行間話『 南部 深雪の誕生 』

 
 (視点・佐竹義隆)







「ああ。月が綺麗だ……」

 人類の文明が始まって何千年……幾人もの先人や偉人たちもこうして、月や星の夜空を眺めたのだろう。それはきっとこれからも変わらないのかも知れない。

(……これでは、詩人だな)

 だが、本当に静かな夜だった。

 今日のセントラルでも、大きな事件はなかった。

 近代学園都市では、一般の本土の人間にも無条件で解放している唯一の区画、中央地区ともあって、こんな静かな夜は本当に珍しくてね。

 できれば、明日も剣呑な一日であることを願う。

「……ああ。本当に、月が綺麗だ……」



 ああ。そうだった。

 これを最初に言って置かなければいけなかったんだ。

「……僕はね。魔法使いなんかじゃないんだ」

 だから、僕は魔術なんて使えないし、見たこともない。

 でも……正義の味方には、今でも憧れている。

 常に志している……と、言っていいかな。

「僕は、そう……」

 僕は、一介の刑事にしか過ぎないんだ……



 本来、第一部『深雪入学編』の締め括りとなる語り部には息子の義久か……もそくは、その想い人たる『南部深雪』にこそ与えられるべき特権だった。

(確か、当初の予定ではそうだったはずなんだが……)



 だから、僕は今日……その一介の警察官としてではなく、また『佐竹義久』の父親、『佐竹義隆』としてでもなく、神の代弁者として、二話に渡って……語ろうと思う。

(ごめん、ごめん。本当に設定ではね、僕の話は一話だけで纏まるはずだったんだけど……)

「………」

 またここで余計なことを語ると、分裂させる恐れがあるので略筆させて貰おうかな……。本当にすまない。

 ただこれは過去の話、なんで……紙芝居的に、淡々と語るようになってしまうのは、勘弁してほしい。







 まず、そうだね。僕がここで語るのは……

 東北で随一に圧倒的な資産を誇る『名五師家』の名家「南部家」において、この世に生を受けた『南部深雪』の誕生について、にしておこう……と思う。

 まず『名五師家』について、改めて説明しておこう。



 中部の「上杉財閥」を有する「上杉家」が筆頭。

 今期の四条学区高等部の生徒会長を務めた『上杉朋香』がここの三女……まさに『南部深雪』に匹敵する、超お嬢様と呼べるだろう。



 第二位が関東の「武田家」だ。

 実は義久と同学年の東条高等部に、『武田信晴』(命名した親御さんは間違いなく…甲斐の虎と呼ばれた偉大な人物にあやかったのだろう)という、「東条のプリンス」がいる。

 昨年、一年生にして甲子園優勝投手であり、走塁は無論、打撃においても非凡。そこに甘いマスクともくれば、複数のメディアが彼を取り上げるのも当然だろう。

(既に大谷の再来、とさえ囁かれているほどだ)





 第三位が東北の「南部家」である。

 資産なら「上杉家」にも「武田家」にも負けていない名家中の名家だが、「南部家」が三位に置かれるのは、その上下にして挟む敵対する名家、「安東家」と「津軽家」の存在が大きいだろう。

 尚、この「南部家」からは、『南部深雪』という日本歴代においても極稀な超絶美少女が、西条高等部に入学した。



 第四位が……他の『名五師家』とも大差はないが、九州で安定した基盤を築き上げた『大友家』の名前が上がる。

 まだ「大友家」の総裁(上杉家のみ総帥。他の名五師家が総裁で、通常の名家は当主)は若く、息子と娘も若い。

 いずれ、近代学園都市に進学してくるかもしれないね。



 第五位が近畿の「細川家」だが、これも頭一つ分だけ抜きん出た「上杉家」を除けば、他の『名五師家』と遜色はない財力を持っている。

 尚、この「細川家」の先代の孫娘が『宇喜多翔子』の母親ではあるが、既に彼女の語るように故人となっている。





 それでは、タイムアルター……ダブルアクセル?





