第一章 ある同人漫画家の受難




「どうしたのだ我が心の友。浮かない顔をして」
 学校で俺の肩を叩いたのは、エキセントリックな言動と行動で校内外に名を知られる、馴染みの知り合いだった。
「……ああ、お前か……」
「…本当に暗いな? いくら週明けとは言っても、その落ち込みようは尋常ではないな。――昨日のこみパで新刊を落としていたようだが、その関係か?」
「ああ、まあ、そうでもあり、そうでもなしと言った感じで」
「ふむ。とりあえずこの貴様の永遠の相棒に相談してみるのはどうだ。悪いようにはせんぞ?」
 普段ならこの男のタワゴトなど聞き流している俺だが、今回は本当に参っていた。こいつに相談してみる気を起こしてしまうほどに……。いつもはくだらないツッコミを入れてくるヤツも、俺が本気で相談しているのがわかったのか、黙ったまま話を聞いてくれていた。
 そう――最初は、三日前のことだ……。


 その日俺は原稿ケースを抱きしめ、やや緊張して歩いていた。
 いつも同人誌を細々とコピー誌で出していた俺だが、今回ついにオフセット本を製作することにしたのだ。今まで出した本の原稿に描き下ろしを加えた、まさにこれまでの俺の活動の集大成が手の中にある。そう思うと興奮と不安が胸中で交錯した。
 資金はあまりないが、めちゃめちゃ安くて早い印刷屋の噂を人づてに聞いて、そこへ向かっているところだった。
「ここか…」
 小さな印刷屋。本当に小さい。カンバス地の庇看板に『つかもと印刷』と小さく書かれていなければ、完全に見過ごしていただろう。正面のガラス戸を開けて中をのぞいた。
「ごめんくださーい…」
 大丈夫なのかココ、と言う不安が声に出ているのが自分でもわかった。
 と――。
「にゃああ! お兄さぁん、また来てくれたんですねぇ」
 水商売の客引きのようなセリフは、だが、明るいロリ声で発せられていた。
 ――目の前には、小さい胸の真ん中に小さく『つかもと印刷』と書かれたエプロンを着けた少女が、満面の笑みを浮かべて立っている。中学生くらいかな? 淡い色の髪はおかっぱを短くしたような形にカットされ、小作りの顔とあいまって余計幼く見える。
 少女はちょっと居住まいを正すと、ペコリとお辞儀をした。
「つかもと印刷へようこそ! お兄さん、また同人誌の印刷ですね?」
「あ、ああ、そうだけど…」
 『また』って? 俺、本を印刷に出すの、初めてなんだけど……。それにこの子、よく俺が同人誌の印刷に来たのがわかったなあ。そんなにオタクっぽく見えるか、俺? 偏見の目で見られたくないんで、一応、普通に見えるよう身だしなみには気を使ってるんだけど。
 見回すと、どうやらこの部屋にはこの子しかいない。まさか店員じゃないだろうし。
「今日はおうちの手伝い?」
 おそらくこの家の子なんだろう。自宅の家業の手伝い、と言うのが一番ありそうなセンに思えた。
「はい。千沙、今日はアルバイトはお休みなので、お父さんとお母さんのお手伝いです。お父さんはお届けものに行って、お母さんはお買物に行ったですよ。お兄さんが来てくれて、千沙うれしいです」
 にこっ、と笑う。
 ……何だか妙になれなれしいコだが……かなり可愛い。千沙ちゃん、か……。ロリっぽいけど、いいかも。へへ……。
「それじゃ千沙ちゃん、印刷お願いできるかな」
「はい。あさってのこみパまでですね。開場前にサークルまでお届けでいいですか?」
「え? そ、そこまでしてくれるの?」
 普通は、印刷所のスペースまで自分で取りに行くもんだと思ってたが……。ずいぶんサービスがいいんだな。
 千沙ちゃんはちょっと赤くなって微笑んだ。
「はい。千沙、がんばりますから」
 うわっ、可愛い。感激して思わず抱きしめそうになってしまった。
 いかんぞ俺、それはもうちょっと段階を踏んでからだ。初対面でいくらなんでもそんな。ああ、千沙ちゃん! 俺は、俺は……!
 はっ。いかん、妄想モードに入りかけてしまった。…たまにはロリ萌え純愛系の妄想も悪くないかもな。ちいさいおにゃのこに、同意の上で(<この辺が純愛)あんなコトやこんなコトを……ハァハァ。
 気を取り直して、千沙ちゃんに笑顔を返した。
「それで、本の印刷なんだけど……」
「あ、ハイ。ページ数と部数、表紙の仕上げを教えてください」
 千沙ちゃんはメモ帳を取り出し、慣れた調子で必要事項を書き留めていく。
「それでいくらになるの?」
 予算が心配な俺は、見積り金額を尋ねてみた。すぐ金の話をするのは浅ましい気もするのだが、貧乏なんだからしょうがない。
「えーっとですね……このくらいです☆」
 え……?
 ぽんぽんと電卓を叩いて千沙ちゃんが提示して見せた数字に、俺は目を見張った。
 安い。安すぎる! こんなに安くていいのか『つかもと印刷』! 経営は成り立っているのか!?
 事前に調べて来た相場の印刷代から比較し、あまりの安さに余計な心配までしてしまう。こりゃすごい。これからもここをひいきにしよう! …まあ、刷り上がった本の出来を見てからだが…。
 感激している間に、千沙ちゃんはするりと俺の懐に入り込んできた。
 え、千沙ちゃん? キミ、警戒心なさ過ぎだぞっ? それは俺を誘ってるのか? そうなのか!?
 一人で盛り上がる俺を傍らに、千沙ちゃんは俺が抱えていた原稿ケースをひょいっと手に取った。
 ――あ? 千沙ちゃん、キミそれは遠慮なさ過ぎ――。
「今度のおにーさんの漫画はどんなのですか? 千沙、楽しみだったですよ」
「あ、いやそれは!」
 止める間もなく千沙ちゃんは原稿を取り出し、ぱらぱらめくり始めていた。

