神の造りし森「イヴァンの掌」の中央にある小さな花園は、正午の陽光の中で、宝石細工のようにキラキラと輝いていた。
モニカは身にまとった紺色のケープの前をややくつろげ、膝ほどの高さに茂った花の群落の中に立ち尽くしていた。
ひんやりとした森の中と違い、初夏の陽射しを一杯に蓄えた花園は、じっとしていても汗ばんでくるほどである。しかし張りつめたモニカの意識は、そんなことをまるで問題にしなかった。
かき消すように行方を絶った友人と、愛する妹。送り付けられたおぞましい挑発文・・・。
この数日の内に次々と起こった忌むべき出来事が、彼女の頭の中で渦を巻いていた。そしてそれらの元凶である邪悪な怪物に、自分はこれから決死の戦いを挑まなくてはならないのだ。
(しかし、本当に倒すことが出来るだろうか?・・・あのマグダレナやアイーシャまでが不覚をとった、恐るべき魔物を・・・)
完全に覚悟を決めてこの場に臨んだモニカではあったが、実際に敵と対峙することを思うと、やはり不安であった。
それは自身の運命を案じると言うより、のしかかる重責を果たしきれるかどうかという不安である。
もしも自分が敗れて命を落とすようなことになれば、妹たちも同様に、悪魔の手から逃れる術は無くなるのだ。
逆に言えば、彼女たちを取り戻すには、モニカは決してこの戦いに敗れるわけにはいかないのである。たとえ相手が、気の遠くなるような年月を生きた、不死身の怪物だとしても・・・・。
そのためにモニカは、自分に出来る限りの準備を整えて来ていた。
「!・・・・」
その時、「不死身の怪物」ベスマが、森の中からスーッと影のように姿を現した。そして花園の中央を音もなくスルスルと押し渡ると、あっと言う間にモニカと向かい合って立ち、微笑を浮かべて会釈した。
「・・・・」
やっとモニカの胸の辺りまでしか届かない背丈、華奢な体つき、あどけない笑顔・・・。
目の前に立っているのは、どう見ても十に満たない無垢な幼子である。しかし、こちらの心を圧倒するような禍々しい殺気が、その身体に沿って陽炎のように立ち登っているのを、モニカは見抜いていた。
「よく怖じ気付かずにやって来たねェ、モニカ・エランツォ。お優しい聖女様は、どんなに間抜けな妹でも、見捨てたりはしないんだね。それともあたしのことを、恐れるに足りないとナメてでもいるのかな?・・・」
相変わらず人を食ったように話しかけるベスマを、モニカは真っ直ぐに睨み据えた。
「言われたとおりに、私一人で参りました。アイーシャに会わせて下さい。それと、マグダレナや他の神官達も無事でしょうね?」
ベスマは微かに苦笑して見せて、
「一人で来れば会わせてやるなんて、矢文では一言も言ってないんだがな・・・。まあいい、お前の身の程知らずの勇気に免じて、妹の所へ案内してやるよ。なあに、心配しなくても、『家畜』共は全員生きてるさ・・・」
あざけるようにそう言うと、ベスマはついて来いというように手招きをして、再び森の中へと踵を返した。
慌てて後を追うモニカの前を、幼女の姿をした魔物は、紫のドレスをはためかせながら、まるで羽が舞うような軽やかさで足を運んでゆく。
東に向かって、ほんの十分ほど歩いただろうか。ベスマは不意に立ち止まると、モニカを振り返ってニヤリと笑って見せた。
そこは森の天井が一際密になって空を暗く覆っている場所で、二本の巨大な老木が折り重なるように倒れている以外には、何も目につく物はない。
「?・・・・」
妹に会わせると言ったのはウソで、相手はこの場で自分に襲いかかるつもりではないのか?・・・そう考えて身を硬くしたモニカには目もくれず、ベスマは右の掌を一杯に開くと、倒木の苔むした表面に押し当てた。
するとどうだろう!直径がモニカの背丈ほどもある老いた倒木が、みるみるその影を薄くして宙に溶けていくではないか!・・・
やがて二本の巨木が跡形もなく消え去った跡には、奥の深そうな洞穴が、楕円形の口をパックリと開けていた。
目を丸くして見つめるモニカに、ベスマは片目をつぶって見せて、
「この中が、あたしがねぐらに使っている所だよ。・・・実はこの辺りには、五十年ほど前にも一度来たことがあってね。その時にもこの洞穴を寝泊まりに使ったんだ。その後あたしは東の大陸へ渡ったが、またここへ戻って来るときのために、穴の入り口に結界を張って、他人の目に触れないようにしておいたって訳さ・・・」
