第一話【 禁断果実 】( 2月 )
○×都○×区・・・・
雪が舞い散り、寒さが尚一層厳しく感じられていく二月下旬。既に外の世界は白銀一色に染まっている。
《・・・・なになにであるからにぃ〜〜・・・・》
無駄に長い、誰だかも覚えていないおっさんの挨拶。普段なら愚痴の一つも漏らすのであろうが、それも今日で最後なればこそ、神崎和馬は我慢という言葉を実践して見せた。
「もう、この校舎ともお別れか・・・・」
特に感慨深かったわけではなかったが、小学校が六年間に対して、中学校は三年間しか在籍していない。なのに、小学校それ以上に名残惜しく思えてしまうのは何故だろうか?
「ふぅ〜〜やっと終わった、終わった」
隣の男が卒業式の終幕を代弁し、和馬も一笑する。
確かに終わったのだ。義務教育、という期間が確かに・・・・・だが、中卒で社会に出る卒業生はともかくとして、ここに居る大半の卒業生には、来年度から新しい学校生活が待っている。
「和馬、これからどうする?」
「これから有志募って、ファミレスに行こうかと思うんだけどよ、和馬、お前もどうだ?」
「ああ、悪りぃ。これから親父の見舞い」
お前らの狙いは俺の財布だろ、と意地悪く思ったものだが、告げた理由は本当のことである。神崎家は都内でも有数の資産家で、そこの次男である和馬も、同世代に比べれば遥かに裕福な生活を送っている、と言っても過言ではなかっただろう。
だが、ここ最近になって神崎家の当主であり、実の父親でもある神崎源蔵の容態は悪化しており、それはあらゆる意味においても、俺にとって重大事である。
特に、険悪な関係にもある長兄、神崎一樹という存在もあって・・・・
「親父さん、そんなに悪いのか?」
「確か胃潰瘍じゃなかったっけ?」
むやみに話していい話題でもなかったので、和馬は苦笑する。
そう、確かに神崎家の当主であり、和馬の父親である神崎源蔵は、確かに四年前、心労とストレスからきた胃潰瘍と診断された。それから度々、入退院の繰り返すことになった。
だが、昨年の春になって、新たな診断が和馬に衝撃を与えた。
胃潰瘍を頻繁に引き起こしていたことが、医師の早期発見に遅れてしまった最大の原因であったのだろう。再び入院してきた源蔵に下された新たな病名は、肺癌・・・・しかも末期だ、という。
現状の問題もあって和馬は激しくうろたえたが、診断された当の源蔵はその運命を受け入れた。十四年前に失った最愛の妻、神崎瑞穂の後を、やっと追えると思ったのかもしれない。
「そっか、残念だな。和馬とこうして会えるのは、今日が最後になるかもしれないっていのうになぁ・・・・」
「最後って。・・・・大袈裟だな」
友の物言いに、今度の苦笑は本物だった。
和馬はここにいる大半の卒業生と違って、地元から遠く離れた高校に進学することが既に内定している。確かに他の卒業生とかと違って、休日の街角でバッタリ、というは難しいだろう。
「三月中まではこっちに居ることになりそうだし、向こうに行っても直々、実家には帰ることになると思う」
忙しくなりそうだ。
「また、会おうと思えばすぐに会えるさ」
「そっか。まぁ、向こうに行っても元気でな!」
卒業証書を片手に、右手を差し出してくる。俺の中学時代を彩る仲間たち・・・・時には悪戯の時間を共有し、時には犯罪まがいの悪行も数え切れない。だが、俺にとっては最後まで悪い奴らではなかった。
昇降口からの見下ろす光景は見慣れていたはずだったが、待ち構えている大衆の姿もあって、今日だけは違った光景に見えた。この後に待っているイベントは、何処の中学校でも同様な光景であろう。
「かずにぃ〜〜亜子が予約してた第二ボタン欲しいって」
その大衆の中に、和馬を唯一そう呼ぶ女生徒が一人。
妹の和美である。
同世代に比べて、幾分にも童顔で童子体型は否めないが、それでも健気に和馬を慕う可愛い妹である。
「たく。第一も第二も同じだろうに・・・・なんでこうも第二ボタンに拘るだろうね」
「かずにぃ、それ、大雑把すぎ!」
和馬の投げやりな言葉に可愛い妹の頬が膨れる。
「そんなんだから、かずにぃは、女の子に人気があるのに、彼女ができないんだよぉ〜」
《 グサッ! 》
妹のさりげない言葉が突き刺さる。
神崎家の特色に関連する家柄云々はともかくとして、和馬がこれまでに恋愛一つしていない原因は、確かにこの性格が起因しているだろう。
「神崎くん、最後の記念に、写メ撮らせて〜」
「神崎先輩、ボタンください!」
常日頃親しかった女生徒や、あまり話したことさえなかった後輩からも、制服のボタンを求めらたりしたものである。妹の和美が指摘したように、和馬は学年の中でも人気は高かった。
顔立ちも良く、身長も高い方の部類に入る。学業の成績も上の下ぐらいは常にキープし、運動神経もサッカー部の10番を背負っていたぐらいである。そして何よりも次男とはいえ、実家は都内有数の資産家である。
これで持てない方がおかしいというものだろう。
告白はされる。貰ったラブレターとて数え切れないほどだ。だが、これまでに和馬は特定の彼女、というものを作ったことがなかった。
唯一、特別な存在でもあった人物を除いて・・・・は。
和馬の脳裏に、可憐だった少女の面影がよぎる。
「あ、ごめん・・・・思い出しちゃった?」
「んっ」
頬をポリポリと掻いて、「なかなか、ね」と、苦笑する。
「せめて理由がわかれば、新しい恋にでも前向きになれると思うけど」
和馬には親が取り決めた許婚も存在していたのだが、一方的に破棄されたのが、去年の出来事である。こんな和馬に愛想を尽かしたのかも知れないが、詳しい事情は今でも知らされてはいない。
婚約を解消され、せめて理由だけでも・・・・と、携帯さえも拒絶されたときの涙の味は、一年近くが過ぎようとも容易に消えるものではなかった。
そんな和馬が地元を離れて、遠く離れた桜花中央学園に進学することになったのも、家柄の良い相手を見つけて交際することにある。
恋愛一つまともにできない自分に、果たしてそれが可能なのだろうか?