 ああ――!
 静寂。そして硬直。千沙ちゃんも俺も、凍ったように動きを止めていた。
「あ、あの……千沙ちゃん……?」
 びくっ、と肩が震え、涙目で見上げてくる。
 その手の中から、するっと原稿ケースが滑り落ちた。ばさばさーっと床に原稿がばらまかれる。
「わっ!」
 慌てて拾おうと伸ばした手の先を、細い足が通りすぎた。
「にゃああああ―――っ! こんなのイヤですぅ―――――っ!!」
 悲鳴を上げて、千沙ちゃんは走り抜けていった。
 ……俺の原稿を踏みつけて……。
「わーっ!!」
 遠ざかっていく千沙ちゃんの泣き声に、俺の悲鳴が重なった。



「ああもう、どうしようこれ。靴アト、印刷に出ちまうかなあ…」
 ぶつぶつ呟きつつ、俺は原稿ケースをのぞきながら歩いていた。
 原稿には何枚にも渡ってくっきりと靴の跡がついている。ものによっては土埃や、ひどいのになると機械油や印刷用インクに汚れていた。…ちゃんと掃除しろよ、『つかもと印刷』…。
 結局あのあと千沙ちゃんは戻ってこず、一人取り残された俺は、しょうがなく別の印刷屋へと足を向けていた。
「何だったんだあのコは、まったく。…可愛かったけど。ああ、やっぱ手直ししないとダメかなあ…って、うわ!」
「きゃ!」
 原稿のチェックをしながら歩いていた俺は、公園の噴水横まで来たとき、前方不注意で人にぶつかってしまった。寸前で気がついてブレーキをかけたので大した勢いではなかったが…開けたままの原稿ケースを落としてしまったのは大失敗だった。またも原稿が何枚かばらまかれてしまう。
「うわわ……! ごめん、よそ見してて……」
 とりあえず謝って、原稿を拾おうと――思いかけて俺の思考は止まった。
 俺がぶつかったのは18、9の女の子で……それが、とびきり可愛かったのだ。やや赤っぽい髪を右側でサイドポニーにまとめた元気そうなコで、すらっとしてしなやかそうな体つきと――服の胸元の生地を思いっきり突き上げている爆乳が印象的だ。普通の巨乳だと、それしか目に入らなくなるもんだが……このコの場合、乳の印象に負けないくらいの美少女だった。
 ――すっごく、好みのタイプのコだった。
「ちょっと、気をつけてよね――って、何だ――」
 生き生きした表情と弾む声が、彼女の魅力をさらに引き立てる。何か言いかけてから、見惚れている俺にいぶかしげな視線を向け、彼女は気安く話しかけてきた。
「何ボーっとしてるのよ。いいの? 飛んでっちゃうわよ、マンガの原稿」
 我に返った。
「わああっ!」
 慌てて、風に飛ばされかけていた原稿を捕まえて回る。
「まったく、ドジなんだから。今度は何を描いて――」
 彼女は落っこちたままだった俺の原稿ケースをのぞき込んだ。原稿を集めて戻った俺を待っていたのは、顔を真っ赤にして俺の原稿を握りしめる彼女の姿だった。
「あ・あ・アンタ……同人誌を始めたのは、こんなモノを描くためだったの!? 最っ低っ! 見損なったわ!!」
 繊細なオタクのハートにぐっさり突き刺さる非難。しかも好みのタイプの女の子からだ。違和感のあるセリフにも気付く余裕をなくし、俺は一瞬で逆上した。
「どっ……どうでもいいだろ、そんなコト!? そっちには関係ない! 返せよ、俺の原稿!!」
「か……関係ないィ〜〜!?」
 何故か向こうも逆上した。
「んなわけないでしょ、この…この……! こ、こんなモノォ!! ……バカァ――――!!」
 彼女は俺の原稿を引き裂こうとして果たせず(束にしたケント紙がそう簡単に破れるわけはない)、最初の数枚だけ破り捨てると、残りを俺の顔に叩きつけ、そのまますごい勢いで走り去った。
 ――不幸なことに、俺は噴水を背にしていた。原稿の大半は俺にぶつかっても勢いを失わず、そのまま水に浸かる。――無論、もはや使い物にはならない。
「お――俺の、原稿が――。今までの集大成が……」
 俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。


