこの男なら、この杖を誰よりも高く買ってくれるであろうから。
 彼には新王リュナン、新王妃メーヴェとは戦友であり、それだけに友誼以上のものを、ナルサスなりに感じている。だから彼は、直接脅迫しようという気はしなかったのだが、これによって、新王妃の立場がどうなろうと、彼の知ったところではない。
 ナルサスは……この男は、そういう性格の人間であった。

 かくして、あの忌まわしき水の神殿の出来事から一年……
 再び、地獄のような日々が幕を開けようとしていた。


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