「まさに前途多難だな・・・・」
まるで他人事のように、和馬は呟いた。
「お帰りなさいませ、和馬さま」
「ただいま、勘爺」
神崎家に仕える老執事である。かつては名門高校の教頭だったらしいが、定年を迎えて退職し、現当主の知己という縁で神崎家の執事となった。その当時の教頭癖が抜けないのか、神崎の家で和馬を叱ってくれる、数少ない大人でもある。
だが、神崎の家の廊下にある窓に大柄な体躯の持ち主の姿が見え、和馬はそれ以上慇懃に出迎える老執事に目もくれず、真っ先に自室に向かった。今、もっとも会いたくない奴が家内に居ることが解かったからだ。
SPの郷田聡は一樹専用のSPであり、大柄な体躯の持ち主。スキンヘッドに常にサングラスを掛け、黒一色のスーツを着こなしている。表情は常に無表情で険しい。和馬が「海坊主」「ターミネーター」と呼ぶ所以だ。
常日頃から一樹の背後にある郷田が居るということは、一樹・・・・兄が家に滞在しているという証明である。
和馬は廊下を駆け抜け、自身の部屋がある三階へと急ごうとした。
「フッ、お前のような奴でも、中学は卒業できたようだな?」
だが、何の因果かは知らないが、会いたくない奴に限ってこういうときに会ってしまうものらしい。
「ああ」
和馬とて女生徒にある程度人気があったように、顔立ちも良く身長も決して低くはない。優等生ほど勤勉ではなかったが成績とて上の下ぐらいは常にキープしている。だが、目の前に立つ、兄の神崎一樹と比較すると、全てが霞んでしまう。
名門進学校で常に首席を張るほどの頭脳明晰。他者を圧倒するような壮言な言動以上に芸術的な美貌。まさに「完璧無欠」という言葉は、この兄のためにある、と和馬でさえ思ってしまうほどだ。
狭く赤き門で有名な東京大学を、首席で入学し、尚もトップの座を譲ったことがないという・・・・
「兄貴こそ、大学は?」
「兄などと、気安く呼ぶなぁっ!」
まさに汚らわしい、と言った感じに激昂する。
戸籍上はともかく、一樹と和馬には半分しか血が繋がっていない。が、それ以上に深い溝が兄弟間に設置してあるようにしか思えなかった。
実際、一樹が血縁の事実を知るそれまでは、誰にも心優しく、和馬に限らず家族思いな兄でもあったのだ。
今朝見た夢が夢なだけに、和馬はこの現実とこの長兄に苛立ちを禁じえずにはいられなかった。
「ッ、用がないなら、俺は行くよぉ!」
不機嫌な気分を隠すことなく、一樹とすれ違う。
その一樹の背後にあった二人の姿を視界に捉えた、その一瞬に、和馬は自分の目を疑った。常日頃から一樹の背後に佇むSPの郷田聡はともかく、もう一人の女性の姿を、和馬が見間違えるはずがなかった。
や、弥生さん!?
《ズキッ!》
鋭い痛みが、和馬の胸に突き刺さる。
彼女の名前は草薙弥生。由緒ある名家草薙家の一人娘にして、一樹同様和馬より四つ年長の美しい女性である。そして何より彼女こそが、一方的に破棄された昨年までの和馬の許婚であった。
腰まで届きそうな長い髪は美しい黒。スタイルは抜群にして、成績は優秀。清楚と気品を併せ持つ、和馬より四つ年長の可憐な女性である。許婚といっても出会った回数は、年に数える程度の少ないものであったが、久しぶりに見る彼女の姿は、いよいよ色香も帯びつつあるほど美しい女性となっていた。
や、弥生さんが何故、神崎の家(ここ)に・・・・
「一応、貴様にも紹介しておこうか・・・・」
その和馬の心の疑問は、背後の一樹からされた。和馬にとって驚愕するに値する事実とともに・・・・
「俺の婚約者、草薙弥生だ」
弥生は和馬に対して静かに会釈し、再び和馬から視線を逸らす。一樹の言葉が事実であると、その態度が如実に示している。
そんな馬鹿な・・・・!!
こ、婚約・・・・!?
あ、兄貴と・・・・婚約だって!?
和馬は愕然とせずにはいられなかった。
神崎家の代々から伝わるしきたりとして、新当主の就任を確立するためには、一族を納得させる新たな名家との結びつきが必要不可欠とされた。
現在の病床にある神崎源蔵(旧姓松伏)としても、有力な資産家の後押しを得て、神崎家に婿入りしている。
草薙家は経営難に陥っているとはいえ、名門中の名門。本来ならば成り上がりの神崎家では、到底にして手が届く家柄ではない。
その意味において、一樹は和馬に大きくリードしたといえるだろう。
だが、和馬の受けた衝撃は、そんな当主騒動の云々よりも、ただ純粋に弥生と一樹が婚約した事実だけに驚いていた。
そしてそれは次第に、激しい憤りへと変わっていく。
和馬に愛想を尽かして婚約を破棄した。それだけならば、和馬自身にも責任はある。実際に彼女は、頻繁にメールを送ってきてくれては、口実を設けて会いにきてくれたものである。だが、和馬のほうからは一切、アプローチをかけたことがなかったのだ。
妹の和美に言わせれば、「そんなかずにぃの態度では、弥生さんに愛想を尽かされても、当然だよ」と、嘆かれる始末である。
確かに許婚らしいこと、何一つとして、してあげられなかったけど、
だが、よりにもよって兄貴と・・・・こんな兄貴と婚約するなんて!
「お前や和美が神崎の姓を名乗れるのも、もはや時間の問題だと思うんだな」
和馬の背後に嘲笑を叩き付ける。
「あの男が死ねば、汚らわしい貴様らなど・・・・」
「ッ、」
その兄の言葉に和馬は振り返った。振り返ってしまった。
これが普段の和馬ならば、すまして聞き流すこともできたことだろう。だが、いよいよ源蔵の容態が悪化したことと、弥生との婚約した動揺もあって、今の和馬には聞き流せるだけの、心理的余裕さえも許される状態ではなかった。
「俺たちの親父だぞ。例え兄貴と血が繋がっていなくても、これまで扶養してきてくれた父親だぞ。それをあの男呼ばわりかよぉ!」
「ふ、ふざけるなぁぁ!」
一樹の激昂に、幾人かの使用人たちが驚く。
「扶養だとぉ!!」
普段から兄弟間の口喧嘩は絶えなかったものだが、常に一方的に一樹が吹っかけ、和馬たちが聞き流す。それによって兄弟間の激突だけは回避されてきていたのだが・・・・和馬が振り返ったことによって、状況は火に油を注いでしまったようである。
一樹の語るように、現神崎家当主・神崎源蔵と神崎一樹の間には、戸籍上の関係はともかくとして、本当の親子ではなかった。和馬と一樹に至っても、母親の半分だけしか血が繋がっていないのである。
つまり異父兄弟だったのだ。
「あの男はなぁ! 俺の本当の父親、鳳一輝の不在をいいことに、大御所(神崎桜)に取り入って、身重の母に迫ったのに違いないんだぞ!」
確固たる証拠も根拠もないことではあったが、一樹は頑なまでにそう信じて疑わない。
それまで家族思いであった一樹が突然、急変したのは中学生になったころのことだ。自身の血液型から、本当の父親の存在、鳳一輝の存在を割りだしたのは。
本当の家族だと思っていた一樹にとっては、相当な衝撃的な出来事であったのだろう。和馬にしても、自慢であった長兄が、実は異父兄弟であったと知らされたとき、父親の源蔵に裏切られたような、そんな錯覚さえ覚えたほどである。
確かに一樹、和馬の生まれる前、神崎源蔵が神崎家当主に就任する前後の事情は明らかにされてはいない。一樹たちが解かっていることは、当時、婚約中だった神崎瑞穂(一樹和馬和美の母)が、神崎家の意向で一方的に婚約を解消させられ、それまで一使用人であった源蔵を瑞穂の夫に、神崎家の当主に据えた、ということだけである。
婚約を一方的に解消された一樹の本当の父親である、鳳一輝は、直後に服毒自殺を遂げ・・・・また源蔵の妻となった瑞穂も、和美出産と同時に衰弱死してしまっている。
「俺にとって、お前も! 和美も! あの男もぉ! 疫病神なんだよぉ!!」
「ああ、そうかい! だが、兄貴だってその疫病神に育てられた、疫病神じゃないか!」
「一樹さん、落ち着いて・・・・和馬さんも・・・・」
柔らかそうな細い手が激昂する一樹に触れる。弥生の手だ。和馬にはその光景だけでも耐え難い衝撃を受ける。
その光景が気に障る。物凄く癪だった。
くそっ!!