 かつて「南部家」には、後の『南部深雪』にこそ劣るが、それでも十分に美し過ぎた美少女が誕生した。

 彼女の名は『南部奈雪』……(後の深雪にとっては叔母に該当)と名付けられ、彼女もまた……他者を強く惹きつけるような特性の容姿を持って生まれてきた美少女だった。



『親父!』

 偉丈夫が生まれたばかりの乳児を抱え上げて、病床の父親に報告をする。

『……生まれたぞ……女の子だ!』

 その男の名は『南部晴和』…後の深雪の父親である。

 この時、まだ二十七歳の青年だったが、既に病床の父親に代わって「南部家」を切り盛りし、後日、正式に総裁の座に納まることを期待された偉丈夫である。

『安心してくれ……親父……』

 死病にとりつかれた父親を励ますように宣言する。

『この娘は……俺が立派な令嬢に育てるから……』



 こうして『南部奈雪』は、そのまま死出の旅路となった父に代わって、歳の離れた実兄である晴和に可愛がられ、本当の娘のように溺愛された。



 この『南部晴和』を一言で表すとしたら、「厳格」という言葉だろうか。自分には厳しく、また他人にも厳しく。決して揺らぐことのない大樹のような性格、そして豪快とも言っていい決断力に相応しい、その体躯の持ち主であった。

 その気丈なまでの性格は、後の深雪嬢にも脈々と受け継がれていると言えるだろう。



 そんな晴和の頭を日々悩ませる問題が発生したのは、まだ奈雪が中学生になったばかりのことである。



 晴和の悩みは大きく分けて二つ……

 ……いや、三つほどあった。



(これは南部家代々の問題だな……)

 「南部家」の事業は、農林水産・林業・漁業・鉱業・建設業・製造業・運輸通信業・卸売小売飲食業・金融保険業・不動産業・サービス業と分類されるが、北には「津軽家」と敵対しており、南には天敵とする「安東家」の敵対名家に挟まれている状況だ。

 特に「安東家」を継いだ若き当主『安東万理』は、大学時代から名を馳せた超問題児であり、強姦に恐喝。喧嘩などに明け暮れて、安東の家でなければ、既に死刑囚リストに名を連ねていたことだろう。

 特に「南部家」と「安東家」は不倶戴天の天敵。

 共に主流から外れた傍系の分家同士ではあるが、逆に言えば両家の系譜を遡れば、戦国時代にまでに行きついてしまうほどの、長い深い歴史が物語っていよう。

 この「安東家」を継いだ『安東万理』だが、当主となるとこれ以上に厄介な人物はいなかった、と思えるほどに晴和の手を焼かされるのだ。

 凶悪な当主を仰いだ「安東家」の勢いは、既に「南部家」の事業の利益に多大な影響を与え始めており、元々安東の家には武闘派系も多いこともあって、益々その勢いが強まってしまったのである。



 更に晴和の頭を抱えさせた問題として……友好的な関係にある「戸沢家」の一人娘…『戸沢雪菜』(後の深雪の母親)の存在であった。



『戸沢雪菜でございます……』

 それは昨年…「戸沢家」の催しに招待された晴和は、その宴席に現れた雪菜の……まだ中学生になったばかりの彼女から挨拶を受けて対面した。

『雪菜……この晴和様は南部家の総裁にして、私たち戸沢にとっては大の恩人でもあるんだ』

 若くして「戸沢家」の当主となった『戸沢義光』は、この年で三十一歳という好青年で、晴和にとっては弟分のように交友を深めた間柄でもあった。

『その日頃の感謝を込めて、酌をして差し上げなさい』

『はい……晴和様。失礼します……』

『ああ、……す、すまない……』

『どうぞ……』

『ああ、ありがとう……』

(おい! 俺は何を考えている……)

 何度もそう自問する晴和。

(相手はまだ中学生なんだぞ!?)

 だが、その整った容姿に何一つとして申し分はなく、何よりもその声音の美しさに晴和は一瞬にして、恋に落ちてしまっていた。

 当時の晴和は四十歳。雪菜はまだ十三歳の少女である。

 ……それが昨年の話だ。

 中学生となった雪菜は……それから、お披露目とばかりに名家の席に呼ばれるようになり、一躍、その可憐さが名家の間でも話題となってしまっていた。

 なんとか……雪菜を自分の物にできないか?

 この一年、晴和の想いは更に募るばかりであった。

(……戸沢家に婚姻を申し入れるか?)

 日々、真剣に悩んでしまっていた。

(俺と雪菜の年齢差は絶望的だぞ……)



 確かに「戸沢家」に婚姻を申し込むことはできるだろう。晴和は四十一歳にして未だ独身であり、「戸沢家」とは親密な関係を維持してきている。

 だが、雪菜は「戸沢家」の一人娘だ。

 「戸沢家」の『戸沢義光』には、彼女しかいないのだ。

 兄貴分として慕ってくれる、義光から奪うしかないのか?

