「ここは・・・・」
呆気にとられたような声でつぶやき、恵麻里は全裸で立ちすくんだまま周囲を見回した。
彼女が今いるのは、コンクリ製の床も壁も一様に薄汚れた廊下の中ほどである。天井には等間隔で蛍光灯が灯っているが、その光量はひどく頼りなく、窓のない廊下の両端は闇に沈んでいて見通すことが出来ない。
通路の両脇にはスチール製のロッカーだのガラクタらしい物が入ったダンボール箱だのが雑然と置かれ、ただでさえ狭いその幅を、ようやく人一人が縫って歩ける程度にまで窮屈にしていた。
(一体、何処なの?・・・)
まるで見覚えのない場所だった。少なくとも、最前までいたはずの「サンクチュアリ」とは違う建物内だ。
一見老朽化した学校校舎か、何かの研究所然として見えるが、人の気配は全くない。しかし照明用の電気が通っているのだから完全な廃屋だとも思えない。
自分が何故、こんな見も知らぬ場所に立っているのか、恵麻里は思い出せないでいる。
目の奥に寝不足のようなズンと重たい不快感があり、それに引きずられるように頭が上手く働かなかった。
「あ・・・・」
無意識に一歩足を送った瞬間、恵麻里は襲ってきた感覚に狼狽えた声を上げ、無意識に腰をこごめたような姿勢をとった。
股間に植え付けられたバイオチップによる、
今や馴染み深い、しかし忌むべき背徳の味だ。そしてそれが皮肉にも、いささか虚(うろ)が来ていた恵麻里の思考能力にムチをくれた。
(そうだわ、私、クリスに連れ出されて・・・・)
記憶がおぼろげに甦ってくる。
・・・監禁室へやって来たクリスは、いつものように犬用の散歩紐で恵麻里を引き従えて部屋を出た。
首輪に繋がれた鎖が、室外に出るときはこのナイロン紐に付け替えられるわけだ。
「サンクチュアリ」に幽閉されて間もない頃、恵麻里はこの移動の時を狙ってアゲットやクリスを投げ飛ばし、そのまま逃走できないかと思案したことがある。しかしそれは、実際にはとても不可能だと思えた。
バイオチップに冒された身体では素早い身ごなしはとても出来ないし、何よりも静音の安否が不明だったからである。
5日前にクリスのオフィスルームで別れて以来、恵麻里はただの一度も静音と面会を許されていない。
彼女が「サンクチュアリ」内のどこに幽閉され、どんな仕打ちを受けているのか、それともすでに別の施設へ移されたのか、恵麻里には皆目分からなかった。
運良く自分が脱出に成功したとしても、残された静音がどんな目に遭わされるか分からない・・・そう考えると、恵麻里は一か八かの賭けに出る勇気を挫かれてしまうのだった。
・・・後で分かったことだが、静音はこの5日間、すぐ隣の部屋に閉じ込められ、恵麻里と同じように身体と精神をなぶり苛まれていたのだ。
だが部屋の防音が完璧だったため、恵麻里は壁一枚隔ててすすり泣いている親友の気配すら感じ取ることが出来なかった。同様に静音の方も、隣室に恵麻里が囚われていることに気付かなかったのである。
ところでクリスが恵麻里を連れだす際、その行き先は大抵決まっていた。同じ三階にある彼女のプライベートバスルームだ。そこを淫らな調教に使うのである。
しかし今日は勝手が違っていて、クリスは連れ出した恵麻里をすぐ東隣の部屋へと導いた。
監禁室とフロア東端の手術室に挟まれた位置にあるその部屋に、恵麻里はまだ一度も入れられたことがなかったのだが・・・。
(クリスと一緒に部屋の中に入ったことまでは覚えているわ。でも、その後・・・・)
その部屋の中で何があったのか、そしてそこから、自分はどうしてこんな場所へやって来てしまったのか、どうしても思い出せない。何か忌まわしいことがあったような気がするのだが・・・。
改めて全裸の我が身を見下ろしてみると、嵌められていたはずの首輪も無くなっている。
(とにかく、ここが何処なのか調べないと・・・)
そう思い直し、恵麻里は軽く屈んだ姿勢のまま壁に沿って歩き始めた。
ジッと立って考えていても埒が開かないし、この建物内をくまなく調べれば、現在の我が身の状況について何か手がかりがつかめるかもしれない。