不快げに踵を返して、和馬は階段を駆け上がっていった。
この場に草薙弥生が居たことは、二人にとって確かに幸いだった。このままだったらどれだけ罵り合い、醜聞を晒したことだろう。
だが、和馬は久しく会う彼女に対して、感謝する気に到底なれそうになかった。そればかりか激しい憤りを禁じえないでいた。
・・・・なんでだよ、弥生さん!
和馬は二階に駆け上がった段階で、壁に殴りつけたい衝動に駆られる。
そして躊躇うことなく、和馬はそれを実行した。
神崎家の三階にある部屋の半分が、和馬の所有する部屋である。ちなみに当主源蔵と一樹は二階を中心に、妹の和美が三階のもう半分を所有している。一階は食堂や団欒屋、客室、また神崎家に勤める執事や守衛たちの休憩待機室がある。
和馬は十五年間過ごしてきた自分の部屋に入室して、いよいよ片付きつつある自室に軽い違和感を覚えた。
地元ではない高校に進学するため、自分の家財を少しずつだが、運び出しているのだ。大掛かりなものは置いていくし、足りない必要な物は現地で買えばそれで済む。だが、やはり身近に置く小物関係は使い慣れた物が一番だろう。
「お帰りなさいませ、和馬さま」
入室した和馬に出迎えの声が届く。
「昨日までにまとめた荷物は、今日、運んでおきました」
「直人、お疲れ」
三階から一つの荷物を運び出すだけでも一苦労であろう。
真田直人は和馬直属のSPである。父親の源蔵に見出され、あらゆる教育を施し、和馬がまだ幼い頃から仕えてくれてきた、まさに忠臣と言っていい人物だろう。
一樹の険悪な兄弟間こともあって、和馬にとってまさに精神的な兄貴分的存在である。
「直人・・・・」
「はい、和馬さま?」
先ほどの口論は、恐らくはこの部屋まで届いたであろう。まして戦場下で育ったという直人である。そんな鋭敏な直人が気付かないはずがない。
意図的に気付かなかったフリをしてくれているのだ。
「んっ、手伝いたいけど、これから親父のトコに行く」
「はい、このような雑用などはお気になさらずに、源蔵さまの下へ行ってください。わたくしの荷物もありますから」
直人も、和馬の通う桜花中央学園の講師として赴くことが既に決まっている。数馬が父親経由で学園に圧力かけたのだが、直人はあらゆる教科に精通しており、兄貴とはまた別の意味で完璧な人物であった。
中東の戦場下で生まれ育ったらしく、時折、戦争の恐ろしさ、それ以上に愚かしさ、血生臭さを教えてくれたのも直人だった。
「源蔵さまに面会が許されたら、わたくしは元気です、と・・・・」
「ああ・・・・」
その直人の言葉には、父の源蔵との二人だけにしか計り知れない感情が込められていることを、和馬でさえ感じ取ることができた。
例え血が繋がっていなくても、まるで本当の親子のような二人である。
ああ、兄貴。やっぱり血縁の有無なんて、馬鹿馬鹿しいと思うよ。
平聖中央病院。
神崎の家から少し離れた一角に聳え立つ、大型総合病院である。そこにはMSA(最優秀若手医師賞)を取得した最上の名医もあり、地元では評判の病院である。
だが、神崎源蔵がこの病院に運ばれてきたときには、既に手の施しがないほど腫瘍が酷く、最上の名医と呼ばれた神の手でも、延命措置を講じるそれ以外に、何もできなかったのである。
「我々の力不足です・・・・申し訳ありません」
神崎源蔵の容態は、一樹が指摘したように思わしくなく、医者の診断も余命いくばくもないだろう、と遠まわしに告げていた。
父親である源蔵の死去は、次の当主誕生を意味する・・・・その次期当主の座に一番近くに居るのは、頭脳明晰にして草薙家の後ろ盾も得ている一樹だということが、尚一層、和馬の心を重くした。
限られた時間ではあったが、主治医から面会の許可が許された。
「親父・・・・」
「よぉう。和馬かぁ・・・・今日は早いのぉ?」
和馬の父、神崎源蔵は今年で47歳。旧姓は松伏。神崎家の使用人から這い上がり、当主の座を得てから十余年で、神崎の家名を都内有数の資産家にまで登りつめた、カリスマ実業家である。
もっとも近年は病床に居る時間の方が遥かに多く、かつての面影は神崎の家名と同様に陰りを帯びてきていたが・・・・
「んっ、今日、卒業式・・・・」
「どうだ、弥生さんとは旨くいってるか?」
「んっ、まぁ、ボチボチ・・・・」
心の中で「兄貴のほうが・・・・」と付け加える。
源蔵がここに入院してから、どれだけの月日が流れたことだろうか。
最初はただの胃潰瘍という話だった。それが徐々に入院するようになってこの病院に移され、末期癌だったと知らされたのが去年である。
つまり源蔵は、草薙家から婚約破棄された事実を知らないのは当然のことである。そして懸命に根回しして、ようやく草薙弥生を和馬に宛がうとした源蔵であっただけに、和馬も婚約破棄された事実を告げられず、今日に至っている。
「来月、家を出るよ・・・・勿論、直人も一緒」
「おぅ、いよいよ自立か?」
「それもあるけど・・・・それだけじゃないんだ」
病状の父に告げるべきかどうか迷ったが、和馬は正直に現状の我が家を父親に告げた。
兄が、母の結婚に関連する一件の予測を妄信していること。
それに伴い、父の源蔵及び、弟妹たちを激しく毛嫌いにしていること。
源蔵が入院するようになって、更に拍車がかかったこと。
当主に就任次第、和馬と和美を神崎家から追放を宣告していること。
草薙弥生との婚約が解消されてしまったこと。
そして最近になって、その弥生と一樹が婚約してしまったこと。
「それで素直に家を出るか・・・・」
源蔵の言動はどこか、挑発的だった。自身が病状のベッドの上で無為な時間を労しているだけに、煮え切らない実の息子に歯がゆかったのかも知れない。
「でも、それ以外に・・・・」
「一つだけある」
源蔵はきっぱりと指摘した。まるで病魔に冒されている人間とは思えない威厳に満ちていたほどに・・・・
「わしの死後。和馬、お前が当主に治まればよい」
「えっ?」
確かに和馬が当主に治まれば、立場はたちまち逆転する。兄が当主となってできることを、和馬にもできるのだ。
「でも、無理だよ・・・・」
和馬と一樹の差は歴然だ。
神崎家の当主就任には、先代の指名などで決まるものではない。一族を納得させるための、如何に神崎家のための人脈を確保するか、だ。
その意味においても、草薙家との婚約が解消されてしまったのは痛い。
兄貴には勝てない。頭脳明晰、様々な分野の人脈もあり、資金難に陥っているとはいえ、由緒正しき名門草薙家の後ろ盾もある。
その全てにおいて、和馬は大きく劣っていた。
源蔵は静かに眼を閉じて、病室の書棚から一冊のノートを手にした。
