第八話『 無音の美少女 』

 
 (視点・宇喜多翔子)







「深雪、大丈夫?」

 ゆっくりと加速していく自動自走車の車中。

 私は新品同然のハンカチを差し出す。

「はい……」

「ありがとう、翔子……」

 深雪はそれを受け取って、涙目の目元を拭う。人前で鼻をかまない辺りは、お嬢様育ちだからなのだろうか。

「これ、洗って返すね……」

「いいよ、それぐらい」

 深雪の涙が染み込んだハンカチ。そのままの方がきっと高く売れるだろうな、と思ってしまった。

 勿論、本当に売るつもりはなんてないよ。経済的に厳しい私の、悲しいまでの習慣がそう思わせてしまった、と言い訳させてほしい。

「あぁ…あ。言えなかったなぁ……」

「……だね」

 深雪は恐らく、言いたいことが多過ぎては言葉に詰まり、何か一つを言う前に榊原先輩に阻まれてしまっていた。

 もし、ゆっくりとした時間と順序立てて質問できる冷静さがあれば、深雪はこう言っていたのではないだろうか。

「義久様は私のこと、憶えていらっしゃいますか?」

「義久様は今、付き合っている人はいますか?」

「義久様の連絡先を、私にも教えて貰えますか?」

「義久様。解かりますか、私はあの時の深雪ですよ?」

「明日も、また逢えますか?」

「私と付き合って貰えませんか?」

「義久様のことが好きです」

(……勿論、これは私の憶測)

 さすがに後半の方はいきなりに過ぎるかもしれない。出逢って早々に愛の告白をするなんて、なかなかできることじゃないよ。



 それだけに自走車の隣に座る彼女を見て、私は何度も疑問を抱かずにはいられなかった。

 これが本当に……あの『南部深雪』?

 …かと。



 本当は、彼女は全くの別人で……

 これは何かの間違いじゃないのか……とさえ。



 正直に言うよ。

 これから帰寮する女子寮『ラキシス』の、私の相部屋の相手が『南部深雪』だと解かった時……私は正直に「それは嫌だ!」と思ったよ。寮長に頼んで、部屋替えを真剣に悩んでいたほどに。

『どうした、宇喜多?』

 厳粛という言葉を絵に描いたような、そんな人物の寮長が怪訝そうに問いかける。名前は『丹羽玲子』といい、年齢は三十代前半ぐらいか。横に細長い眼鏡をかけ、鋭い眼光には毅然とした知性と厳しさを感じられる。

『もしかして…南部とは顔見知りか?』

『い、いえ……』

 顔見知りと言えるほどのものではない。

 話をしたことさえなかった。

 ただ私はこの女子寮『ラキシス』に無償で入寮した身分。西条高等部の特待生として、学費の全額免除。その私に提供された部屋だ。

 そんな我儘は言えた義理じゃない。

 それでも……





 まず、私の話をしよう。

 深雪の話はそれからで許して欲しい。





 私こと『宇喜多翔子』は、中国地方岡山県の「宇喜多家」の三女……三姉妹の一番下として、この世に生を受けた。

 一番上の姉の『宇喜多万葉』とは九つ。

 真ん中の姉の『宇喜多双葉』とは六つほど離れている。

 当時の「宇喜多家」は中流家庭より少し上。その意味では一人少ないけど、榊原先輩の家庭環境に近いのかな。



 ただ「宇喜多家」の急落ぶりは目に余るものだった。

 かつて私の家の「宇喜多家」は、『名五師家』程ではないにしても、名家の中では上々に名を連ねる高家だった。

 しかし私の祖父『宇喜多正和』は娘には甘く、世情も甘く見ていたのであろう。私にとっては叔母の、婚約を整えて嫁がせるまでは良かったが、私の叔母は、嫁いだ時点で既に純潔の人ではなかった。

 名家間で交わされた『不文律の誓約』に違反する行為。

 これによって「宇喜多家」は莫大な違約金を先方に支払わされた上に、他の名家からの信用を完全に失ってしまった。

 私の父『宇喜多正継』の代には、もはや名家とは名ばかりの惨状であった。

 だが、その跡を継いだ父にも商才はなく、そして人を見る目もなかった。見栄と浪費癖だけはあるのに……本人は黙っていたけど、たぶんギャンブルもしてたと思う。

 ……勿論、そんな父が勝った日なんてない。



 私の母の名は『宇喜多葉子』といい、こんな没落しかけた「宇喜多家」にも嫁いでくれた『名五師家』の「細川家」の末娘だった。窓際のご令嬢というより、薄幸の美少女という言葉がいつまでも似合う母だった。