 もし仮に、現在の情勢で背後の「戸沢家」まで敵に回してしまえば、いくら『名五師家』の「南部家」でも安泰とは言えなくなるだろう。

 それが晴和を躊躇わせている原因であった。



 この問題は意外な形であっさりと解決した。晴和が一年間毎日悩んでいたのが可笑しいくらいに、あっさりと…だ。

『今日、お呼びとされたのは、雪菜のことですか?』

 「南部家」に招かれた義光は、即座に晴和の目論見を看破してのけた。

『何故に……そう思う?』

『簡単ですよ……晴和様がそれほどまでに申し上げ難いであろうことが、私には、それぐらいしか思い当たらなかったのですよ』

 義光は言外に仄めかす。

 晴和は普段のようにもっと高圧的に、義光の「戸沢家」に告げても良かったのだ。

 雪菜を差し出せ、と……。

『だが、雪菜は義光の一人娘であろう?』

 この時代の名家には、『不文律の誓約』がある。

 仮に晴和が雪菜と結婚した場合、雪菜は生涯、晴和と添い遂げることを……晴和以外と子を成す行為は一切に禁じる、と宣言することに等しい。

『ですね……困ったものです』

 全然困ったような素振りを見せず、義光は微笑む。

『……ですので、晴和様。こうしましょう……もし雪菜が晴和様の第一子を出産しましたら、それは南部家に。二人目を得られましたら、それは当家の戸沢家が貰い受けます』



 その「戸沢家」の当主『戸沢義光』は、気長に待ちます、と快く雪菜を晴和の元に嫁がせてくれた。

 実際、この時の義光は三十二歳。まだまだ働き盛りの青年と言えるだろう。



『晴和様……ですか……』

 雪菜には雪菜の想うところはあっただろう。

『…………』

 晴和からの求婚に応じた、と父親から聞かされた彼女は、一回り以上も年長の人物の元に、輿入れしなければならないのだから。

『一日だけ……気持ちを整理させる時間を下さい』

 雪菜はそれだけを告げて、自分の部屋に籠ってしまった。雪菜も中学生とはいえ、名家の令嬢である。

 一度『運命の相手』が定まった……その意味を正確に理解して育てられてきた。

 雪菜には好きな男の子がいた。

 無論、名家という生まれが、それを許さない。

 雪菜も恋をしたかった。だが、それも許されない。

 こんな日が来ることも覚悟はしていた……はずだった。



 そう。はず……だったのだ。



 この日、誰も雪菜の部屋に近付くことは許されなかった。





 かくして「南部家」では、総裁である『南部晴和』と、その妻となる『戸沢雪菜』との婚姻で騒がしくなった。



『雪菜でございます…』

 晴和は言葉も出なかった。この一年だけで、雪菜はとても美しい少女に成長していたのだ。

『末永く、何卒よろしくお願い致します』

 同時に晴和は「南部家」に赴いてきた雪菜の心痛を労う。

 既に彼女の表情には迷いも悔いも見受けられない。だが、齢四十一にもなる自分に嫁ぐ、十四歳の若い娘が喜んでいるはずがないことを熟知していた。

 …だから。

『無理をすることはない……』

『………』

『少しずつでいい。ゆっくりでもいい…』

 晴和は十四歳の娘に頭を下げた。

『俺のこの想いを受け止めてくれ……』

 人に頭を下げるのは、『名五師家』の総裁となってから、初めてのことだった。

『そして……俺の今回の我を、許してくれ……』

 雪菜はそんな晴和の手を取って、微笑む。

 この人を好きになろう。

 この人に愛されよう……

 この人こそ、私の『運命の相手』なのだから……と。





 この『名五師家』「南部家」の婚儀は「神前婚」と呼ばれている。

 花嫁となる雪菜の排卵日が『結婚初夜』となる最終日で、それまでの三日間もの間……雪菜は花嫁姿のまま、本堂前で公開披露される。

 三日目の夜半になって初めて、晴和は雪菜に触れることが許され、二人きりの本堂で『結婚初夜』を迎えるものだ。

 本堂周辺に駆けつけた住民や参列者には、祝い酒と料理が無償で振る舞われ、三日間の間に雪菜の花嫁姿を観賞して、そして最終日の『結婚初夜』の本堂の想像を膨らませつつ、その『結婚初夜』を見守る運びであった。