「受け継がせるときがきたのかも知れんな」
病魔から回復する可能性はなく、残されている寿命も残り少ない。
だが、源蔵も理解している。これは禁断の果実だ。使い方一つでとんでもない悲劇を巻き起こしかねない。
かつての自分(源蔵)のように・・・・
だが、受け継がれていかなければ、この恐ろしいノートは他者の手に渡り、どんなことが引き起こされるか解かったものではない。
「受け取れ。和馬・・・・」
「ノート?」
「使うか、使わないか、はお前次第だ」
源蔵から譲り渡されたノートを手にとる。だが、手にした限りではただの変哲もない、極普通のノートである。《ペラッ、ペラッ》と捲っても、一枚目は白紙・・・・二枚目も白紙・・・・
「ただのノートじゃん・・・・んっ?」
何ページか目にして、ようやく見慣れた名前が表れてきた。
「神崎、桜・・・・って・・・・」
現神崎家の大御所であり、和馬たち兄弟にとっては御祖母に該当する。そしてそこに記されているのは、たったの五項・・・・
《 桜 》瑞穂と鳳一輝の婚約を解消させること。
《 桜 》松伏源蔵を、娘、神崎瑞穂の婿とする。
《 桜 》一族を召集させ、瑞穂の身体の自由を松伏源蔵に与える。
《 桜 》瑞穂の身体に膣内射精することによって、源蔵に全幅の信頼を寄せていくこと。尚、瑞穂の身体が源蔵の射精を受け入れたときに、二人の婚儀が成立したこととする。
《 桜 》松伏源蔵を神崎家の当主に据え、自らは山陰で隠棲すること。
である。「これって・・・・?」
和馬の疑問をゆっくりと手で押し切った。そして源蔵は初めて、それまで家族の誰にも語ったことがない、自身の過去を息子に吐露する。
今から数十年前・・・・
松伏(旧姓)源蔵は、絵に描いたような苦学生であった。源蔵の父の代で事業が完全に失敗・・・・膨大な借金だけが残り、破産宣告することも許される問題でもなく、一家は離散した。
その時に源蔵に譲り渡されたのが、代々から伝わる通称「マインド コントロール ノート」・・・・現在、和馬の手に委ねられたMCNである。
MCNを手に入れた源蔵は、苦難に苦難を重ねて、なんとか高校卒業に漕ぎ着けた。周りから貧乏だの、臭いだのという風聞に耳を塞ぎ、それでも尚、彼はMCNに手出しはしなかった。
自分の力だけでも世間を渡っていけるのだ。と・・・・
だが、神崎家の使用人になったとき・・・・神崎瑞穂との出会い、その婚約者、鳳一輝の鼻持ちな態度の数々、瑞穂の源蔵に対する屈辱的な扱いが、彼に禁断の扉を開かせてしまう。
当時から大御所であった神崎桜の頭髪を誰にも見咎められず手に入れることは、使用人という立場上、そう困難なことではなかった。
神崎桜の頭髪を手に入れた源蔵は、先の五項をノートに書き記した。
その結果・・・・
神崎瑞穂は、桜の一方的な意向で、鳳一輝との婚約を解消させられてしまう。その上で神崎家の血縁縁者を召集させ、自由を奪った瑞穂の身体を、松伏源蔵に与えたのである。
「さぁ、松伏殿。瑞穂の準備は万全。好きに求められるが良い」
猿轡された瑞穂が、涙混じりに懸命に頭を振る。だが、両手両足は大御所の命令とあって、数人がかりで押さえ込まれている。もはや逃げ道はなかった。
「瑞穂ぉー、瑞穂ぉー!!!」
呼ばれもしない鳳家の嫡子もまた、大御所の意向により取り押さえられ、これからの儀式に静観を余儀なくさせられてしまっていた。
両足を開脚させられた瑞穂の入り口が源蔵に差し向けられる。隆起したペニスを宛がい、ゆっくりと瑞穂を貫く・・・・令嬢の極上な脾肉をゆっくりと味わっていく。
ギッチリと肉襞が全体を包み込み、ミチミチと柔肉が締め付ける。自慰では絶対に味わえない、最高の感触である。そして、これまでに経済的余裕がなく、女性と全く縁がなかった源蔵にとって、初めてだった女の身体の感触である。
ぐふっ・・・・こ、これは、たまらんわ。
源蔵の極太ペニスが瑞穂の身体に全て納まる。
「尚、瑞穂の身体が松伏殿の放出を受け入れたとき、神崎家の大御所の名において、松伏殿との婚儀が成立したとき、とする・・・・」
既に懐妊の兆しが現れていた瑞穂であり、当然、非処女でもあったはずの身が、源蔵に貫かれて激しく号泣した。もはや源蔵の逸物は瑞穂の膣内に全て納まり、ゆっくりと抽送を開始した男の眼差しには、膣内に果てることだけしか映っていない。
「むぅ〜〜むぅ、むぅぅぅぅん(嫌・・・・こ、こんなの嫌ぁぁぁ)
次第に源蔵の抽送が荒々しくなっていき、公然と陵辱される令嬢の姿にその場に居合わせた全ての人間の鼻息が荒くなっていく。瑞穂の婚約者である、鳳一輝もその例外ではなかった。
一族に拘束された瑞穂には、婚約者の目前で陵辱される運命からも、そして膣内出しされる運命からも・・・・逃れる術はなかった。
それまで瑞穂の膣内を絶えず抜き挿ししていた源蔵が、両肩を押さえ込んで瑞穂のもっとも深い場所で、何十年ぶりの精を吐き出される。
「むぅ・・・・むぅ・・・・」
次第に制動していく源蔵の突き上げのたびに、熱い吐息が漏れる。
周囲が静観する中、激しい源蔵の射精が瑞穂の胎内に放たれていった。
膣内射精を終え、源蔵がペニスを抜き出した後も、瑞穂の自由は回復させてもらえなかった。そのまま結合部を突き出されるように晒し続け、源蔵に膣内出しされた証左が、糸を引いて滴り落ちるのが確認されるまで、彼女は羞恥に耐えなければならなかった。
一族の前で宣言した大御所の言葉に逆らうことはできず、瑞穂は松伏を改め、神崎源蔵を夫として迎える手筈に従うしかなかった。
次に周囲を黙らせるだけの実績、後ろ盾の確保もMCNを利用すれば、造作もないことである。
この瞬間、神崎源蔵は第二十六代、神崎家の当主に治まったのである。
こうして源蔵は易々と神崎家の新当主の座と、神崎瑞穂の身体を手に入れることができたのである。
その源蔵に誤算があった、とすれば、既に瑞穂が懐妊していた事実と、鳳家の嫡子、鳳一輝が服毒自殺を遂げてしまったことだろう。そして、後に瑞穂に下した一項に、
《 瑞穂 》源蔵との間に設けられた子供は、出産を最優先とする。
が、あり・・・・難産と申告されたのにも関わらず、瑞穂はノートに記された指示どおり、和美の出産を強行させてしまったことである。
その結果、和美は無事に誕生を遂げたが、医者が指摘した難産が祟って瑞穂は帰らぬ人となる。
鳳一輝が自害した、と聞かされたときでさえ、後味の悪い思いでしかなかった。そして瑞穂の死・・・・
それは神崎家の当主の座に着いた後にも、絶大なMCNの魔力に酔っていた源蔵にとって、重たい鈍器で頭を叩かれたような思いであった。