 ……ここまでの話を聞いて、外見だけはまともな友人は重々しく頷いた。
「なるほど。それは災難だったな。今までのすべてを失ったその衝撃、想像に余りある。貴様の才能を高く買っている拙者も、今、同じ衝撃を感じているのだからな。……だが! それですべてを諦めてしまうような貴様ではなかったはずだ! あの情熱を失ったとでもいうのか。それだけで新刊を落とすような貴様だったのか!? 見損なったぞ!」
「見損なうな。作ったさ、新刊を。いつものコピー誌だけどな」
「なに? しかし、実際本を置くどころか、貴様自分のスペースにもいなかったではないか」
「……まだ、続きがあるんだ……」
 我ながら重い声だった。


 昨日のこみっくパーティー、朝9時。
 俺はぐったりヘビーに疲れ切って、サークルスペースの机に突っ伏していた。
 結局俺は、再生不可能となった原稿を泣く泣く諦め、描き直すことにした。幸い描き下ろし分のネームは残っていたし、一度は描き上げたものだ。内容はすべて頭に入っている。
 問題は時間だった。さすがに仕上げやトーンまで全部こなすのは不可能。俺は当面下書きとペン入れを優先し、肝心な部分だけベタと仕上げを行なった。今日の朝6時まで粘って机に向かった結果、かろうじて妥協できるくらいの内容に仕上がる。一部のページは消しゴムかけをするヒマすらなかったが、その分、力を入れたかった部分は何とか納得のいくクオリティになってくれた。俺はコンビニで数十部だけコピーを取り、ダッシュで会場へ向かって、サークル入場時間ぎりぎりに滑り込んだ。サークルスペースへ辿り着くととりあえず見本誌提出用に一冊だけ紙折りと製本を行ない――そこで力尽きたのだ。
 無論、丸二日完徹だった。その前もろくに寝ていない。若さに任せて無茶をしてきたが、いい加減限界だ……。
 だが、少しでも納得できる作品を作るためには、このくらいの苦労は何でもない。俺は作品創りに情熱のすべてを注いでいるんだ。
 そうだ。俺はこんなところで力尽きている場合じゃないんだ……!
 ほんの10分ほど休んだだけで、俺は販売分の紙折りと製本を始めた。コピーした紙を半分に折り、半分に折り、半分に折り、一冊分溜まったらホッチキスで閉じる。以後繰り返し。
 た……単純作業なんで……眠い……っ!
「見本誌の回収です♪」
 もはや目の前の紙しか見えなくなっていた俺に、涼やかな声がかけられた。
 顔を上げると、優しげな笑みを浮かべた眼鏡のお姉さんがいる。こみパスタッフの青い制服がよく似合っていた。
 美人だ。
「あ、はい。これです」
 俺は親しげに微笑むスタッフさんに、あらかじめ見本用に用意しておいた本を手渡す。
「はい、確かに。あら、今回はコピー誌なんですね」
 ……『今回は』って……? 俺、コピー誌しか作ったことないんだけど。あ、そう言えば前回の本の後書きに、「次はオフで出す」とか書いたっけか。それじゃ、このお姉さんは俺の本をそんなところまで見て、しかも覚えていてくれたんだろうか? 何だか照れる。