するとこの化け物は、ここを拠点として、森を見回る神官達を拐かしていたのだ。
それにしても、五十年もの永きに渡って、神官達の目をごまかすほどの強力な結界を張るとは・・・。
敵の底知れない魔力を見せつけられた気がして、モニカは思わず身震いした。
「さあついて来な。お前の妹もこの中にいるよ」
そう言うと、ベスマは先に立って洞窟の岩壁を降り伝い、下から手を振ってモニカを招じ入れた。
穴は五メートルほど斜め下に下り、そこで折れ曲がって、長い横穴を成していた。
内部の岩肌はヌメヌメとした泥質で、森のあちこちに口を開けている他の洞窟と、何ら変わり無く見える。
囚われたアイーシャが、(ここは森の中の「滴の洞窟」の一つではないか?)と想像したことは、誤りではなかったのである。
モニカが斜坑を下りきった時、上で何かの気配が動き、小さく見えていた空を暗く覆った。結界が復活し、穴の入り口を再び塞いだのだろう。
もう後戻りの出来ない所まで来てしまったことを感じ、モニカは一層緊張を強めながらベスマに続いた。
「精霊の矢文」で見たとおり、穴の中はひどく薄暗く、所々に灯された蝋燭の明かりを頼りに、やっと進めるほどである。
奇妙なのは、壁や床、そして天井のそちこちに、コの字型の金具が無数に打ち込んであることで、そんな物は他の「滴の洞窟」では決して見られない。青黒く錆びついているところを見ると、五十年前にもここに来たというベスマが、その際に施した細工かもしれなかった。
しばらく進んだ所で横穴は二股に分岐しており、一方は小部屋状に行き止まりになっていた。その中にも蝋燭が一本灯されていて、床に広げられた敷き皮のような物を照らし出している。
「お前はここで待っていな」
そう言ってモニカを分岐に留まらせると、ベスマは一人だけ部屋に歩み入って床に屈み込み、敷き皮の上に寝転がされた人物を、億劫そうに後ろから抱え起こした。
「あッ、アイーシャっ!」
悲鳴に近い声を上げ、モニカが室内に身を乗り出す。
それは確かに、モニカの妹、「光の盾」の若き戦士、アイーシャであった。
手足の縛めは外されていたが、未だに一糸もまとわぬ全裸である。そして矢文を通して見たように、性の局所に惨たらしく打ち込まれた銀環もそのままであった。
とっさに駆け寄ろうとしたモニカを、ベスマは右手を突き出して素早く制止した。
「お前は部屋に入るんじゃないよ!この小娘の喉を引き裂くことくらい、訳もねェんだぜ!」
アイーシャの首に爪を当てて凄む悪魔に、モニカは思わずひるんで立ち止まる。
闇のエルフを名乗る怪物には、本当に、人の首を簡単にちぎり飛ばすだけの力が有りそうだった。
アイーシャは意識が無いらしく、ベスマの腕の中でグニャリと頭を垂れたままである。
「やめて下さい!妹を返して下さいッ!」
叫ぶように懇願するモニカを、ベスマは呆れたように見返して、
「馬鹿かァ、お前は?せっかく捕まえた生け贄を返してやるために、あたしがわざわざ矢文を送ったりする訳ないだろうが。光に仕える連中ってのは、全く頭が呑気に出来てるよ・・・」
そしていやらしい手つきでアイーシャの胸を揉み込みながら、
「ククククク・・・なかなか楽しませてくれたぜ、お前の妹は・・・。今度は姉のお前も味見をしてやろうってんで、ここへ呼び寄せたんだよ。大人しくあたしの家畜に加わりな!」
「とんでもないことです。私は光に仕えることを誓った身。闇に従うことなど出来るわけはありません。さあ、早くアイーシャを放してください!」
気丈に受け答えをしながら、しかし室内に歩み入ることもためらわれ、モニカは入り口に立ったまま歯がみをした。ようやく再会した愛する妹は、未だ悪魔の手中に魂を握られたままなのだ。
「お前の能書きなんざ聞いちゃいないんだよ、モニカ。お前には、観念して身も心もあたしに差し出すしか、選択の余地はないのさ。それに、今さら妹を連れ帰ったって仕方が無いぜ。ほら、これを見な・・・」
そう言うとベスマは、撫でさすっていたアイーシャの身体を、明かりの方にひねり向けて見せた。
「あッ!・・・」
ぼんやりと照らし出されたアイーシャの下腹部を一目見て、モニカは小さく悲鳴を上げ、口元を覆った。
そこには何かグロテスクな模様が、黒々と、まるで入れ墨のように浮かび上がっていたのである!