否応なしに秘所を甘く突き上げてくる性感を堪えながらしばらく進むと、前方左の壁に大きな観音開きの扉が見えてきた。その前の床だけはガラクタ類が綺麗に片づけられている。最近も人が出入りしているような雰囲気だった。
取っ手を握り、スチール製らしい観音扉を手前へ引き開ける。と、そこには廊下同様に暗く、薄汚れた部屋があった。
見たところは2〜30平米がせいぜいといったところだろうが、間仕切り代わりらしいロッカーがいくつも並べられていて、それが奥までの見通しを妨げている。
(誰もいないのかしら・・・)
室内の静けさがかえって不気味で、ソロソロと忍び歩くようにロッカーの向こうへ回り込んだ恵麻里は、そこで奇妙な物を発見した。
位置的にはちょうど部屋の中央部近くになるだろう。天井に一つだけ灯っている蛍光灯の直下に、えんじ色のビロード布が、何か円筒形の物を上から覆うような格好で直立している。
布の下端は床までをゆったりと覆っているので、中にあるのが何かは分からない。天井近くまで高さがあるので、かなり大きな物であることは確かだが・・・。
布をまくり上げようと手を伸ばしかけた恵麻里は、しかし瞬間異様な感覚に打たれて弾かれたように後じさった。
(なッ・・・・)
六感と言うべきか、無意識がけたたましい警告音を鳴らしていた。
何かは分からないが、布の下には恐ろしい物が潜んでいる。見てしまったら最後、正気をも揺るがされかねない何かが!
しかしただ恐ろしいだけではなく、どうしてでも「それ」を見たい、いや見なければならないという直感も、同時に恵麻里の中にあった。怖いもの見たさともまた違う、何とも奇妙な啓示感覚である。
(一体何があるの?この中に・・・・)
激しい動悸を静めようと胸元を押さえ、逡巡したままその場に立ちつくしていると・・・・
「どう?恵麻里ちゃん」
不意に背後から声が掛かり、恵麻里はギョッと身を竦ませて振り返った。
いつからそこにいたのか、黒いワンピース姿のクリスが腕を組んですぐ側に立ち、何か点検でもするかのように、フンフンと頷きながら室内の様子を見回している。
「ちょっと俗っぽいけど、それなりに雰囲気出てるでしょ?ねえ」
「な、何のこと?」
相手の言う意味が分からず、恵麻里は不安げな声音で問い返した。
この五日間でクリスに対する恐怖心があまりに強く刷り込まれてしまっていて、面と向かうと我知らずに身体が縮こまり、おずおずとした物腰になってしまう。それでも、この不可思議な状況について問いたださずにはいられなかった。
「ここは一体何処なの?あなたが私をこんな所へ連れてきたの?どうして?・・・・」
「あらあら、記憶が混乱しているみたいね。大丈夫、よくあることよ。すぐに何もかも思い出させてあげる・・・」
クリスはフフッと含み笑いをして、
「まず『連れてきた』っていうのは間違いね。あなたは『サンクチュアリ』から一歩も出ていないわ。出荷前の大事な商品だもの、そうそう外をブラつかせるわけがないじゃない」
「で、でも・・・・」
思わず恵麻里は周囲へ視線を送る。クリスはそれに気が付き、再び愉快そうに笑い声を立てた。
「この景観は、ただこんな風に見えているだけよ。というよりは、見えているような気がしているのね。・・・要するに、ここは夢の中なの。あなたは夢を見ているのよ、恵麻里ちゃん」
「ゆ、夢?・・・・」
呆気にとられ、恵麻里はまじまじと相手の顔を凝視した。
現実のような夢というのはあるだろう。しかし現在の自分がそれを見ているとはとても思えない。
確かに目覚めているという自覚があるし、踏みしめた素足の下には固いコンクリ床の感覚がある。何らあやふやに感じられるものがないのだ。
万一にこれが「夢」ならば、通常寝ていて見るものではない、何か異常な方法で見させられているものとしか・・・・。
「あッ!・・・」
短く声を上げ、恵麻里は口元に手を押し当てた。ボンヤリしていた記憶が、みるみる頭の中で輪郭をクリアにしていくのが分かる。