「いやあ、ちょっと事故で時間がなくなっちゃって。やっつけ本なんですけど」
「それでも、『たとえコピー誌でも本を出そう』と考える辺りは立派ですよ。徹夜したんでしょう?」
「ええまあ、ここ3日くらい」
「それでやつれているのね。意気込みは立派ですけど、若いからってあんまり無茶しちゃダメですよ。ロクなもの食べていないんでしょう」
 ……見透かされている。頭を掻くしかない俺だった。
「もう……今度、作りに行ってあげましょうか?」
「ええ!? あ、あんまりからかわないでくださいよ」
 冗談でも、優しそうな美人のお姉さんにそんな風に言ってもらえるのは嬉しい。
「ふふ。それではチェックしますね。今度の本はどんなお話かしら?」
「あ……今回は、時間なかったんで……何とか主線だけは入れたんだけど、仕上げまではちょっと。ぎりぎりまで粘って、できる限りはやったんですけどね、やっぱり全部は手が回りきらなくて」
 俺は彼女を数少ない読者と信じ込んで、弁解のようにまくし立てた。読んでくれる人に、完成品になり切っていないものを見せるのは少々後ろめたい。ふと見ると――制服の肩が震えていた。顔からは表情が消えている。
 うわ――やっぱペン入れだけってのはまずかったかな。気を悪くさせちゃったか?
 彼女は無言で、肩から下げている、回収した見本誌などが仕舞われているファイリングバッグに手を伸ばすと、一枚の紙切れを取り出し、ぽん、とテーブルに載せた。
「――?」
 俺は何だろう、と紙を覗き込む。字が書かれていた。
 ――販売停止。
 …………。
 って、いわゆる赤紙?
「でええええええっ!?」
 我知らず奇声を上げていた。な、何で――どーして!?
 抗議しようと顔を上げると、彼女の冷たく見下ろす視線に射すくめられる。――普段優しそうな分、怒ると怖いタイプのようだ。わからないのは、一体何にそんなに怒っているのかだが――。
「ちょ、ちょっと――」
 気を取り直して上げた抗議の声に、斬りつけるような彼女の宣告がかぶさった。
「反省してください!」
「……は……?」
 ぽかんと口を開ける。何を言ってるんだ、このヒトは。
「それは、同人誌なんですからどんな本を作るのも製作者の自由ですが――いくら時間がないからといって、安易にこういった路線に走るなんて。見損ないました!」
「は? …え?」
「これはオシオキです。他のスタッフにも言っておきますから、処分の撤回はできませんよ。今回はたっぷり反省して、頭を冷やしてくださいね」
「いや、あの――」
 言うだけ言い放つと、彼女はさっと踵を返して立ち去った。去り際に体を回したとき、胸に付けたプレートの文字が目に入る。
 牧村、と書かれていた。
「お――」
 取り残され、呆然とする俺の前に、『販売停止』の四文字が厳然と今あったことが現実であることを教えていた。
「俺が、何をした――?」


