●捕獲

「じゃあね」
「じゃあね!!」
 通ってた中学の前。明るい声でバイバイって手をふる幸美と妙子に、僕・・・久坂勇(くさか・いさみ)も「じゃあね」って手を振り返した。仲のいい友達。クラスも一緒の二年一組、部活も一緒の剣道部。僕らは3人とも身体を動かすのが大好きで、クラスの男子からは男女3人組なんてからかい半分に呼ばれたりもしていた。けど、そんな呼ばれ方、気にならない。3人で一緒にいるのはほんとに楽しかったし、スポーツも大好きだったから。部の練習は辛かったけど、3人でなら楽しくて、下校の時間がすっかり過ぎちゃうまで、3人で残って練習してる日だって珍しくはなかった。
 その日も、そんな、いつも通りの夜だった。真っ暗な空に、ぽっかりと満月。自転車に乗って去っていく友達を笑顔で見送ってから、僕は自分の家に向けて歩き出した。僕の家は山の方のミカン農家で、みんなとは帰りが反対方向なのだ。方向が一緒だったら帰るまで幸美たちと一緒に騒いでいられるんだけど、こればっかりは仕方ない。
 竹刀を天秤棒代わりに防具袋を担いで、ため息なんかついて、僕は夜道を歩いていく。同年代のコよりも小柄で軽い(それをどうにかしたくて剣道部に入ったのに、僕はいつまでたってもクラスで一番のチビだった。悔しい)僕には防具袋はでっかくて、バランスを取るのにちょっと苦労するけど、そんなのには、部活を続けてる間に、もう馴れちゃった。家まで20分。別に全然苦労はない。でも、もう少ししたら、上にコートとか着ないと、きっと寒くて歩けなくなる。家のあたりは、もう夜中になると壁から沁みこむみたいな寒さが来るようになっている。きっと、朝夕寒くて仕方なくなるまで、何日もかからない。
 
 山沿いの緩い勾配。屋根みたいに木の枝が張り出した下の道は、懐中電灯も役にたたないくらい暗くて、いつでも静かに葉ずれの音がする。昼間に通れば、道の上はいつでも落ち葉がいっぱい積もっているのがわかるんだけど、闇の中では、落ち葉を踏むかさこそって音は、なんだか枯葉を踏む音には聞こえなくて・・・なんだか、オバケでも出てきそうな気がする。ちっちゃいころ、僕は夜のこの道が恐くて、一人じゃ絶対通れなかった。
 けど、今ではすっかり馴れて、恐くもなんともない。もし懐中電灯を消したって、目を閉じたって、身体が道筋を覚えてるだろう。
 このトンネルを通りすぎると、上がっていく林道と、家の方に向うちょっと下りの道に分かれる。
 道の分かれ目にはちっちゃい氏神さんの祠と、山の方ではここだけしかない街灯・・・・街灯って言っても、いつからここにあるのかわかんないような木の電柱に、裸電球が灯ってるだけなんだけど・・・が、ある。裸電球の灯りはちょっと控えめで、闇を駆逐するってワケにはいかないけど、でも、灯りが見えると、やっぱりホッとする。家まであともうちょっとだって思うと、凄く気分が軽くなる。

 だけど、その日は違った。

 氏神さんの前に、誰かうずくまっていた。営林署の人みたいな作業服を着た、たくましい男の人。うずくまって、薄暗い電灯の下でも、ブルブル震えてるのがわかる。
 苦しいの?見ただけで、普通じゃないのが解る。うめくみたいな、低い震える声はまるで冷たい水から上がって、震えてるみたいなかんじだった。顔はこっちからじゃ見えなかったけど、日焼けした太い腕が、脂汗でべったり濡れてるのがわかった。こんなに、涼しいのに。
「あの」
 僕は防具袋を下ろして、思わず男の人に駆け寄っていた。だって、心配だったから。すぐ近くにしゃがんで、男の人に目線をあわせようとする。
「あの、大丈夫?苦しいの?僕の家、この近くだから・・・」
 うめき声が小さくなって、男の人が顔を上げた。