それ以降、源蔵がMCNを開くことはなかった。
「言い訳になるが・・・・若かった。今更後悔しても何も始まらないが、な・・・・」
和馬はMCNを握り締めたまま、何も言えなかった。
初めて触れる父の過去はやはり、衝撃的だった。信じていたものが崩れ落ちていく、そんな錯覚さえ覚えた。
(MCNとやらを使って、結果的に母さんを抱いたのって・・・・)
それは一樹が口にした、レイプしたのと何処が、どれだけ違うというのだろうか。一樹は偏見と推測を頼りに、真実に近い答えを導き出していたのではないだろうか・・・・さえも。
《 神崎さん、面会終了のお時間です 》
病院の待合室で気がつくと、ガラス越しに見渡せる外は既に薄暗くなっていた。冬の日暮れは余りにも短い。
兄は正しかった。そう正しい推測だったのだ。だから、正しい兄が神崎家の当主に就任するべきではないか・・・・いや、それでは和馬も和美も路頭に迷っていくことになる。生活に困らない程度の蓄えは和馬個人にもあるが、いずれ底が尽きるのは明白だ。
だめだ。混乱してて思考が・・・・
ちきしょう。ちきしょう・・・・
病院の待合室で呆然としていた和馬に、見慣れた姿が迎えにきていた。恐らく面会可能時刻を過ぎても帰らない和馬を心配してきてくれたのだろう。
「和馬さま。源蔵さまにお目通りできましたか?」
「な、直人・・・・」
和馬は泣いた。久しく人前で泣いた・・・・
何処をどう解釈したのか、または察してくれたのか、直人は静かに抱き寄せる。落ち着かせるように優しく抱きとめてくれる。
和馬は何も言えぬまま忠臣の胸にしがみつき、懸命に声を押し殺すように呻きを上げ続けた。
様々なネオンの光が視界に入っては過ぎ去り、そんな外の景色を眺めながら、和馬は思考を停止させていた。
「・・・・・・・・」
今は何も考えたくはなかった。そんな和馬の心境を察してくれているのだろうか、直人の運転はいつも以上にゆっくりで、静かだった。
「親父は・・・・思ってた以上に元気だったよ・・・・」
「そうですか・・・・」
バックミラーで和馬を確認したあと、再び視線を前方に向ける。
直人は必要以上に追求してこなかった。その心遣いが今は特に有り難かった。
そんな直人を自分直属のSPとして付けてくれたのも、これまで裕福に暮らしてこられたのも、紛れもなく父親・源蔵のおかげである。十分に感謝していた。一樹の出生の秘密を知ってから、反抗した時期も確かにあったが、心の底では威厳に満ちた父親を尊敬もしていた。
そう、尊敬していたのに・・・・
翌日の目覚めは最悪だった。昨夜、遅々として寝付けなかったことが原因なのは間違いないだろう。
親父の過去の過失に関しては、ひとまず心の隅においておく。今、もっとも優先的に考えなければいけないことは、一樹の当主就任について、黙認するか、それとも対抗するか、和馬の今後の方針についてだろう。
もし前者ならば簡単だ。桜花中央学院に進学して、卒業し、神崎の姓を捨てて働けばいい。当然、今までのような暮らしは不可能だが、神崎家のしがらみ(男であろうと女であろうと、神崎家の方針として、新たな名家との繋がりが義務付けること)からも解放され、普通の高校生活を横臥することが可能だろう。
一方の後者の対抗する場合だが、これまでに恋愛一つ体験したことがない和馬にとって、
「マインド コントロール ノート・・・・か・・・・」
これが最大限に活用されることになるだろう。いや、それ以前に一樹を操ってしまえば、自ら当主就任を辞退させる方向に誘導することも容易ではある。
昨日には気付かなかったことだが、神崎桜以外にもう一人、和馬の良く知る人物の名前が最後のページに登録されてあった。
その最後のページの側面、裏表紙には自筆による説明書きが記されている。色々とコントロールするための条件とか、使用のできない場合などが記載されてあるのだ。
が・・・・
ふと、自分が騙されているのでは、思ったのはこの時である。親父の悪質な悪戯に担がされたのかも知れない。と。
「もしかして、兄貴に気後れしていた俺に発破を掛けたのかも知れない」
ある人種は悲観的な推測よりも、楽観的な思考を求めるという。和馬もそれに近い部類に入るだろう。
それまでにない気軽な気持ちで、説明書きを見入っていく。
ページ数は40ページ。マインドコントロールするには、その人物の皮膚や頭髪などが必要。つまりDNAを鑑定するものに限定されるわけだ。現在、埋まっているページ数は14ページ。つまり後26人分操作可能、となる。ただし、現在の登録されてある14人が死去した場合、その人物分のページは白紙に戻り、再利用が可能となる。
またノートにページの人物を問いかけることによって、そこに登録してある人物像が記載されるとある。
使用目的の用途は、大まかに分けて三つ。
「直接行動、と、思考操作、そして、制限だな」
直接行動は、基本的に、いつ、どこで、何をした、をベースにしているようだ。
「昔、そういうゲームあったよな? あれはいつ、どこで、誰が、誰に、何をした、ってやつだっけ?」
このMCNの場合、行動を起こさせる人物が既に定まっているので、「誰が」という部分は省かれている。
いつに関しては西暦でも年号でも問題はなく、また当人が自覚できないタイミングでも構わないようだ。どこに関しても、細かく設定すればそのきめ細かく指定した場所で、大雑把ならば記載された範囲内。ただし、いつとどこで関連していて、物理的に不可能な指示は無効とされ、または前後に矛盾した指示には、新しく記載された方の指示を優先とする。
またその行動を本人に自覚させたり、自覚をさせなかったりすることも可能とされている。
思考操作の方は、その人物の思考に一定の方向を定めさせる。あくまで思考操作であって感情操作ではないので、行動操作に比べるとやや遅効的な効果だろう。
たとえば、誰かに和馬へ会うたびに好感を抱かせていけば、次第に相手は和馬に恋心を抱き、愛していくことになるだろう。またこれは、直接行動と重ねて実行すれば、更に効率が良い。
制限に関しては、限られた期限内や無期限に渡って、その人物の思考を強制的に制限させられることができる。
たとえば、ないものをあるように信じ込ませたり、見たものを認識させないようにしたりすることも可能だ。また、例え秘密を知られてしまったとしても、口外できないように記述しておけば、完璧な口封じともなる。
尚、源蔵が瑞穂を死に至らしめてしまった《子供の出産は最優先》は、これに該当するのだろう。
MCNをベッドの端に投げ捨てて嘯く。
「デスノートじゃあるまいし・・・・まぁ、よくよく考えてみれば、嘘臭い話だよな」