 そのまま20分ほど呆けていただろうか。
「――おい」
 ドスの効いた声に我に返った。
 ふと前を見ると、バルタ○星人の姿があった。
 丸メガネと両手に構えたハリセンのためにぱっと見でそんな印象を抱かせたのだったが――。
 見直すと、それは小柄な女だった。背は低めで発育不良、ずぼらなオタクファッションに身を包んだ、ぱさついた茶色っぽい髪の同人女だが――童顔ではあるが、顔立ちは悪くない。眉を吊り上げ、引き結んだ唇から不機嫌そうに八重歯をのぞかせていなければ、だが。年の頃は――20は行ってなさそうだが、高校生にも見えない。19歳前後だろうか?
「これやな」
 足を開いて仁王立ちになった女は、関西風のイントネーションで呟き、ハリセンを脇に手挟んで、製本が終わったまま放置してある俺のコピー誌に手を伸ばした。止める間はまったくない。えらく傍若無人な女だった。もっとも、今の俺にこの女を止める気力などないが。
「――機嫌が悪そな牧やんから話を聞き出して、まさかと思うとったが――」
 マキヤン? ――さっきの牧村ってスタッフの人か?
 見ると、ページをぱらぱらめくる童顔メガネの肩が震えている。
 ――悪い予感がした。
「お、おい――ちょっと」
 一時的に気力を奮い起こして声をかける。放置していたら何かロクでもないことが起こりそうな気がしたからだ。――だが、それは俺の気のせいだった。
 声をかけようがかけまいが、ロクでもないことはもはや止めようがなかった。
 じろっ、と俺を睨んだ後――。
「〜〜っっこの、どアホ――――ッ!!」
 バル○ン星人のハサミ――もとい、女の左右のハリセンが、目にも止まらぬ速度で俺の頭に振り下ろされていた。重い衝撃。
「ぐわっ!」
 こ――これ、ホントにハリセンか――!? めちゃめちゃ効くぞ――!
「なっ、何するんだいきなり!?」
 頭を抱えて俺はわめいた。先日から続くわけのわからない災難に加え、ハリセンでとは言え、見ず知らずの相手にいきなり殴りつけられ、いい加減俺もキレかけていた。だが――。
「やっかましい!」
 ずぱぁん! と2撃目を食らい、沈黙する。
 い……痛ぇ……! 鉛でも仕込んでるんじゃねえのか…っ?
「ネタがなくなりゃコレかい! 安易にもほどがあるわ! アンタ同人舐めとんのか!?」
 悶絶する俺を尻目に言いたい放題言ってくれる。
 くそう――! さっきから何なんだコイツら!? わけわかんねえよチクショー!!
 と、そこに…。
「あ、由宇さんですの〜☆ どうしたんですの〜?」
 緊張感のカケラもない間延びした声が響いた。
 見ると――シャンプーのCMに使えそうな艶やかな髪を長く伸ばした、のほほんとした雰囲気の女が立っていた。よく見ればかなりの美少女だったのだが、神経のささくれ立っていたこの時の俺には、うざったそうな女としか認識できなかった。
「すばるか。ちょっとコイツにセッキョーくれとったとこや」
「あ、コレ新刊ですの〜? 拝見しますの〜☆」
「あ! あかんて、スの字!」
 回りの話も『販売停止』の紙も知覚していない、恐るべきマイペースぶりで、少女趣味な服装のその女は、残っていた製本済みのコピー誌を手に取った。ぱらぱらめくって凍りつく。――コイツもか。
 …何故だか、壮絶な悪寒が背筋を走った。
「ぱ」
「ぱ?」
「ぱぎゅうううぅ――!! こんなの……こんなの、ヒドイですぅ〜〜っ!!」
 叫びと共に、振り上げられた女の拳が大地に向けて放たれた。
 ずどん!
 派手な炸裂音が轟く。
 俺は浮遊感に包まれ、周囲の景色がスローモーションのように流れていくのを感じていた。
 ――その女のワケのわからない技で、机や椅子ごと吹っ飛ばされた俺の意識は、ゆっくりと闇に閉ざされていった。


 救護室で寝かされていた俺が目覚めたとき、時刻は既に午後4時を回っていた。
 慌てて駆け出すと、周囲は祭りの後の閑散とした空気に包まれ、皆疲労と興奮と満足感を抱えてそれぞれ家路につき始めている。
「……終わった…」
 俺のこみっくパーティーが……。
 俺は、その場にがっくりと膝をついた――。


「そう言う事情だったのか……それは……何と言うか……災難だったな、友よ」
 何と言っていいかわからないのだろう、ヤツは複雑な表情で俺の肩を叩いた。
「ああ……もう、ワケわかんねえよ……」
 本は売れないし。本は買えないし。達成感も爽快感もない、疲労と無力感ばかりが得られた今回のこみパだった。
 だが、しかし。
 昨日の出来事は、それで終わりではなかったのだ。