(あの機械だわ!・・・・)
彼女の頭に浮かんでいるのは、最前クリスに連れ込まれた部屋の様子だ。そこにその「機械」はあったのである。
「思い出したようね。そう、ここは『サキュバス』が見せている仮想世界よ」
クリスは言って、足でトンと床を踏んだ。
「仮想だけれど、この中にいる限りはまずそれを認識できない。触感も、暑さ寒さも、何もかも完全にシミュレートされているわ。夢だけれど、覚めない限りはあなたにとって現実なのよ」
・・・「サキュバス」というのは、ハイテクによって作られた娯楽用バーチャル体験システムのことである。と言っても、旧時代のように視覚や音声で仮想空間を擬似体験させるものではない。
サキュバスは、電気的な仕掛けによって人間の脳神経に直接働きかけ、利用者の精神を別世界に送り込むのだ。
見る夢をどんなものにするかは、機械の制御によってコントロールが出来る。今恵麻里が見ているような世界も自在に作り出せるのだ。これを利用すれば、身体の不自由な人でも居ながらにしてあらゆる娯楽を疑似体験できる。
しかしその仮想世界が完璧な現実感を持つだけに、サキュバスは開発当初から悪用されることを懸念されていた。そしてその懸念は現実となったのである。
常識はずれに高価な機械であることから一般での需要は無かったが、犯罪組織はこぞってサキュバスを購入した。
実際にはあり得ないことを体験させられるのだから、使い方によっては大掛かりな詐欺等、あらゆる犯罪に利用できる。
また淫らな仮想体験をさせる秘密クラブなども多数作られ、大金を取って客を集めたりした。
当然犯罪防止上も風紀上も好ましくないということになり、国際的にその生産、使用が禁止されたのだが、犯罪組織が一度手に入れた金儲けのタネを容易に手放す道理もない。多くのサキュバスがその後も犯罪に利用され続けることとなった。そしてそのうちの一台が「新世界準備会」に秘匿されていたわけだ。
サキュバスの外観はつぶれた四角錐状で、面の一方に金属製の寝台が付いている。人型にえぐられたそこに利用者は身を横たえ、神経へのコネクターを兼ねた拘束ベルトで固定された後、夢の世界へと送られるのだ。・・・自分もクリスによって無理やりサキュバスの寝台に寝かされたことを、恵麻里はようやくハッキリと思い出した。
「今回、基本的な夢の『シナリオ』は私が書いて、サキュバスに入力してあげたわ」
クリスは得々と喋り続けている。
「と言っても、今こうして私とあなたとで任意の会話が成立しているように、細部はどうにでも変化するんだけどね。サキュバスには私のパーソナルデータも入っているから、それとあなたの無意識によって、現実と変わらない会話のシミュレートが・・・」
「一体どういうつもり?」
たまりかねたようにクリスの言葉をさえぎり、恵麻里は言った。これが夢ならば、その登場人物であるクリスと真面目にやり取りをするのは馬鹿馬鹿しくも思えるが、問わずにはいられなかった。
「こんなチープな仮想世界に私を放り込んで、それでどうしようっていうの?まさかガメていた非合法マシンの自慢をしたいってだけでもないでしょう」
「あら、そんなこと当然よ」
仮想のクリスは、現実の彼女そっくりの酷薄なニヤニヤ笑いを浮かべ、
「ここはバーチャルの世界。現実にはあり得ないことも、この上なくリアルに体験することが出来る。でもそれは楽しいことばかりじゃないわ。・・・痛みや苦しみ・・・人にとってあまり歓迎したくないことも、自在に仮想体験出来るのよ」
「・・・・・」
「分かるでしょ?サキュバスは拷問用の道具としても使えるの。実際某国の秘密警察ではコッソリその目的で使用しているとも聞くわ。どんなに筋金入りの反政府活動家でも、この拷問にかかればアッと言う間に音を上げて、何でもベラベラ喋っちゃうそうよ」
クリスはグイと身を乗り出し、恵麻里の肩を上から押さえ付けて、その顔をのぞき込んだ。
「あなたにもそれを味合わせてあげる。一見屈服したように見えて、なかなか本当には鼻っ柱がへし折れてないみたいだからね。今度こそそいつをブチ折ってやるわ」