「そ、その文様は・・・」
「何だか知っているだろう?・・・そう、我が主、暗黒神ネラ様の紋章さ。こいつの腹の中には、すでにネラ様の種が宿っているんだ。お前の妹は、暗黒の母アイーシャ様におなりあそばしたんだよ!」
「お、おお・・・」
顔面を蒼白にして、モニカはその場にガックリとひざまずいた。
矢文を通して見た妹は、闇の者に囚われたとはいえ、未だ光の使徒としての誇りを失っていないことに救いがあった。しかし僅か一日の内に、その胎内に闇の種子までを植え付けられてしまったとは!
「何ということを・・・アイーシャっ!・・・」
絶望にかられ、全身をワナワナと震わせている聖女を、ベスマは楽しげに眺めながら、
「どうだい、連れて帰っても無駄だってのが分かったろう?・・・それとも、エルフの里で闇の御子を出産させるかい?きっと楽しい世界になるぜェ・・・」
あざ笑うように言うと、ベスマは、モニカの前に何かをバサッと投げてよこした。
それはアイーシャの身体を縛り付けていたのと同じ、あの肉色をした縄の束であった。
「さあ、お喋りはここまでだ。そいつで自分の手足を縛るんだよ。別に、動けなくなるほど念入りに縛らなくてもいい。手と手、足と足が、互いに結び合わさっていればね・・・」
「黒界鎖」と呼ばれるその闇の縄で、ベスマはアイーシャと同様に、まずモニカの神術を封じてしまうつもりらしい。
モニカはその縄の魔力を知らなかったが、思わず手に取るのをためらうと、
「さっさと言われたとおりにしないかい!妹だけじゃあない、他の三人のエルフの命だって、あたしの気分次第でどうにでもなるんだぜ!」
口汚く恫喝するベスマに、モニカは声を震わせて問い返した。
「あ、あなたは、それでもエルフの一族なのですか?・・・今は仕える神が違っても、元は同じ祖先から生まれた同族・・・その仲間に対して、どうしてこんな酷い仕打ちをするのです?」
「お前の妹も同じことを言ったぜ。ええ、脳天気な聖女様よ・・・」
ベスマはうんざりしたような表情を浮かべて、
「闇に従うわけにはいかないと言ったのはお前じゃないか。光の連中ってのは皆そうだ。闇を嫌悪し、蔑んでいるくせに、旗色が悪くなると、すぐに博愛をお説教しやがる。せこい奴等だ!」
吐き捨てるように言うと、再びアイーシャの首を鷲掴みにして、モニカを睨み付けた。
「手足を縛りなよ!それ以上聞いた風なことを言うと容赦しないよ!縛りなッ!」
悪魔の剣幕に圧倒され、モニカは思わずオロオロとうつむくと、投げ出された縄を手に取った。
しゃがみ込んだまま、両の足を、間隔にゆとりを持たせて縄で繋ぎ、続いて手首同士を、苦労しながら繋ぎ合わせる。
これ以上ベスマに逆らうことは出来そうもなかった。本当に捕虜を皆殺しにしかねないような凄まじい殺気が、悪魔の全身から迸っているのが感じられたからである。
「クククク・・・ようし、良く出来た・・・」
モニカが言われたとおりに手足を縛り終えたのを見ると、ベスマは再び上機嫌になって白い歯を見せた。そしてアイーシャを元通りに横たえると、モニカに向かって、招くように小さな手を振った。
「立ち上がってこっちへおいで、お優しいお姉様・・・」
「・・はい・・・」
ノロノロと立ち上がり、モニカは首を垂れたまま、しおしおと室内に歩み入った。
手足を繋いだ縄には、肩の幅ほどの長さがあるので、歩くのには何の不自由もない。しかしその縄は、モニカの最大の武器である神術を、使えないように封じ込めているはずだった。そしてモニカは、そのことを知る由もないのだ。
「クククク・・・」