(……うん。だから、私の平坦な胸も遺伝のはず……)

 二人の姉の大きさを見ると、断言はできないけど。



 先程にも触れたけど、私が生まれた当時の「宇喜多家」は落ち潰れた名家という印象を残す程度に、まだ経済的にはまともな方だった。

(家が大きく傾いたのは、私が小学校に入った頃かな)

 父が悪徳業者に騙されて、小さな会社は倒産。田畑などの権利を手放し、家やその土地までも売却させられた。だが、残された父の借金の証文には、母の身体が担保に入れられていたのである。

 悪徳業者の狙いは、最初から母の身体だったのだ。

 母の葉子は、『名五師家』の末娘。最上級の家柄である。

 男たちにとってそれは、垂涎物であったに違いない。

(……高校生にもなった今なら、私でも解かる)

 母はきっと毎晩、色んな男の相手をさせられていたのだろう。苦渋の選択に迫られたはずだった。『不文律の誓約』の戒めの教育を施され、添い遂げる父の借金ために、他の男性に身体を許さなければならない。

『私は大丈夫だから……』

『……翔子、お姉ちゃんたちのお古を使ってくれる?』

『翔子、ごめんね……』

 父の作った借金は膨大。家計は既に火の車。

 私の衣服は姉たち(少しサイズが異なるけど)のお下がりとなるのは必然だった。私は別に気にしなかったのだが、やはり令嬢として育ってきた母だけに、申し訳ない気持ちが出てしまうのだろう。

 そんな母の顔は疲労に満ちていて、それでも小学生の私の前では弱音を吐かなかった。最後まで私に心配を抱かせたくはなかったのだろう。

(…………)

 そんな母がある日、首を吊った。

 残された妊娠検査薬は陽性と示していた。母は父ではない男らの子胤を身籠ってしまったのだ。生活は既にギリギリ。出産は考えられない。だが、中絶する費用さえ家の何処にもなかった。

 だが、それ以上に母が許せなかったのは、『運命の相手』以外の男らと子を成してしまった、そんな自分の身体ではないだろうか。



 悪徳業者に母を奪われた、情けない父。『宇喜多正継』

 何の特技があるわけでもない父が、そんな年齢で職に在り付けるはずもなく、身内だと思っていた遠戚にさえ見捨てられてしまった。

 その上、母の身体を差し出すしかなかった男は、既に精神的にも追い詰められ、そこに追い打ちをかけた母の死は、父の精神を徹底的に打ちのめしてしまった。

 それでも生活にはお金がかかる。

 夜逃げ同然に住み込んだ、この安アパートにも家賃は存在するし、毎日の食費にだってお金はかかる。1円だって無駄にはできない。

 それでも、生活にはお金がかかった。

 この逼迫した財政難を救ったのが、『宇喜多万葉』、私の一番上の姉だった。姉はお金のかかる高校を自主退学して、見も知らぬ男を相手に身体を売った。

 もううちの「宇喜多家」は名家ではなかったが、それでも万葉は普通の高校生……『運命の相手』という風習の権利を捨ててまで、一番上の姉は身も知らぬ男を『運命の相手』とした。

