序 章 【 賢兄賢弟 】(過去)
紅葉が赤々と彩り、微風に吹かれて舞い落ちる。
まるで灼熱のような酷暑であった夏と、例年にない凍てつくような寒さに見舞われる、この年の冬のちょうど中間、中途半端な秋の季節・・・・
だが、和馬はこの日の出来事を・・・・この年のこの平凡すぎる秋の一日を、一生忘れることができなかった。
「かずにぃ、ガンバレぇぇぇぇ!」
一つ年下の妹、和美の声援が耳につく。
「かずにぃ!」
無理・・・・もう無理!
和馬がバトンを受け取ったのは、十人中の六番手だった。それを四番手まで追い上げたのは、当時小学二年生であった自分にとっても、我ながら上出来だろう、と思う。
もうトップとの差は絶望的だ・・・・
「来い!!」
諦めにも似た心境の僕に一条の光りが射し込む。
「和馬ぁ!」
僕は今一度、前方を見据える。二番手のバトンリレーがされている横で僕を呼ぶ声・・・・一樹兄さんだ。成績優秀、運動神経抜群、容姿完璧。この当時から、四つ年長の兄の存在は、和馬自慢の一つだった。
神崎家の長男、神崎一樹は、小学生の頃から既に将来を嘱望されていた子供だった。実際にこの後の兄は、国内でも有数の進学校に進み、まさにエリートとしての輝かしい道を歩んでいくことになる。
次男である和馬には、模範すべき存在であり、限りなく尊敬する兄でもあった。
「くぅっああああ!」
全く意味のない言葉を吐き出し、和馬は走り続ける。待ち受ける憧れにも似た理想の兄の下を目指して・・・・
三番手と並び、ほぼ同時に片手を懸命に差し伸ばす。
「和馬、よくやった。後は任せろ・・・・」
バトンを受け取った際、兄がそう言ったような気がする。
六年生の距離は400m。
息苦しく立ち止まり、兄の言葉を理解して見上げたときには、既に二番手を抜き去ろうというところだった。声援を送る観衆さえも驚愕する、怒涛の追い上げだ。
そして瞬く間に、絶望的とも思われた先頭を鮮やかに抜きかかり・・・・
片手を上げて、学年混合組別リレー、最初のテープを切る。
後続を引き離しての最後の直線走路は、まさに神崎一樹の独壇場だった。
一斉にアンカーの下へ駆け出す、我が三組勢。走者であった和馬もその中の一人だ。
「兄さんはやっぱり、凄いや!」
群がる密集に掻き消されそうな呟きだったが、兄はその群集の中からすぐに弟の存在を見つけ出した。
「和馬も、よく頑張ったじゃないか」
兄が押し寄せる人並みから和馬を見つけ、抱き寄せる。
互いの熱い体温が、滴る汗が心地よかった。
リレーに優勝できたこともそうだが、それよりも理想的な兄に、健闘を称えられたことのほうが格別に嬉しかった。
和馬はこのときを時折、夢の中で思い出す。
目覚めたときは余りにも古い夢に気恥ずかしさを覚えるが、同時に二度と戻らない日々に激しく落胆してしまう。
家族思いの、全てに完璧だった神崎一樹は、もはやこの世には存在しなかった。
そんな理想的な兄を慕った神崎和馬もまた、この世のどこにも存在しなかった。
懸命に走り、兄へと繋いだバトンリレー・・・・
群衆の中で抱え回す、眩しい兄の笑顔・・・・
和馬は忘れない。
滴り落ちた汗、心地よかった体温。達成した疲労感。
抱え上げられた兄の力強い腕。
和馬は一生、忘れないだろう。
・・・・それが、僕たち、兄弟最後の抱擁であったのだから・・・・
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