「は、放してッ!」
相手の異様な物腰に思わず恐ろしくなり、恵麻里は肩にかかった手を振りほどこうと身をもがくが、股間のバイオチップは例え夢の中でも激しい身体の動きを許してくれない。
「あッ、うッ!・・・」
下腹部を焼くような官能美にたまらずヒザと腰が砕け、その場にくたくたとしゃがみ込みそうになる。その恵麻里の髪をクリスは鷲掴みにし、乱暴に引き起こして一方の壁へと押さえ付けた。
それまで気が付かなかったのだが、壁には分厚いビニール製らしい黒いベルトが多数作り付けになっており、何とか抗おうとする恵麻里の手足を、クリスはそれで手際よく拘束していく。アッと言う間に恵麻里は、それぞれの手足の2カ所ずつ・・・肩の近くと手首、太股の付け根とくるぶし・・・をベルトで締め上げられ、四肢を放射状に開いた格好で壁に張り付けられてしまった。
「フン、私の作った夢の中で、いくら逆らおうったってムダに決まってるじゃないの」
未だ儚く身をもがいている恵麻里を嘲笑し、仕上げのようにその首をベルトで固定しながら、クリスは部屋の奥へ向かって大声を上げる。
「ちょっと、そろそろ出てきて手伝ってよ!」
その呼びかけに応じるようにロッカーの向こうでゴソリと人の気配が動き、ついで小柄なその人物がノソノソと部屋中央へ現れた。
「ひッ・・・」
恐怖と嫌悪に、恵麻里ののどが痙攣したような音を立てる。それは邪悪な魔法医師、カルビン・アゲットその人だったのだ!
「ようこそ、お嬢ちゃん」
汚れた歯をむき出し、アゲットは惨めに展翅された恵麻里に顔を近づけた。
「ここはワシの・・・まあ夢の中での仕事場じゃよ。少々薄汚れとるが、以前ワシが勤務していた研究施設がイメージモデルになっとる」
「能書きはいいから、この娘にアレを見せてやって」
クリスがアゲットの肩に手をかけ、布のかかった例の円筒の方へと押しやる。床に散らばった古書類をガサガサと踏みながら、老医師は円筒の側に立った。
彼のその無頓着な気配を、恵麻里は今まで何故全く察知できなかったのか?クリスもそうだが、まるで今この瞬間に、いきなり室内に出現したかのようだ。
サキュバスによる夢の世界というクリスの言葉には未だ半信半疑だが、そうでなければこの不可思議は説明が付かない気もする。
「キョロキョロしてないで前をお向き!」
不安と混乱からオドオドと視線をさまよわせている恵麻里の頭をクリスは再び乱暴につかみ、正面を向かせた。丁度まっすぐ前方に、布のかかった円筒と、側に立つアゲットが見える。
「あの布の下に何があると思う?」
恵麻里の頭を押さえたまま、クリスは舌なめずりをしそうな声音で言った。
目がキューッと三日月型にたわみ、潤んだような鈍い輝きを放つ。彼女独特の、嗜虐心が高ぶった時の目つきである。これが本当に機械の演算したイメージならば、サキュバスはまさに完璧なバーチャルマシンと言えるだろう。
「・・・『運命』よ。あそこにはあなたの運命があるの。この夢の中で、あなたがこれからどうなるかっていう運命がね・・・・」
「・・・・・」
「さっき『チープな仮想世界』だなんて言ってくれたわね。これを見てもまだそんな軽口を叩けるか楽しみだわ。アゲット、外していいわよ!」
クリスの芝居がかった合図に苦笑しながら(こんなところまで現実ソックリだ)、アゲットはさも面倒そうに上布を引き下ろした。
布はスルスルと床に落ち、その下にあった物が天井の灯りを鈍く反射する。
・・・それは上下を金属製のパーツで閉じられた、透明の樹脂製らしい、相当に大径の円筒であった。中は空洞で、オレンジがかった溶液が満タンに詰められている。そして・・・・
「いャアアアアアアアアアーッ!!」
溶液中に浮かんでいるモノを一目見て、恵麻里の紅唇から、辺り中の空気を切り裂かんばかりに凄絶な悲鳴が上がった。
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