(3)
百目鬼家の屋敷は深川にあった。
重厚な構えの洋館で、庭園も驚くほど広大である。
百目鬼夫人は、上流の暮らしぶりに圧倒されている椿を客間へ通し、自分はさっさと部屋を出ていってしまった。
「ひどくヘソを曲げている」という息子を呼びに行ったのだろう。椿はそう考えて待ったが、婦人は一向に戻ってこなかった。
所在なさに、出された紅茶を遠慮がちにすすっていると、上階かららしい、くぐもった声音が耳朶を打った。
「・・・継彦さんが・・・ママは感心しないけれど・・・・」
「・・・だって僕が・・・ママだって・・・・」
一方は百目鬼夫人で、応じている声は、病気療養中だという息子であろうか。
「ママ」というモダンな言葉が、妙に耳の底に残った。そしてそこで、椿の意識はプッツリと途絶えてしまったのだ。
闇の底で目覚め、得体の知れない声が「ママ」と言うのを聞いて、椿には、だからここが百目鬼邸だということは分かったが、何故自分が就縛されなければならないのかはまるで分からない。
「気分はどう?ちょっと頭がフラフラするかもね・・・」
「声」は相変わらずののんびりした調子で言った。
「とても強い催眠剤を飲んでもらったからね。ママが紅茶に入れておいたんだよ」
「ど、どうしてそんなことを?・・・」
どうやら百目鬼家総出で自分を虜囚にしたらしいことを知り、椿はすっかり動転した声を上げた。
「いくら私どもの粗相でお腹立ちにしても、いきなり縛り上げるなんてひどすぎます!私、新しいプログラムを持ってお詫びに伺っただけです。キチンと交換いたしますから解いてください!目隠しも外して!」
「プログラムの交換?・・・ああ、ママの話したデタラメのことだね?」
「声」はちよっと愉快そうに語尾を跳ね上げた。
「で、デタラメですって?」
「うん、あれはウソなんだ。・・・いや、歌劇団のお芝居は本当に好きだけど、不良品のプログラムというのは作り話だよ。ママが考えてくれた口実なんだ」
「・・どうして・・・」
呆気に取られ、椿は目隠しの下で目蓋を瞬いた。
この家の人間は、揃いも揃って、一体何を考えているのか。酔狂な金持ちの暇つぶしにしても、あまりに度が過ぎている。
「どうしてって、君をここに誘い出すために決まっているじゃないか。僕は君に会いたかったんだ」
「わ、私に?・・・」
「歌劇団のスターは、そりゃ綺麗だけれど、ああいう人たちは遠くから眺めているに限るよ。みんな気位が高そうだしね。・・・でも君は違う。朗らかで優しくて・・・だから僕は好きになったんだ・・・」
「・・・・・」
「・・・ずっと前から、帝劇に行くときは、売店で君に会えるのが楽しみだった。・・・だけど僕は病気にかかっちまって、もう帝劇には行けそうもない。だから逆に、君を僕の家に呼んだんだ。この先いつも一緒にいられるように。・・・そう、君は僕の『お嫁さん』になるんだよ」
「な・・・」
一瞬呆然とし、椿は言葉を失った。自分の置かれたあまりに非現実的な状況に、頭の中はパニック寸前であった。
「そ、そんなこと、私困ります!」
「どうして?」
と「声」は心底意外そうな様子で言い、
「自慢じゃないけれど、うちはなかなかの名家だよ。僕のお嫁さんになれば、贅沢な暮らしだって思いのままだ。それに君だって、ずっと僕のことを想っていてくれたじゃないか」
「そんな・・・私、あなたのことなんか知りません!」
「分からないな・・・何故そんなウソをつくんだい?」
「声」は、初めてイライラと怒気を含んだ調子になった。
「いつもいつも、僕が売店に行くたびに、君は心から嬉しそうに迎えてくれたじゃないか!それは僕のことが好きだからだろう?」
「・・・・」
どうやら、営業スマイルを個人的な好意と勘違いされたらしい。いや、それは「勘違い」などという生やさしいものではなく、声の主の、異常に偏執的なパーソナリティーによる、狂気じみた愛であるように思われた。そしてどういう訳か、親である百目鬼夫人までが、その偏執愛に手を貸しているらしいのだ。
(・・・そういえば百目鬼夫人は、会ったこともない私のことを、最初から知っていた。全部仕組まれていたんだわ。私をこの屋敷に連れてくるために!・・・)
恐怖が、体内にジワジワと高まり満ちてくるのが感じられた。自分が、この異常な「家」そのものに囚われてしまったことが、ようやく理解され始めていた。
「分かっているよ。君はちょっと照れてるんだよね。僕のことが好きでも、うぶな君には恥ずかしいという気持ちの方が強いんだ。だからつい、そんな素っ気ない態度を取っちゃうんだよね・・・」
闇の中で気配が動き、「声」の主の掌らしいものが、椿の頬を包むように愛撫してきた。
「病気」というのは皮膚病ででもあるのか、その指先はネットリと湿った感触で、ズルズルした膿のようなものが粘り着いてくる。
「い、イヤッ!触らないでくださいッ!」
薄気味の悪さと、身近に迫った陵辱の危機への恐怖から、椿は堪りかねたかのように大きな悲鳴を上げた。
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