(2)
その日、椿は大帝国劇場内の食堂で昼食を済ませると、着替えのために控え室へと向かった。
歌劇団の公演もなく、完全な休日ではあったが、職員の何名かは帝劇内にいて、それぞれ公私の用事を行っている。
椿も、担当している売店の在庫を整理するため自主的に出勤してきたのだが、それが思いがけず午前中に片付いたので、午後は銀座をブラついて時間をつぶすつもりだった。
表は抜けるような青空で、風が帝劇内まで運んでくる新緑の香が実に心地よい。
椿は歌い出したくなるような気分で自分のロッカーを開け、外出着を選びにかかった。
帝劇で勤務中、不意に用事で外へ出なければならないことも多いので、職員たちは皆適当に私服を用意している。椿も日頃から、5着ほどの着替えをロッカー内に吊してあった。
(・・これを着てみようかな・・・・)
ふとそんな気になり、長く袖を通していないその服を手に取ったのは、陽気の良さが、椿の心をいつになく浮き立たせていたためだろう。
それは白と濃紺に塗り分けられたワンピースで、デザインの印象はいささか野暮ったい。だがむしろそれが、椿の清楚な愛らしさを上手く引き立たせていた。
胸のボタンを丹念に留め、襟元に赤いリボンを結ぶ。その途端、椿の心がキュッと締め付けられるように疼いた。
(大神さん・・・・)
・・・そう、この服は、昨年のクリスマス公演の前日、花組の隊長である大神一郎少尉と、初めての、そしてただ一度だけのデートをした時に着たものなのだ。
デート・・・あれはデートと言えるものだったろうか。
二人で食事をしたというだけのことを、少なくとも大神は、デートなどと意識していなかったに違いない。しかし椿にとって、ほんの1時間ほどのその逢瀬は、思い出しただけで胸が熱くなってくるような、何にも代えがたい体験だった。
・・・いつの頃からか分からず、彼女はこの若々しい士官に、強い思慕の念を抱いていた。
精悍だが、どこか剽軽で憎めないルックス・・・。生真面目で正義感に溢れ、しかも優しさを忘れない気性・・・。
そのどれが椿の琴線に触れたのかは、今となってはもう思い出せない。・・・多分その全てなのだろう。
以前、大神とキネマトロン通信をした際、彼が冗談めかしてデートに誘ってくれたことがある。
椿は思わず声が震え出すほど嬉しく、その夜はベッドの中で繰り返し大神の言葉を反芻して、とうとう眠れなかった。
・・・しかし椿は、その熱い想いを大神に打ち明けようとは、微塵も思わなかった。むしろそれを決して気取られぬよう、頑ななまでに自制を強いた。想いが報われるとは、到底思えなかったから・・・。
何故なら、大神は常に花組のメンバーに囲まれていたし、共に死線を越えた彼ら同士の絆には、椿などが入り込める余地は無いと思えたのだ。
それに花組のメンバーは、皆その名の通りに綺羅々しい。
彼女たちスターを前にしては、痩せて背が低く、お世辞にも美人とは言えない自分の容姿では、大神を慕っていると気付かれることさえ、何か図々しく恥ずかしいことのような気がするのだった。
・・・もっとも、想いを伝えようにも、その大神はもうここにはいない。つい先日、軍令で、国外へと長期研修に出たからだ。
今、彼はヨーロッパ・・・フランスにいる。
そこがどんな国なのか、詳しくは知らなかったが、椿はただ大神が元気でいることだけを願った。そしていつか、彼が無事に帰国したとき、ニッコリ笑って売店を訪ねてさえくれればいい・・・。
自分に許される幸せはせいぜいそんなところだと、椿は心に銘していた。
「あの、椿さん・・・」
不意に背後から呼びかけられ、椿は振り返った。
立っていたのは、食堂でウェイトレスを勤めている、16才の野々村つぼみだった。
今日は食堂も休業なのだが、弁当を使う職員のために、施設は開放されている。
つぼみは厨房の整理でもしていたのか、エプロンの胸元を薄黒く汚していた。
日頃行き届かなかった雑用を、休日にまとめて片づけようというのだろう。オッチョコチョイではあるが、真面目で仕事熱心な娘なのである。
「つぼみちゃん・・・ど、どうしたの?」
椿はちょっと慌てたように言い、ばつが悪そうに薄く頬を染めた。
つぼみにそれと知れるわけはなかったが、大神のことを想って一瞬の感傷に浸っていた自分が、何となく照れ臭かったのだ。
「あの、売店にお客様がいらしてて、それで椿さんにお会いしたいっておっしゃってるんですけど・・・」