 その日起きたあまりに理不尽な出来事に、俺は悪夢にうなされているような気分で、それでも何とか部屋に帰り着いた。どうやって帰ってきたのか、まったく覚えていない。出がけに髪形だけチェックするために玄関の壁にかけてある鏡をのぞくと、どんよりと虚ろな瞳の俺が疲れた眼差しを俺に向けているのが見えた。
 部屋は今朝までの悪戦苦闘の跡を示して、スラムのように荒れ果てた有様だった。…その苦労もまったくの無駄に終わってしまったわけだが……。
 部屋の片隅に荷物を放り出した俺は、ほとんど無意識の行動で、PCデスクの椅子にどかっと腰を下ろす。帰ってまずメールチェックをするのが俺の日課だった。こんな虚無的な気分でも習慣というのはなかなか揺るがせられないものだと、ロクに働いていない頭で感心する。
 パソコンの電源を入れ、メーラーを起動する。オンラインになると、いくつかメールが入ってきていた。何点かの広告。友人からの連絡。
 中に一つ、見慣れないメールがあった。
 タイトルには「警告」とだけ書かれている。
「何だ? サーバーからのウイルス警報か?」
 今までに何件かあったそう言う警告メールを思い出し、何気なく開く。
「……なっ!?」
 そのメールは――丁寧な口調で、執拗に俺と、俺の同人活動に関する誹謗中傷が書かれていた。
 俺の活動に関する非難から始まり、同人誌の内容の劣悪さと、そこから類推される俺の人格や環境にまで渡り、こっぴどくこき下ろしている。文章の丁寧さがかえって傲慢で、慇懃無礼だった。
 中傷メールは、こんな風に結ばれていた。
『――貴方のような方がいるために、日本が世界に誇るべき文化活動と呼べるはずの同人誌即売会の品位が貶められ、ひいては漫画文化そのものにまでも悪しき影響を及ぼすことになるのです。私は、日本文化と同人活動を憂える者として、貴方の存在自体を許すことができません。
 警告します。貴方は直ちに同人活動を停止してください。
 もし、次回のこみっくパーティーに貴方がサークルとして出展し、貴方の下劣な妄想を周囲にばら撒く行為を続けた場合、私は貴方に、当然かつやむなき制裁措置を加えることになります。その一部として、貴方のこれまでの醜悪な活動と、貴方の個人情報とを公開することになるでしょう。これが口だけの脅しではないことを証明するために、貴方の個人情報を以下に併記しておきます。     警告者より』
 その後には、俺の本名、本籍、住所、血液型、生年月日、学歴、バイト先に至るまで、詳細な情報が列挙されていた。
「な――何だよ、コレ……どうして」
 放心して呟く。マウスを覆う手が震え、アイコンが無意味に画面上をふらふら揺れ動いていた。
 ――充分すぎるとどめだった。
 俺は、あらゆる気力を根こそぎ断ち切られ、椅子からずるずると滑り落ちていった――。


 すべて話し終えると、ヤツは深刻な表情で黙り込んだ。
「――そいつは、悪質だな」
「ああ…。もう、どうしたもんだか…。同人、やめるしかないのかなあ…」
 情熱のすべてを傾けて取り組んできた活動だったが、理解されないだけならまだしも、こうまで強烈に否定されるとは。今までやってきたのがまったく無意味なことだったような気分になり、俺は消えない疲労に肩を落として天を仰いだ。
「許せん」
「――え?」
 ぽつりと呟いた腐れ縁の知り合いの顔を、俺は振り返る。滅多に見ないほど真面目かつ冷徹な表情をしていた。
「いつも言っているだろう。拙者は貴様の才能を高く買っているのだ。その貴様にここまでの精神的負担を課した輩、放置しておくわけにはいかんな。――任せておけ、魂の友よ。貴様の創作活動を阻むものは我が敵。必ずや探し出し、こちらこそが天誅を加えるのだ!」
 芝居がかったポーズでこちらに人差し指を突きつけてくるこの男に――俺は、不覚にも感動してしまった。
「タイキ、お前――」
「心安らかに待っておけ、同志カズミ。今回の件に限り、一切の協力は惜しまん!」
 高らかに宣言し、ヤツは靴音も高く歩み去っていった。
 ピンストライプのジャケットの背中が、不思議と頼もしく見えた。


 ここいらで、自己紹介しておこう。
 俺の名は四堂和巳(しどう・かずみ)。オリジナルの凌辱調教マンガを描き綴る、駆け出しの同人漫画家である――。


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