 妹たちを食べさせるために。

 ……それだけのため、だけに。

『双葉と翔子はいいーのぉ。好きなだけ食べなさい』

『でないと……翔子は、ここが大きくならないぞ?』

 私と次女の双葉は一緒に涙を流しながら、姉の万葉の純潔を売って得たお金を糧にした。

 中学生だった双葉も高校進学を諦めて、当時、交際していたはずの幼馴染との関係を断ってまで、家計を支えた。もしかすると万葉と一緒に、身体を売っていたのかも知れない。

『翔子、また私のお下がりばかりでごめんね……』

『翔子は私たちの分まで、水泳。頑張れよぉ!』



 私には水泳の才能があった。この平坦なまでの胸が水の抵抗を少なくしてるらしい。全然、嬉しくない。でも、確かにそれは私の特性だった。

 私が水泳をする上で、私が成り上がるための。

 勿論、姉たちが身体を売っているのに、私だけが水泳なんておこがましい、って思う。でも、小学生の私にできることなんて少ない。家事の手伝い、食事の準備くらいだろう。

 水泳を選んだのも、水着(スクール水着)があれば、他にお金はかからない、って理由なだけ。備品はほとんど借り物で済ませられたし。

 私にできることは、勉強を頑張って、水泳で名を馳せて、少しでも好条件で進学すること。だから勉強は頑張ったし、水泳にも力を入れて取り組んだ。

 その甲斐もあって、地元の名門私立中学校に推薦入学することができた。

 推薦が決まった日のことは一生、忘れられない。

『良かった……本当に良かったね、翔子』

 二人の姉は我が事のように喜んでくれた。またその日だけはちょっと贅沢に惣菜が一品だけ増えていた。

『これは、私たちからの……ね』

 万葉は新品の、最新素材の水着に、水泳用具一式。

 双葉は借り物で済ませてきたゴーグルを。

 家計的には苦しいのに。万葉は就職し、双葉も高校進学を断念して就職。未だに姉たちは自らの身体を売ったりもしているのに、姉たちは得たお金の中から、私の中学進学祝いを贈ってくれた。

 私は改めて決意する。

 いつか絶対に恩返しをしなければいけない、って!



 毎月のように男子生徒から告白され、交際を申し込まれたりしたけど、私にはそんな余裕は一切ない。

 授業中は勉学だけに集中して、学績トップを保ち続けた。部活では大会に向けて練習に励み、一年生にして大会の代表選手にも選ばれた。

 家に帰れば、家事と夕食の準備。限られた食材をより有効かつ効率的に。どんどん上達していく料理の腕に、姉たちはとても喜んでくれていた。

 だから、姉たちをもっと喜ばせたい!



 そんな時だった。

 私が初めて『南部深雪』を見たのは……



 艶やかな黒い腰まである長い髪。綺麗なまでに整った顔立ち。水着に包まれたしなやかな、そしてバランスの良いまでの胸の大きさ。

 大会の会場全体が彼女の存在に見惚れていた。

 本当に美しい物を見た時は、本当に人は言葉を失うのだ。

 ただ誰一人として彼女に声を掛けることはない。いや、掛けられない、って言った方が正解。彼女の表情はその名前の如く、まさに『氷の拒絶』だった。

 圧倒的なタイム。大会新記録を塗り替えても、彼女の表情は少しも変わることはない。

(次元が違う……違い過ぎる)

 上には上がいる。そんな言葉を身に染みて理解した。

『………』

 私の横を通り過ぎていった彼女は、最後まで無言で、その最後まで無表情のままだった。



 ――あの娘でしょ。あの「南部家」の一人娘って……

 ――超高級車で会場入りしたんでしょう!?

 ――あの勝って当たり前、って、嫌な感じよね……

 ――絶対、あたしらのこと。眼中にしてないよ……



 そんな誹謗中傷にも、彼女は全く意に介さない。

 きっと彼女には、眼中にないのだ。

 周囲も……そして、対戦相手の一人だった私にも。



 ――この前は陸上、その前は卓球で優勝したってさ。

 ――しかも敗退した方が握手を求めたのに、拒絶でしょ?

 ――ピアノでも先月のコンクールで受賞だって……

 ――あ、やだやだ。恵まれた超お嬢様って!



 私が『南部深雪』を嫌う理由の一つに、彼女のその恵まれた環境という僻みもあっただろう。私は姉たちの犠牲の上で水泳をして、その努力だって怠ったことは一度たりもない。

 それなのに、彼女は……

 更に屈辱的なのは、彼女は一度として表彰式に参加したことがない、ということだろう。水泳だけに限らず、だ。全ての表彰台の上に代理を立てているのだ。

『……』

 恵まれた環境で生まれ育った彼女には、絶対に解からないだろう。貧困で喘ぐ貧民の気持ちなんかを。姉の純潔で得たお金でご飯を食べられる、その味を……

 努力して、頑張って……それでも勝てなかった自分たちの気持ちなんて、彼女は全く意に介さないのだろう。



 それからも私は、水泳の大きな大会では『南部深雪』と対戦し、私は一度として彼女に勝つことはできなかった。



 高校の推薦の話も消えてなくなった。当然だろう。優勝が推薦の条件だったのだから。ましてその優勝者に……彼女に圧倒的な大差での惨敗である。言い訳なんてできない。



 そんな折だった。

 私の中学に、近代学園都市の……房総西条大学付属・西条高等部の特待生の話が打診されたのは。

 水泳のインターハイ二位。もしくは学績首位が評価されたのか。それは私にも解からない。私が西条高等部に入学するに当たって求めたのは、主に二つ。

 『学費免除』と『生活保障』だけ。

 『学費免除』はさすがに欲張り過ぎたかな、と思ったが、西条高等部はこれを快諾した。また『生活保障』の方に関しては、西条が用意する女子寮に入寮し、その費用を高等部が負担することで解決した。