社会現象までブームとなった某マンガを引き合いにだし、和馬は軽く頭を掻いた。
やっぱり、親父も入院中で暇を持て余し、試しに読んだそれを引き合いに出すことで、煮え切らない自分に発破を掛けただけなのかもしれない。
マインドコントロールなんて、なんて非現実的な話なんだろう。もっとも昨夜、それを真に受けて衝撃を受けた自分ではあるのだが・・・・
起き上がって軽く伸びをする。
そろそろ昼食の時刻だ。
和馬はノートを閉じる瞬間、見落としていた。裏表紙に相対する最後のページ。和馬の良く知る人物の名前が登録されていたページに、和馬に忠実な側近の表情が描かれていたことを・・・・
真田直人。
和馬がもっとも見慣れていた直属のSPの表情だっただけに、違和感なくノートを閉じてしまっていたのだ。
「誰」という和馬の言葉に、MCNは忠実に作動していたのである。
それは和馬の楽天的な思考を否定するような、このノート自らが本物であることを、まるで主張しているようでもあった。
隣室で荷造りしている直人に声をかけ、一足先に一階へ下りる。
訪れた食堂には私服姿の和美の姿があった。
「今日は日曜日か・・・・」
「あ、かずにぃ。ケート、TVに出てるよ」
ケートは和馬が芸能人の中でもっとも応援する、子役上がりのトップアイドル女優だ。本名を青山恵都、確か和馬より一個上の16歳。甘栗色のロングヘアーに、迫真に迫った様々な表情は子役時代から好評だった。
「んっ、今日は何か特集やっていたっけ?」
「あ・・・・」
途端に和美の表情が翳る。その妹の劇的な変化だけでも、何が起こったのか容易に理解できた。今の神崎家に、和美の表情を翳らす存在は、唯一に一人だけだ。
ちっ、
背後から一樹のあからさまな舌打ちが耳につく。原因は明白で、とった行動こそ反対ではあったが、和馬が食堂に入ったときに口にしたそれであろう。
TVの電源を落としただけではなかっただろう。
食事は息苦しいほどに静粛な空気で始まった。そして最悪の展開を迎えて、険悪な終幕によって幕を閉じることになる。
「和美、お前だけは神崎家に残してやってもいいぞ」
一樹の視線が和馬に向けられる。まるでお前は「論外」と言うかのような不快な視線だ。
まるで既に当主の座に治まったような、尊大な態度にムッとした和馬であったが、和美だけでも神崎家に残留が許されるという話は悪い気がしなかった。最悪、和馬一人だけなら、今の蓄えだけでもやっていく自信があるからだ。
そんな俄かな気分も、次の一樹の発言で一気に吹き飛ぶ。
「少しは神崎の血を引く女を抱けるとすれば、使用人の募集にも困らないだろうからな」
もし、この場に草薙弥生が居れば、一樹とて言動を自重しただろう。
だが、昨夜と異なり、今の食堂には兄弟妹と、隣室に直人と郷田が控えているだけだ。
一樹が立脚してこちらの席へ歩み寄る。
「お前は毎日、毎日、使用人たちの捌け口代わりに抱かれる。お前みたいな雌豚には、ピッタリな役職だろう?」
「かずにぃ、助けて・・・・」
ビクッと震えて、和馬の背後に隠れる。源蔵が入院してからというもの、神崎家の主が帰らなくなってしまったこともあって、長兄の兄弟に対する対応は一層、厳しくなった。同時に母親が死んだ元凶の一人でもある和美への仕打ちは、その怯える妹の仕草からでも伺える。
「いい加減にしろよ!」
「あぁ〜? 俺は和美だけに話しかけてんだよ。もうすぐ神崎家と関係なくなるお前は黙ってろよ」
立ち上がった和馬と、見下ろす一樹の視線がぶつかる。長身の一樹ほどではないが、和馬も同世代の中では長身のほうだ。あと数年もすれば、肩を並べるぐらいまで伸びるかもしれない。
「かずにぃ、止めて・・・・いちにぃも喧嘩しないでぇ」
「俺を兄と呼ぶな、と何度言えば理解できる!」
《 パァン!! 》
二人の間に割って入ろうとした和美の頬が、激しく鳴り響いた。
「きゃっ!」
小柄な妹の身体だっただけにテーブルに激突し、載せられていた冷めかけの料理が飛び散り、何枚もの皿が割れていく。
「兄貴!!」
和馬は握り拳で殴りかかる。
こっちから殴るのは初めてかもしれない、と思ったが、殴り合いまで兄弟喧嘩が進展したのは、今日が初めてだった。
和馬の拳は、さきほどまで兄の顔面があった宙を切り、反動を付けられた拳が和馬の腹部にめり込む。ボクシングでいう、カウンターのボディーブローといったところか・・・・
隣室の騒ぎを聞きつけ、郷田聡と真田直人が食堂に駆け込む。
「お前たちは手を出すなよ」
一樹が入室してきた二人に厳命し、再び突出してきた和馬を迎え撃つ。
孤を描いたフックが和馬の頬を吹き飛ばし、返す拳が顎を突き上げる。和馬の晒した腹部を一樹の回し蹴りが一閃。
時間にして、僅か数秒・・・・一方的だった。
互いの年齢差それ以上に、実力の差は大きかった。
な、殴り合いさえも叶わないなんて・・・・
和馬を襟首から起こし上げ、突き上げる。
「うぐぅ」
「一体、何度言えば理解する。俺とお前らとは、赤の他人。持って生まれてきた血筋も備えられた実力も、全ての次元が違うんだよ。解かったか? 低脳ども」
「もう止めて! かずにぃが死んじゃう」
懸命に二人に割って入ろうと和美に、一樹の激した視線が向けられる。
「これで解かったか、和美・・・・お前は雌豚なんだ。家畜なら家畜らしく、俺の言葉に従えばいいんだ!!」
「もう許して。いちにぃに従うから、お願い、かずにぃを降ろして・・・・」
「和馬、聞いたか? 和美は雌豚。神崎家の家畜なんだよ。俺に従う畜生だと認めたんだよ」
そのとき、直人は床下に転がったナイフを拾い上げると、罵り続ける一樹の咽喉下に滑り込む。その凄まじい速度から一樹の咽喉に触れているのにも関わらず、鋭利なナイフは一樹に傷を付いていない。
同様に控えていた郷田は身動き一つとれなかったほど、直人の卓越した絶技には、さすがの一樹も息を呑んだ。
「それ以上の暴言は控えられた方が宜しいか、と・・・・」
「直人、貴様ぁ〜〜手を出すな、と・・・・」
「誤解しないで欲しい。わたくしに命令ができるのは和馬さまだけです」
直人は和馬直属のSPである。当主の源蔵が、というならともかく、一樹の言葉に従わなければならない義理は、直人にはない。
一樹が正式に神崎家の当主にでもならない限り・・・・
同じく控えていた郷田が始めて動こうとしたが、主人の一樹にナイフが突きつけられている以上、下手に動くこともできない。
「ちっ、」
一樹の力が弱まり、和馬はその場に落ち捨てられた。
同時に一樹に突きつけたナイフを外し、直人は背後に佇む巨漢に振り返った。