目の前に立ったモニカを、小さな魔女は満足げに見上げて、薄ら笑いを浮かべた。そして獲物の肉付きを確かめるかのように、ケープの上からその身体を撫でさする。
「!・・・・」
思わず身をこわばらせるモニカに、ベスマはすっかり余裕を取り戻して猫なで声を出した。
「そう硬くなるなよ。大人しく言うことを聞いてさえいりゃあ、あたしはとっても優しいんだぜ・・・」
「やめて下さい。妹を返して下さい・・・」
同じ哀訴を繰り返しながら、モニカは泣き出しそうに歪んだ顔を伏せた。
打ちひしがれたその様子は、目前に迫った陵辱の危機に、半ば観念して身を任せようとしているかのようだ。
(・・・もう降参とは拍子抜けだねェ。強がりだけは一人前だった妹とは、エライ違いだよ。・・・もっとも、闇に堕したとはいえ、妹や友人を見捨てるわけにはいかないだろうからね。それが光の連中の甘っちょろいところさ・・・・)
内心ほくそ笑みながら、ベスマは自分よりはるかに上背のあるモニカをひざまづかせようとした。
五番めの美しい獲物は、もはや手中にしたも同然であった。例えモニカがこの期に及んで抵抗しようとしても、その武器である神術は、黒界鎖によって封じられているはずだからである。
しかしそこに、ベスマの油断があった。
悪魔の白い手が肩にかかった瞬間、モニカは驚くべき素早さでケープをひるがえし、体ごと相手にぶつかっていったのである!
「ぐおッ!」
獣のような咆哮と共に、ベスマはキリキリ舞いを演じて、岩壁に激しく叩きつけられた。同時に鮮やかな真紅の飛沫が噴き上がり、大輪の花のように壁を彩る。
ベスマは一瞬唖然として岩肌を眺めていたが、やがて驚愕の表情を貼り付かせたまま、ノロノロと自分の身体に視線を移した。
なんとドレスの左袖が大きく裂け、その下から大量の鮮血がほとばしっているではないか!
(これは・・・一体何事だ?・・・)
信じられないという面持ちで、朱に染まった左腕を凝視している悪魔に、我に返る間を与えまいとするかのように、モニカは再び突進を開始していた。
身体の正面に構えた両手は、ごく短いが、鋭い刃のついた曲刀を、しっかりと握りしめている。
それは光の神官たちが「ラグ(木の葉)」と呼んでいる、聖なる力を秘めた、護身用の短剣であった。
ケープの下に忍ばせていたこの凶器が、勝利に酔いしれていたベスマの左腕を切り裂いたのである!
「こ、こいつ・・・!」
眼前に迫った白刃に、ベスマはようやく事態を把握したかのように、鋭く呪いの言葉を吐いた。
信じられないことだが、狩られ、引き裂かれる寸前の獲物が、猛然と牙を剥いて抵抗し、しかもとるに足りないはずのひ弱なその牙が、自分に思いも寄らない深手を負わせたのだ!
「悪魔めッ、思い知れッ!」
叫びながら、モニカは決然として第二撃を繰り出し、それはよけ損ねたベスマの左の鎖骨の上に突き刺さった!
「がッ!・・・」
再び壁に叩きつけられたベスマを、短剣の次なる一撃が襲い、今度は同じ鎖骨の下側に深々と突き刺さる!
「グオオオーッ!」
吠え猛りながら、ベスマは敷き皮の上に倒れ込み、部屋の反対側まで転がり逃げると、手足を四つん這いに踏ん張った。
「・・・グハアッ・・・ガッ、ガハッ、ガハッ、ガハッ!・・・・」
猛然とせき込んだ口元から大量の血があふれ出し、床の上に飛沫を上げる。血は肩口からも止めどなく吹き出して、左腕を爪の先まで紅く染めていた。
「・・おッ、おのれ!・・・おのれ虫けらの分際でッ!・・・」
悪鬼の如き形相になって顔を上げたベスマを、背後から更なる追撃が見舞った。
右のふくらはぎと太股を立て続けに曲刀が抉り、さらに腰骨の上に、もう一撃が振り下ろされようとする!