『一つ……頼みたいことがある』

『晴和様……改まって、何でしょうか?』

 晴和は危険日を迎えた、花嫁姿の雪菜の身体に強力な魅力と誘惑を感じながら、以前から思っていたことを願い出た。

『一曲……歌ってみてくれないだろうか?』

『……?』

 花嫁姿を披露した初日から、この可愛さである。

 しかも危険日(排卵日の三日前)を迎えた、とても若々しく瑞々しい身体だ。晴和が懸命に己の自制を利かせたのは、語るまでもないだろう。

『曲はなんでもいい……演奏家も用意させる』

 予め晴和の要望を聞かされていた者たちが、一流の演奏家を呼び寄せて準備し、既に待機させている状態であった。

 また雪菜の選曲は本当に何でもよかった。

 最近の流行の歌でも、晴和の知らない歌でも……また、例えそれが悲恋歌であっても。ただ、彼女の歌声が聞けることだけが晴和の望みであったのだ。

『あ、あんまり……自信はないんですけど……』

 本堂で佇み、観衆に向けて彼女は歌う。

 彼女の選曲した曲は哀しい旋律ではあったが、悲恋歌ではなかった。四十一歳の晴和の知らない曲ではあったが、晴和自身の目的は既に達成されていた。

 そして自信がない、と言いながらも、雪菜は本堂周辺に駆けつけていた観衆を魅了させ……完全に虜にしていた。



『……っ……』

 ただ一人、晴和の娘のような妹……奈雪だけが穏やかではなかった。

 雪菜への想いをようやくにして成就させる晴和だ。婚礼が決まって、雪菜が「南部家」に来てから、計九日間もの間もお預けを受けているのだ。

 晴和が気付けなくても無理はなかっただろう。

 また「南部家」の人間も、四十一歳となる総裁の結婚式ともあって、内々の方に目が行ってしまうのも、花嫁姿の雪菜に心を奪われてしまうのも、仕方のないことだったろう。



 晴和の婚礼三日目。

 ……つまり、『結婚初夜』当日のこと。



『お兄様……行って参ります』

 奈雪の護衛もおざなりにされてしまった中、それも仕方はないか、と彼女は思った。今日はなるべく早く帰って、護衛たちの任務を解放させてあげよう。

(私は……見たくないもの……)

 三日目の花嫁姿の雪菜を眺めながら、奈雪は踵を返した。

 正直に言えば、少しだけ…いや、かなり。哀しくなかったと言えば、それは嘘になるだろう。晴和には娘のように溺愛されて育ってきた。それが雪菜との結婚が決まってから、というもの……ロクに構っても貰えなくなってしまったのだ。

(晴和兄様……)

 奈雪は心で泣いた。

(奈雪は……奈雪は……)

 それは実の兄に……父親代わりを務めた相手に向けて想うものではなかっただろう。だから、奈雪は懸命に想いを胸に秘めて、自分の身体と心を慰めるしか許されなかった。

(………)

 実の処、晴和も奈雪の想いには気付いてはいたのだ。

 順調に育っていく、娘のような美しい妹。

 そしてその奈雪の想いに応えてしまいたくなる、そんな衝動を懸命に抑えなければならなかった。

 晴和が抱えていた三つ目の問題がそれであった。





(……奈雪にも素晴らしい相手を見つけなければ……)