 かくして私は三年間、通い続けた中学校を卒業したその日に近代学園都市・西条学区に向かい、女子寮『ラキシス』に入寮した。

 その見送りに来てくれた、二人の姉。

 一人暮らしにはお金が掛かるから、と渡してくれたお金。

 このお金の出所を思うと、涙が止まらない。

 経済的負担を減らすために、特待生に……『特別特待生』になったはずなのに、また二人の姉には気を遣わせてしまっていた。



 だから、私は相部屋の名前が『南部深雪』だと知らされた時、心の底から「それは嫌!」と思った。

 勿論、同姓同名という可能性もある、と思って寮長に尋ねてみたところ、返ってきた寮長の答えは、「南部家」の一人娘だという、もはや確定事項だった。

(……『氷の拒絶』『無音の美少女』と三年間?)

 私も周囲の陰口に加わっていた身として、彼女と三年間を一つの部屋で寝起きできる気がしない。

 人の存在を視界にさえ認めていない、冷たい視線。

 全く表情を変えることがない、冷淡なまでの表情。



 私も無表情だ、言葉足らずだよ、などと言われたりするけど、あれはまさに別格。意思の疎通の全く取りようがない存在だと断言できる。

(だから……)

 『コンコン』と扉がノックされて、私は緊張した。

『ど、どうぞ……』

『失礼します』

 中学一年から顔を合わせての三年間。私は初めて彼女の声を耳にした。

『初めまして。西条高等部一年、南部深雪です』

 それは白を基調としたワンピースに、薄桃色のトレンチコートを纏った超絶美少女だった。

『よろしくお願いします…と、貴女のお名前を伺っても?』

『あっ、ごめん。宇喜多翔子……同じく、一年だよ……』

『そっか。じゃあ、三年間一緒ですね!』

(……べ、別人?)

 って、正直に思ったよ。

 確かに容姿はあの時の『南部深雪』で間違いない。

 だが、中身は全くの別人です、と言われたら、私は間違いなく信じたことだろう。明日、南条高等部に入学した『安東理奈』が「まるで別人のようよ…」と評したように。

 私も今、同じ思いをしているのだった。



『翔子、って名前で呼んでもいい……かな?』

『お、お好きに……いいよ』

 ただ彼女があの『南部深雪』なら、私は中学時代に顔を合わせているはずなのだが、彼女には憶えられていなかったようだ。当然かな。圧倒的大差で負かした相手だったしね。

『私も、深雪、って呼んでいい?』

『勿論よ。翔子……三年間よろしく、ね』

『先に入寮してたから、勝手に使ってるけど、深雪は左側でいい?』

『うん。じゃあ、私のベッドと机がこちらね』



  女子寮『ラキシス』の私と深雪の部屋は、扉から入って、まず左右にベッドがあり、その中間にサイドテーブルが一つ置かれている。そのテーブルに合わせられた椅子が二つ。奥の左右に机がそれぞれ設置されており、左側には二つの箪笥が置かれ、右側には化粧室と洗面台の扉。その隣の扉は脱衣所とシャワールームの扉。右手前には簡易型キッチンなど。

 まず二人で過ごすには、充分なスペースが設けられているだろう。

 既に深雪の荷物は宅配で届けられており、後は自分の箪笥に収納するだけとなっている。

『ねぇ…深雪……』

『ん? 翔子、なに?』

 深雪は先に届けられた荷物を収納させながら、眩しい笑顔をこちらに見せた。とてもそれがあの時の彼女と同じ人物とは思えない。この深雪には、『氷の拒絶』『無音の美少女』と呼ばれていた面影が微塵も残されていなかった。