「グワッ!・・・」
振り向き様に突き出されたベスマの右手をラグの剣がなぎ払い、小指と薬指が切り飛ばされて床に転がった。
モニカの攻撃は恐ろしく執拗で、しかも全く容赦が無かった。
妹、そして友人を謂われ無く辱め、平和な生活を微塵に踏みにじった悪魔・・・そのベスマに対する壮絶な怒りが、温厚な18歳の神官を戦鬼と変えていたのである。
「うお・・・お・・お・・・」
痛みに耐えかねたように仰向けに倒れ、力無く呻き声を上げるベスマを、モニカは殺気に満ち満ちた目で睨み据えた。
聖なる儀式によって念入りに清められた短剣は、不死身と思われた怪物に、想像以上のダメージを与えたようだった。
「地獄へ帰るがいい!汚らわしい闇の使徒めッ!」
修羅場の興奮と緊張から、半ば泣き声で絶叫し、モニカはとどめの一撃を振りかぶった。
(・・・これで全てが終わる・・・アイーシャの身体を闇で汚した報いをお受けなさいッ!・・・)
燃え盛る憤怒の全てを注ぎ込まれたラグの短刀が、ベスマの心臓に向けて、まさに打ち下ろされようとしたその時・・・!
「ぐふうッ!・・・・」
背後から、何者かに激しく喉元を締め上げられ、モニカは苦悶の呻きと共に身体をのけぞらせた。
(なッ、何?・・・)
うろたえ、息を詰まらせながら首筋に目をやると、そこには彼女が自分の手足を縛った物と同じ、肉色の縄が巻き付いているではないか!
そしてその両端は、背後にいる何者かによって、信じられないような強力で引き絞られているのだ。
全く、思いも寄らなかった攻撃であった。
「うう・・くッ、くうッ・・・」
呼吸がままならず、モニカはたまりかねてガックリと膝をついた。
(・・・迂闊だった。別の敵が潜んでいたとは・・・。だけど私は、絶対に負けるわけにはいきません!・・・・)
気を失いかけながらも、モニカはまだ闘志を失っていなかった。
ここで自分が倒れれば、妹を、友人を、この闇の牢獄から救い出す者は誰もいなくなるのだ。使命の前に立ちふさがる敵は、それが誰であれ、八つ裂きにしてやる覚悟であった。
ベスマの返り血でヌルヌルする短刀をしっかりと握り直し、背後で恐るべき力を振るう未知の敵に対して突き立てようとした時、その何者かが、囁くような声でモニカの耳元に語りかけた。
「・・・いい加減に観念しなよ、お姉様・・・」
「!!!・・・」
聞き覚えのあるその声に、稲妻で打たれたようなショックを受け、モニカは締め上げられた首を何とか捻って、背後を見上げようとした。
・・・そこには・・・!
そう、彼女の愛する妹、共に光に仕えてきた聖女アイーシャその人が、ベスマと同じ邪悪な形相を浮かべて覆い被さっていたのである!
「身の程知らずめ、よくもベスマ様に赤いものを付けてくれたね!思い知らせてやるから覚悟おしッ!・・・」
怒りにたぎった声で恫喝しながら、アイーシャは、黒界鎖を引き絞る手にさらに力を込める。口調までが、ベスマそっくりに蓮っ葉になってしまっていた。
(あ、アイーシャ、あなた・・・)
胎内に宿った暗黒の子の影響で、その精神までを、完全に闇に乗っ取られてしまったのに違いない。
モニカが命をかけてまで救い出しに来た妹は、すでに別の世界の住人と化してしまっていたのだ!
「う・・ぐ・・・」
絶望感が一気に押し寄せるのと同時に、肺に残った最後の息を使い果たして、モニカはガックリと首を折った。
意識を失うその一瞬、目の前に倒れているベスマが、深手を負った半身をゆっくりと起こしかけるのを、モニカは見た。
血でまだらに汚れたその顔は、しかし元のように、あざけるような微笑を取り戻していた・・・・。
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