「さて、わたくしたちも一戦、繰り広げますか? 今、ここで」
直人の言動から本当の殺意が溢れ出ていた。戸籍上とはいえ、大恩ある源蔵の息子に手出しすることには抵抗を感じるが、そのSP風情には何の手心も加える必要は感じられない。
キィーン、と、打って変わって緊張感溢れる空気に包まれる。
郷田も一樹直属のSPとして長く、それ以前の経歴と実力は相当なものである。格闘戦だけなら直人でも分が悪いかもしれない。
「郷田、相手にするな。行くぞ」
その一言が、剛の郷田、柔の真田、神崎家が誇る二大SPの対決は未然に防がれた。
無論、機会があれば今後も幾度となく激突するであろう。
「か、一樹・・・・憶えていろよ・・・・」
「クククッ。低能、いや家畜のセリフに相応しいな。それは負け犬の遠吠え、って言うんだ。憶えておけ」
一樹の嘲弄が食堂に響く。
「それでも家畜如きが足掻いて何かできるなら、やってみせろ! 褒めて遣わしてやる」
その高慢な一言が、和馬の復讐心を駆り立てていくことになる。
「所詮は家畜。たかが知れていると思うがな!」
郷田を引き連れて退出した一樹の嘲笑が、尚も神崎家全体に響くようであった。
一方、既に開放された和美は、未だ恐怖感で一杯であった。
「も、もう・・・・言わない、い、言わないから・・・・ゆ、許して。ごめんなさい・・・・許してぇ」
既に姿のない長兄に対し、泣きながら詫び続けている。
悔しかった。一樹の言動にもだが、それ以上に己の無力さに。
一樹!!! 俺は絶対に・・・・
直人に抱えられて、和馬は自分の寝室へと運ばれた。
同世代の女生徒から人気のあった顔は見る影もなく、少し力を入れただけで全身に痛みが走る。幸い、殴打による外傷はないという直人の診断であったが、一樹に感謝する気は微塵としてなかった。
「直人・・・・」
「はい?」
「ありがとう・・・・」
「いえ」
感謝の言葉には、事態を収めてくれたことだけでない。直人の力量ならば、もっと早くに事態を収拾することができただろう。ここまで無残に殴られることも回避できたはずだ。だが、その場合、和馬のプライドはズタズタにされていたことだろう。
直人はあのとき、和馬の名誉も救ったのである。
まるで病人か、重傷者のように丁寧にベッドに横たわらせる。
少しの間、主従の間に無言の時間が流れた。
直人は必要以上に黙ったままだった。一つには何を言っても、玉砕した和馬をより惨めにさせるだけであったし、これを期に和馬が生まれ変わる可能性を摘み取るわけにはいかなかった。
「直人・・・・」
沈黙は直人の推測どおり、和馬のほうから破られた。
片腕で悔し涙を隠し、決意を口にした。
「俺に格闘を教えてくれ」
「かしこまりました」
和馬が涙を拭い、直人を見据える。
直人は主人の良い傾向に微笑し、これを快諾した。
よほど今日の惨敗が悔しかったのだろう。だが、人はこのときに流す悔し涙を糧にして、強くなっていくことができる。かつての無慈悲な戦場で多くの戦友を失っていった自分のように・・・・
またこれからの和馬には、絶対に必要になってくるだろう。神崎家の当主となるまでも、当主に就任してからも・・・・・もしくは、神崎の姓を捨てることになったとしても・・・・護身術を覚えておくことは、その後の和馬にとって、マイナスには成り得ないはずだ。
「さっそく今日から頼むよ・・・・」
「わかりました。わたくしの指導は戦場仕込みですので、和馬さまでも厳しく感じられる、と思いますが・・・・」
「それで、よろしく頼むよ」
苦笑しようとした和馬だったが、痛みでうまく笑えなかった。
ふと、直人は和馬から視線を外し、愕然とする。恐らくは和馬の前で始めてみせる反応であった。
「直人!?」
「う、受け継がれたのですね・・・・」
「ああ、それか。昨日、親父が・・・・」
直人がベッドの上に放置されていたMCNを拾い上げた。
「知っています・・・・このノートのことは、わたくしも・・・・」
その直人の反応と返答から、まさか、という思いが和馬によぎった。
「じゃあ、お、親父の話は・・・・ほ、本当なのかぁ?」
その疑問には答えず、直人はノートを和馬に差し出した。その間の沈黙が和馬の疑問を肯定している。
神崎源蔵が中東の紛争地帯で直人を拾ったのは、今から十八年前の話である。当時、直人は(推定で)十四歳。未だに実の息子に恵まれなかった源蔵が、直人をいたく気に入り、引き取ったのである。
本当に養子にするつもりであったのは、源蔵の熱い愛情からも伺えた。ただ、それと前後して妻の瑞穂がようやく、源蔵に心を開き始めていた頃で、結局、妊娠(和馬)したため、養子縁組の件は霧散した。
しかし、直人への愛情が薄れたわけでもなく、彼は直人に当時でも最高の教育を施し、直人もまた源蔵からの期待に懸命に応えた。その甲斐もあって、直人は源蔵の直子、生まれたばかりの和馬の守り役をも任せられるようになった。
だが、この頃の源蔵は、まだMCNの魔力に心を奪われていた、暗黒の時期でもあった。それを直人だけに打ち明けたのは、源蔵が心から信頼する証でもあっただろう。
「最後のページには、わたくしが登録されております」
それは直人が自ら、ノートに自分を記録させたのである。
「もし、わたくしがノートの存在を知り、ノートを狙う人物に囚われでもしたら、和馬さま。わたくしのノートに関する記憶を消してください」
無論、直人とてそう簡単に口を割るつもりはない。だが、無限に続く拷問の日々と、永遠に投薬されるだろう自白剤。万が一ということも考えられるだろう。
MCNを握り締めて問いかける。
「直人・・・・」
「はい?」
「このノートを使って、復讐することも可能か?」
誰に、とは敢えて口にするまでもなかった。
「ノートを持つ者にとって、それは当然の権利だと思います」
直人は内心の不安を他所にして、和馬に即答した。確かにノートを手にした和馬が復讐を目論むのは当然のことである。如何に長兄とはいえ、神崎一樹はそれだけのことをしたのだと、直人には思えてならない。
そうか・・・・当然か。
和馬の身体が僅かに震えた。
父の話を聞いて昨夜は源蔵を軽蔑したものであるが、昼間の一件もあって、今はそれが真実であったことに無性に嬉しく思えてならなかった。
くっくくくくくっ。
昼間の一樹の嘲笑が再び脳裏に駆け巡る。
【家畜のセリフに相応しいな。それは負け犬の遠吠え、って言うんだ】
いつの日かそう遠くない日に、そのセリフを送り返してやろう。
【それでも家畜如きが足掻いて何かできるなら、やってみせろ!】
ああ、やってやるさ・・・・
兄貴の思いもよらない復讐をなぁ!