『ううん。なんでもない、よ……』

 中学時代の深雪を話題にして、あの時の彼女に戻られるのも困る。というか、それは余りにも藪蛇過ぎ……

『…ただ、遅かったね、って……』

 時刻はもうお昼過ぎだ。

『うん。ちょっと携帯端末と自走車の扱い方が、ね……』

『あ…なるほど…』

 私はすぐに得心した。

 と、いうより、私もそうだったから。

 支給された携帯端末は当然、完全な初期化状態。そこに自身の名前を入力し、脳波と体温をリンクさせて、パーソナルデーターが検出される。

 私なら『宇喜多翔子』『15』

 『体温:35.7』『身長:158』『体重:47』

 『B:70(AA)』『W:55』『H:71』

 『処女』『安全日』次の『危険日』まで………

(あ、……余計なものまで……)

 って、感じで表記される。

 自動自走車を利用するには、三つが必須。

 一つは入金。これは支給される段階で係員に直接確認されるから、基本的に誰でも大丈夫。(……のはず)

 二つ目に、目的地とする降車ポイントの入力。

 これはパーソナルデーターが検出されたら、自らの手で行う必要がある。ここで入力を誤ると、訳の分からない区画に行ってしまう可能性があるので注意が必要。

 三つ目に、これが外来者にとって一番厄介かな。

 登録した降車ポイントの登録画面とは別に、メインメニューには降車利用ポイントリストって、のがある。このリストを開いて、降車ポイントを指定させておかないと、自走車は発進してくれない。

 係員も説明はしてくれるのだが、彼女らはあくまで日常で携帯端末を扱っている側の人間である。その前提で説明をしていることが多いと聞く。

 この学園都市では携帯端末が生活必需品であり、これには身分(学生)証の他に、自走車の利用、各種支払いに至るまで。勿論、セントラルに行けば、端末に入金したお金はすぐに換金してくれる。(手数料だけは取られた気が……)



 と、話を聞く限り、深雪が陥ったのは恐らく三番目。降車ポイントリストを開かずに、自動自走車を動かそうとしたのだろう。

『でも、そのおかげで……逢えたのよ』

 深雪は衣類を仕舞う手を止めて呟いた。

『ん?』

『そう……やっと、逢えた……』

『…深雪?』

『あ、あれ?』

 深雪の瞳からひとすじの涙が流れ落ちていく。

 涙腺の決壊は余りにも唐突だった。

『あ、ああ……は、初めて、義久様と話せたのにぃ……』

『み、深雪!?』

 途端に感情が溢れ出したかのように、深雪はぽろぽろと涙を零し始めて、号泣してしまう。

『私だよ? って、言いたかったぁ!』

『あの時は、ありがとう…って、ずっと言いたかったぁ!』

『ずぅっと、私ぃ、義久様に逢いたかったぁ!』

『私は、あの時の深雪だよ、って言えなかったぁ!』

(えっ、どうしよう、どうしよう……)

『やっと、やっと……逢えたのにぃ!』



『…深雪……』

 慟哭する深雪を優しく抱き寄せる。

『うう、ううっ……うああああぁぁぁぁ………』

 そして号泣する深雪の身体を優しく抱き締めた。

 これが本当に、去年の高校選手権、インターハイを圧倒的大差で優勝しても、表情一つ変えることがなかった彼女とは到底に思えなかった。



『ご、ごめんなさい、少し、取り乱しちゃって……』

『ううん。少しびっくりしたけど……』

 全然少しじゃないけどね。

 そんな思いは微塵も出さない。

 ポーカーフェイスは私の特技の一つだ。

『少しは、落ち着いた?』

『うん。ありがとう……翔子』

 差し出されたハンカチを受け取り、深雪は涙の痕を拭う。

『深雪。一つ、聞いてもいい?』

『なにかしら、翔子?』

『………』

(義久様って……誰?)

 って、聞いていいものかどうか迷った。先程の深雪をあれほどに慟哭させたほどの人物だ。どれだけ彼女にとってその存在が大きいものか、私でも解かるというもの。

『お昼、まだだよね?』

 だから、今は聞かないことにする。

 きっと私にも話して貰える日が来る、って思ったから。

『あ、うん……』

『んじゃあ、食堂に行こう』

 女子寮『ラキシス』には、入寮者(当然に女生徒で、下は幼等部から、上は大学生まで)が五百人という大人数ともあって、和食・洋食・中華に分かれた食堂が最上階にある。西条学区の景色を(と、言ってもこの周辺は女子寮ばかりの建物ばかりなんですけどね……)眺めながら食事できるラウンジは、この『ラキシス』の一番の特徴だと思う。





 その女子寮『ラキシス』は、最寄りの降車ポイントからは歩いて少しのところに位置する。時刻は十八時半を過ぎた辺り。

(門限までに……間に合った)