「お客様?今日は休みなのに?」
「ハイ。何か、商品のことで苦情があるっておっしやってて・・・。私が承りますって申し上げたんですけど、椿さんじゃなきゃダメだって、随分な剣幕で・・・」
「そう・・・。分かったわ、今すぐ行きます」
椿は言って、外出着のままで売店へと急いだ。
つぼみも臨時で売店員を勤めたことがあるので、一通りのトラブルには対処できるはずだったが、相手が椿を御名指しなのだから仕方がない。
せっかくの華やいだ気分に水を差された格好だったが、どうせ午後には用事がないし、こと商品に関する苦情となれば、やはり椿が責任を持つべきだった。
「ようやくお出ましですか・・・」
売店の前には背の高い和装の婦人が立ち、やって来た椿にフンと蔑むような視線を向けた。
「大変お待たせいたしまして。ここの販売員を務めております、高村椿と申します。私どもの商品のことで、何かご迷惑をおかけしましたでしょうか?」
取りあえず丁重に頭を下げながら、椿はそれと気取られぬよう、相手を注意深く観察した。
見たことのない、中年の婦人だった。
険のある角張った顔に、度の強そうな鼈甲ぶちのメガネ。着物は茶の色無地で、それを淡いうぐいす色の帯が上手くまとめている。
さりげない普段着ではあるが、身に付けたものの一つ一つは、相当に値の張りそうな一流品ばかりだった。
よほど上流階級の人間であるらしい。
「迷惑という程じゃないですけどね。こちらでいただいた・・・ええと、プログラムというの?その演目帳が、開いてみると、中身が全部白紙でね。何も印刷されていなかったのよ」
「えっ、それは・・・」
「宅の息子がね、こちらのお芝居がそれはもうお気に入りで、だから家の者に買いにやらせたのですけれどね、中身がないのではどうしようもありませんよ」
「も、申し訳ありません。ただいますぐにお取り替えいたしますので・・・」
慌てて売店内の在庫を持ち出そうとする椿を、婦人は手振りで制して、
「ああちょっと、もちろん交換していただきたいのですけどね、今はその白紙の演目帳を持ってきていないのよ」
「え・・・」
「それでね、あなた新しい演目帳を持って、宅までいらしていただけないかしら?宅の息子はね、今病気で出歩けないのだけど、このことでひどくヘソを曲げているの。あなたがこの売店の責任者なら、息子に直接詫びるのが筋というものでしょう?」
「はあ・・・」
椿は口ごもった。
なるほど、つぼみの言うとおり、相手は「随分な剣幕」であり、その物言いもひどく無礼で一方的に思えたが、不良品を販売した責任は確かに自分にある。
「表に車を待たせてあるから、一緒に来てちょうだい。・・・ああ、宅は、あなたも知っているでしょう?先日亡くなった、陸軍の百目鬼(どうめき)です」
「えッ、では奥様は、百目鬼閣下の?・・・」
やり手の参謀次長、百目鬼中将の名前は、軍関係者以外にも良く知られていた。
京極陸軍相にも近い人物として、先の黒鬼会事件にも加担していたのではないかと疑われたのだが、事の真相が明らかになる前に、本人はあっさりと病没してしまったのである。
いずれにしても、軍首脳の関係者に対して粗相があれば、米田司令に何か迷惑がかからないとも限らない・・・椿はそう考え、大人しく婦人に従うことに決めた。
「分かりました。ではお供いたします」
そう言って椿は、食堂の方から不安げに成り行きを見守っているつぼみを振り返った。
彼女に行き先を告げてから出かけようと思ったからだが、百目鬼夫人は、椿のその意図を見透かしたかのように厳しい声を出した。
「ちょっとあなた、宅の名前を気軽に話されては困りますよ。あなたを信頼して、特にお話ししたのですからね。百目鬼の家の者が下品な芝居に入れ上げているなど、外聞の良くないこと甚だしい。さ、早くいらっしゃい」
「・・・・・」
身分の高い人間というのは、皆このように非礼な物言いをするものなのだろうか。
さすがにムッとしたが、ここで短気を起こしても仕方がない。
椿は(心配ない)というように、つぼみにちよっと手を挙げて見せ、百目鬼夫人と一緒に劇場の玄関を出た。
自らの向かう先に待つ地獄を、この時の椿は想像だにしなかった・・・・。
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