当時の口惜しかった分だけ、これからのことを想起しただけで、和馬には愉快だった。
「直人、速やかに一樹の髪の毛を手に入れろ・・・・」
「はっ・・・・」
MCNの力を手にした和馬が、一樹のDNAを求めるのは当然のことであろう。神崎の家に残していかなければならない和馬の妹、和美の存在が気がかりだろうし、また、この時点で一樹の名を登録させておけば、一樹の当主就任だけは、絶対に免れることが可能だからだ。
だが、和馬の復讐は一樹だけに留まらなかった。
「それから・・・・草薙弥生のも、だ!」
一瞬だけ、直人が硬直した。先ほどの和馬に感じた不安が現実のものになりつつある。そんな気がしたのだ。
故に直人は問わずにはいられなかった。
「何故、弥生さまを・・・・」
「草薙弥生も復讐の対象とする・・・・」
自分との婚約を解消させた過去だけならともかく、和馬の兄と知りつつ一樹と婚約する彼女の、その背信行為が許せなかった。
「兄貴の予想すらできない、もっとも悪質なやり方で・・・・草薙弥生を犯す!」
「弥生さまを犯す・・・・一樹さまへの報復の一環として、和馬さまがそう行動するのは、ノートを所持する者として当然の行動ではありましょう・・・・」
和馬の意思に反対をするつもりは毛頭ない。
直人はここ最近における和馬の変質を、一番に理解している人物であろう。信じていたものが次々と崩れ、圧倒的な力量差で完膚なき叩きのめされたのである。これで尚も変化のない人格は、精神的欠陥を持っているのか、常軌を逸している。そんな変哲のない和馬に仕えることは、直人のような男であっても、返っておぞましく感じてしまう。
「和馬さま・・・・和馬さまの思惑を反対するわけではありませんが」
それだけに直人は、和馬に質さなければならなかった。
「宜しいのですか? それは和馬さまが憤りを受けたであろう、源蔵さまの瑞穂さまへの所業などよりも遥かに、悪辣な行為となるのですよ」
「なっ・・・・そ、それは・・・・」
僅かに和馬の視線が泳ぎ、内心の動揺が見て取れた。
やはり、気付いていなかったのだ。それだけに一樹に対する憎しみが強すぎた、ということであろう。もしくは弥生個人に対する親愛の裏返しか。
直人としては、一樹の家族への悪意を削り取り、神崎の当主の座を和馬に譲らせた上で政治家の官僚にでもさせておけば、全てが平穏に終わると思っている。もっとも家族への悪意がなくなれば、彼が神崎の当主をついでも、和馬はその兄を喜んで手助けできたかもしれない。
全ての発端は一樹の変質にあるのだ。
ただ昼間の一件だけでなく、ここ最近の一樹の暴走は、兄弟の同調させる道を完全に閉ざしてしまった。直人でさえ、あの高慢な言動が耳に残っているぐらいである。
その結果、和馬が一樹の婚約者と成り果てた弥生をレイプする。MCNを受け継いだ和馬には、それが可能であり、復讐の捌け口として弥生を犯そうという考えに和馬が至るのも、当然の流れだろう。
だが、その場の勢いに任せて弥生を犯せば、過日、それが第二の瑞穂とならないという保証はない。
「和馬さま。ただわたくしとしては、敬愛する源蔵さまが後悔する、その同じ轍を和馬さまには踏んで欲しくないのです」
「・・・・直人の言うとおりだと思う」
突然、和馬の声調が弱まった。直人が指摘の正しさを認めて、冷静さを取り戻したのだ。
「ただ、直人の指摘を理解した上で・・・・俺は弥生さんをレイプする道を選ぶ」
和馬は胸中にうずくまっている、黒い感情を全て吐き出した。
「正直、兄貴の婚約者になったことは許せない。そしてそれを前提に俺との婚約を解消したのか、と思ったら、尚更・・・・」
「和馬さまが納得できない、その気持ちは解からなくはありません。ですが、後日になって、弥生さまを犯したことを後悔されるようなことはありませんか?」
「・・・・・」
和馬は婚約中であった二年間を振り返った。
草薙家主催の新春会から二人の出会いは始まり、最後に会ったのは昨年の春休み中だった。結局、未遂となってしまったが、二人で初めてラブホテルに入った日だった。
婚約を解消された後も、弥生個人に対しては恨む気にはなれなかった。むしろ二年間、よくこんな自分に尽くしてくれたものだ、と感謝の気持ちですらあった。
そう、一樹との婚約話を聞かされる、昨日までは。
一樹と弥生の関係がいつから始まったのか、は定かではない。共に同じ東京大学とはいえ、婚約するまでの過程を逆算すれば、二人の出会いが最近ということはないだろう。
婚約期間中の二年目。弥生は大学受験ということで、会う機会は確かに激減した。それはあくまで理由で、実はその当時から兄貴と付き合っていたのではないだろうか?
兄貴と婚約するために、障害となった自分との婚約を解消させたのではないだろうか?
妄想は無限に広がっていく。
それだけに和馬は、一樹なんかと婚約した弥生が許せなかった。
弥生をレイプすることで、一樹への復讐の証としたかったのだ。
二つの激しい憎悪が相乗する。
「弥生さんをレイプするということが、人道に反する、というのなら」
和馬はもう躊躇わなかった。
「俺は、悪魔にでも鬼にでもなってみせる!!」
このとき、和馬は確かに・・・・禁断の扉を押し開いた。
そして禁断の果実を強引に掴み取り、それを食することを阻む存在は、まさに皆無であった。
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