 門限は十九時。

 私はこれまでに門限を破ったことはなかったが、申告もせずに破ってしまった生徒たちの姿を見ている。寮長の『丹波玲子』は外見こそ厳粛だが、与えられる罰則は、きっとそれ以上。次の休校日は罰則だけで潰れる、と思った方が無難だろう。

「あ、翔子、ちょっと待ってて……」

「え? み、深雪……門限」

 深雪は『ラキシス』の目の前、外門の手前で方向転換し、一番近いコンビニに駆け込んでいく。中学時代、陸上でおいても大会記録を大幅に更新した、その運動能力はやはり伊達ではないのかな。

 戻ってきた深雪の手にはレジ袋一杯に、珈琲用品がこれでもか、と詰め込まれていた。

「そんなに買うんなら、スーパーの方が安いよ?」

 少なくとも、コンビニなどよりは……コンビニの利便性はとても高いが、その分、値段は割高だ。それはこの時代でおいても変わらない事実。

「…そうなの?」

「うん」

「…ん、私、買い物ってしたことがないから、つい楽しくって」

 何処のお姫様よ……って思ったが、深雪の実家は東北では随一の資産を誇る『名五師家』の「南部家」だった。

 まさにお姫様みたいなものだろう。

 買い物もきっと、メイドや執事といった人々が買い揃えて来てくれたりするのだろうか。

「翔子。後で…これでブラックを作ってみてくれる?」

「うん……」

 私は深雪から受け取った袋の中を見て再び唖然とした。

 大きな袋の中には様々の珈琲メーカーの珈琲が詰め込まれており、深雪は店内にある珈琲の全てを買い物カゴに入れたのだろう。トリップ式もまだ解かる。うん。解かるよ。

 でも、ブラックを作るのに、なんでスティック型シュガーやミルクのポーションまで入っているのかな……

「深雪、珈琲……飲んだこと、ある?」

「………」

 深雪は目を逸らした。

 そんな彼女が何故、いきなりブラックを飲んでみよう、って思ったのかは、日中の佐竹先輩の注文した飲料からなのだろう、と容易に解かる。

 きっと深雪はこれから……ブラックだけを常飲するようになるのだろう。

「とりあえず、今日は……カフェオレにしようか」

 ブラックへの挑戦はまず、それからだよ。

 希望する物じゃない、と知って唇を尖らす深雪。

 そんな彼女の仕草に、同性でも可愛いな……と、私は思ってしまった。

「それより門限、急がないと……」

 私は深雪の手を引いては急かす。

 昨日、入寮したばかりの深雪には、まだ寮長からの罰則の厳しさを知らない。もし仮に次の休校日に、深雪が佐竹先輩とデートの約束を取り付けられた、としても、門限を破ってしまったら、それは絶対に叶わないだろう。

「!!!!!!」

 それを深雪に告げた途端に彼女は顔面を蒼白させて、引っ張っていた私の方が逆に引っ張られてしまっていた。さすがは女子中学、数多の記録を塗り替えた『無音の美少女』だろうか。

(もう…無音じゃなくて、恋する美少女、だね)



 私の心配は杞憂だった。

 深雪は私の知っている『南部深雪』じゃなかった。

 少なくとも、この深雪となら……私は全然苦にならない。

 私はこれからの深雪との相部屋生活に心を弾ませていた。



 ……勿論、そんな私が知る由もなかった。



 深雪との相部屋生活が……

 一年はおろか、半年も続かないものだなんて……

 この時の私は、知る由も……なかった。



 ……そして。

 深雪は佐竹先輩を心の底から心酔している。

 深雪にそう思わせるだけの過去が、きっと彼女には、佐竹先輩とあったのだろう。

(…いつか、聞けるかな?)

 深雪にでも、もしくは佐竹先輩からでも……

「…………」

 ただ一抹の不安も頭に過る。

 深雪はもしかしたら、知らないのかもしれない。

 『不文律の誓約』を破ってしまった名家の、うちの「宇喜多家」の凋落ぶりを……それはきっと『名五師家』であっても変わらないだろう。

 深雪はその「南部家」の一人娘だ。

 いずれは家の存続の為に婿を取り、子を成さなければならない宿命を背負っている。つまり、その時までに深雪は『処女』を残していなければならないのだ。



 「南部家」を「宇喜多家」のようにしないためにも。


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