 そんな本堂に立った晴和に、

『…もう浮気なんですか……?』

 晴和の心の視線が自分に向けられていないことを敏感に察した雪菜は、冗談めかして唇を尖らせた。

 そんな雪菜はとても魅力的だった。

 増して、排卵日を迎えるそれだけに……

 もう我慢をしてなくてもいい、それだけに。

 晴和は雪菜の身体を抱き締めて……そのまま本堂の中へと連れ込んでいく。本堂周辺に篝火が灯されて、『神前婚』における『結婚初夜』が始まっていた。



『今日はお兄様の婚儀最終日ですね……』

 奈雪は奥歯を噛みしめて護衛に告げる。

『だから、今日は早く帰えるとしましょう……』

 奈雪のその言葉に護衛たちは意気諾々と応じる。

 だが、その彼女の言葉は叶わなかった。

 上の空だった護衛たちは瞬く間に無力化されて、もしくは殺害された。奈雪自身も「安東家」の家の者に囚われてしまった。



 「南部家」と不倶戴天の天敵として目される「安東家」の若き当主『安東万理』は当時、二十九歳。

 彼は以前より、奈雪の身体を狙っていたのだ。そして、警備と警戒が薄くなるだろう、今日……この日を、かねてより狙っていたのである。



 晴和が雪菜の『運命の相手』と決まったほぼ同時に、奈雪の『運命の相手』が『安東万理』と定まったのは、本当に偶然の産物であったのだろうか。

 そしてほぼ同時に膣内射精された二人の『雪姫』は、ほぼ同時に身籠り、僅か三日の差での出産となるのは……本当に偶然によるものか、それとも神々の悪戯であろうか。



 やっとの思いで雪菜を伴侶にした晴和に、負傷した護衛が急報を告げて、慌てて駆けつけてみたところで、既に事態は最悪の方向に転がり続けていた。



 奈雪は既にレイプされて、そして……よりにもよって、「安東家」の当主を『運命の相手』としてしまった後だった。

『今なら……まだ助け出すこともできましょう!』

『晴和様!』

(……奈雪……)

(……お兄様……)

 確かに護衛が口にしたように、この場を物量作戦で制圧して、奈雪を取り返すこともできたかもしれない。少なくとも奈雪はそう期待して、そう望んでいたことだろう。

 この場で『安東万理』を射殺し、「安東家」との因縁にも終止符が打てる可能性もあっただろう。



 だが……

『……おい、引き上げるぞ!』

 だが、「南部家」の総裁である以上、晴和にはそれができなかった。



 この場で行動を起こせば、それは『不文律の誓約』に反する行為である。例え奈雪の身柄を取り戻し、「安東家」との因縁に決着を付けられたとしても、「南部家」は他家からの信頼を全て失ってしまうことに他ならない。

 かつて名家と呼ばれた「宇喜多家」のように。

 それは『名五師家』であっても変わらないのだ。





『…………』

 晴和が撤退を命じた時の心境は、誰にも計り知れない。

 そんな引き上げていく兄の姿を見た、娘のような妹の、万理に穢されていく奈雪の絶叫と悲鳴は、どれほどの晴和の身を引き裂くものであったか。

『…………』

 奈雪の名前は完全に「南部家」から抹消された。

 全ては総裁である晴和の招いた責任であり、そしてそれを一番に彼自身が痛感もしていただろう。

 そして奈雪の負った心の傷と、宿した闇の深さは如何ほどのものであろうか、計り知れる者もこれまた皆無だろう。



 かくして……

 『南部雪菜』となった彼女は、難産の末に『南部深雪』を出産し、晴和に見捨てられ、南部の名を捨てた奈雪は、その遅れること三日後に、『安東理奈』を出産している。



 家名を捨てた奈雪が、出産した娘にどれほどの辛い想いと呪詛のような想いを託したのか。万理に穢された彼女には、安東の姓を名乗ることさえ許されずに、理奈出産後も玩具のように玩ばれて、威厳も尊厳も踏み躙られた彼女の思いを。

『あの娘(深雪)には絶対に負けないで……』

『あの女が産んだ娘だけには……負けてはダメ!』

『そんなことは…絶対に、絶対に許しませんからね?』







 難産の末に深雪が誕生して、久しくも顔を綻ばせた晴和であったが、それも決して永くは続かなかった。

『……そ、そんな……』

 深雪の出産が難産だったこともあるだろう。

 奈雪のことがあって、要らぬ心労を雪菜にかけてしまっていた負担も少なくはなかった。

 そんな晴和を笑わせたくて、笑顔にしたくて、喜ばせたくて、彼女は彼女にできることに死力を尽くした。

 ……そう。

 その文字通りに……。

 晴和の妻となった『南部雪菜』……旧姓『戸沢雪菜』は、『南部深雪』の一人を出産した後に、静かに息を引き取ってしまったのである。



(こ、この子……一人に全てを背負わせるのか?)



 晴和は抱き上げた、余りにも小さい……小さ過ぎる赤子の深雪の身体に慄然とする。



 『名五師家』「南部家」の一人娘。『南部深雪』



 この乳児に……深雪には南部家の跡取りだけでなく、母の雪菜に代わって、戸沢家の後継の出産までが委ねられたのである。



 東北の名門の名家「南部家」

 そして、「南部家」を支える名家「戸沢家」

 その二つの血を正統に受け継いで、次世代に血を繋げられるのは、もはやこの小さな身体だけであった。



 晴和は亡き妻へ心に誓った。

(深雪を絶対に奈雪のような二の舞にはさせまい、と)



 晴和は堅く心に決めた。

(優秀な護衛と優秀な教育係で英才教育を施そう、と)



 晴和は心に強く刻んだ。

(深雪には相応しい相手を選ぶ、と)





 そして、晴和は心の底から願った。

 この娘の……深雪の未来に……幸あれ、と。


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