 僕はあれから、いつも考えてしまう。あのとき、あんな人は無視して、走って家に帰ったら、あんな目には遭わずにすんだんだろうかって。
 それとも、そんなことしたって、結局無駄だったんだろうか?
 起きた出来事は変わらない。変わらないけど。

 男の人が顔を上げた。多分、僕のお父さんより少し若いぐらいのおじさんだった。脂汗にまみれた、垢じみた顔が、目を開いて、僕の方を見た。
 その目が、真っ赤に輝いていた。
「・・・!」
 電灯が反射してるんじゃない。錯覚でもない。白目の無い、一面真っ赤な目が眼窩の中に嵌って、おこした炭みたいに赤く輝いていた。
僕は、その赤い目を見た瞬間、背筋にぞっと寒気が走るのを感じた。見たらいけない物を見てしまったような気分。恐いような、重苦しいような気分。
 離れなくちゃ!
 心配していた気持がどこかに吹き飛んだ。絶対にこの人の傍にいたらダメだって、僕の中の誰かが必至になって叫んでいた。
 にやあっ。男の人が、笑った。すごく、嫌な笑顔。ただ笑っただけなのに、その笑顔が、凄く恐かった。
 僕は、弾けるみたいに立ち上がって、背を向けた。
 恐い。恐い。恐い!!
 不安が膨れあがる。すぐに逃げなくちゃ!走ってここから逃げなくちゃ!
「あ!?」
  でも、僕は、走り出せなかった。駆けだそうとしたとたん、何故か、右足が動かなかった。倒れる。いつのまにか、男が僕の脚を掴んでいたんだって気付いたのは、倒れてしまってからだった。
「ぁ、ああっ」
 離して、とか、やめてよ、とか、言いたいことはいっぱいあったけど、どれもぜんぜん言葉にならなかった。振りかえると、男の顔がそこにある。はいずるようにしてその顔から逃げようとする。だけど、男の手は万力みたいに僕の足首を掴んで離さなかった。ぎしっ。骨が軋むような音。激痛。
 男が、また笑った。楽しそうに。そして、僕の脚を軽く引っ張る。本当に気軽な、力の篭ってない動きなのに、たったそれだけど、僕の身体は男のもとに引き寄せられてしまう。
「あ、や、あっ、離して、離してっ!」
 やっと言葉が出た。悲鳴も上げられなかった。ただ恐くて、そこから逃れることにばかり気が行って。必死になって脚を振る。自由なもう一方の足で、男の肩を蹴りつける。がつん。岩でも蹴ったみたいな、重くて固い感触。男はちっとも痛そうじゃない。ただ、楽しそうに、ほんとに楽しそうに笑って、僕を見ていた。なにか、楽しみで仕方ないって顔。
 僕が恐がってるのを、楽しんでる!?一瞬、そう思った。だけど、すぐにそれが間違いだってわかった。だって、男は僕の顔なんか見てなかった。引きずられて、半分まくれあがったスカートの中を、じいっと見ているのが解った。
 僕の脚。細い太腿を見ているって。そして、その奥を見ているって、解った。
「や・・・」
 男が何をしようとしているのかが、解った。そういうことがあるって、知ってはいたこと。だけど、自分の身にそれが起きるなんて、考えてもみなかったこと。
 男が、自由な片手をぬうっと伸ばして、暴れていた僕の左足を掴んだ。それだけで、もう、僕は逃げることもできなかった。
 男が笑った。ただじっと、僕の脚を。まだスカートに隠れているその奥を眺めていた。真っ赤な目が、光を増したように見える。
「いや、いや、いやーーーーーっ!!」
 恐怖のままに、叫んでいた。勝手に涙が出た。
 だけど、僕の悲鳴は、誰にも届かなかった・・・・。


→進む

→戻る

→闇卵のトップへ