「ふうッ・・・」
午前中に依頼主への報告を一件片付けると、青井慎也は事務所内のデスクチェアに深く身体を沈めて溜息をついた。
彫りの深い端正な顔は赤銅色に日に焼け、胸元には引き締まった筋肉が盛り上がっているのが、スーツの上からでも良く分かる。しかし健康的な肉体の印象とは裏腹に、彼の表情には、疲労と苦悩の色が濃く滲んでいた。
駆け出しのP・I(私立探偵)として独立してから二年・・・・今では四人の助手を使うまでになった彼は、この業界で一応の成功を収めつつあると言えるだろう。・・・にもかかわらず、日々これほど胸が塞ぐのは・・・。
(そう・・・あの娘のことがあるからだ・・・)
心中でそう一人ごち、慎也は左腕にはめた時計型のデジタルコミュニケーター(電話その他の情報端末が一括搭載された機器)に軽く指を触れた。
青く透き通った表示基部がやや明るくなり、その上の空間に小さな表示キューブが形成された。そしてその中に、登録しておいた知人らのアクセスコードが、カテゴリー別に配列されていく。
彼はしばらく首を捻って逡巡していたが、やがて思い切ったように、コードの一つを指でなぞった。
ピッという微かな音と共にそのコードが明滅し、先方へのアクセスが確認されると同時に、表示色が緑からオレンジに変化する。
「はい、早坂です・・・」
若く瑞々しい女性の声が、コミュニケーターから弾むように流れ出た。
「やあ恵麻里ちゃん、僕だよ」
「・・・慎也さん・・・」
通話相手・・・早坂恵麻里の声が冷たくこわばったのを察知して、慎也は慌てて言葉を継ぐ。
「元気かい?ずいぶん長く会っていないけれど・・・」
「わ、私・・・・」
「一度ゆっくり会って話がしたいんだ。今晩食事なんかどうだろう?」
「・・・・・」
通話口の恵麻里は暫く考え込むかのように無言だったが、やがて決然とした声を出した。
「この間も言ったとおり、お話しすることは、もう何もないと思うわ」
「いや僕は、ただ誤解を解いておきたくて・・・」
「誤解なんて!・・・」
必死に感情を押し殺そうとしていたらしい恵麻里の声がヒステリックに跳ね上がる。
「誤解だなんて、何もないわそんなの!あなたは父と、そして私の信頼を裏切った!そんなあなたと今さら何を話せというの?」
「恵麻里ちゃん、僕は・・・」
「それに私、今夜は忙しいの。一刻を争う仕事があるのよ」
そう言われて慎也は、コミュニケーターの向こうで、ハイブリッドエンジンの音が低く唸り続けている事に漸く気がついた。
「今、車に乗ってるのかい?一刻を争う仕事って、S・Tのことじゃないだろうね?」
「おっしゃるとおり、S・Tに出かける途中よ。これが私の仕事だもの」
「恵麻里ちゃん、聞いてくれ・・・」
と慎也は我知らず強い口調になり、
「僕は君に、一刻も早くその仕事を辞めさせたいんだ。S・Tは危険極まりない、言ってみれば綱渡りの様な仕事だ。18才の女の子に続けられる生業じゃないよ。これまでは何とか無事に渡ることが出来たかもしれないが、今日は綱から落ちないという保証はどこにも無い。僕自身、二年前までS・Tをやっていたから良く分かるんだ」
「そうね、確かにこの業界の事は良くご存じでしょうよ」
諭すように言われたのが気に障ったのか、恵麻里は皮肉な口調になった。
「あなたは、名S・Tといわれた私の父の元で助手をしていたんだもの。その父は病気で亡くなる時に、あなたに事務所を継いで欲しいと言い残した。でもあなたはさっさと独立して、自分の事務所を構えたわ。あれだけ父に目をかけてもらっておいて、一体何が不満だったの?」
「不満だなんてとんでもない!その誤解を解きたいんだよ!」
「解いていただかなくて結構よ。気にかけて下さらなくても、早坂探偵事務所は私が立派にやっています。父の遺志を継いでね!」
「待ってくれ恵麻里ちゃん、僕が独立した訳は!・・・」
「さようなら!もう電話しないで!・・・」
恵麻里の声がまるで泣いているように細く掠れ、同時にデジタル回線が切断されて、コミュニケーターは沈黙した。
「・・・・・」
西向きの窓から午後の陽光が射し込み始めた室内で、デスクに向かった慎也は、長い間じっとうつむいたまま動かなかった・・・。
→次章を読む
→3へ戻る
→最低書庫のトップへ
|