第二話【 新春回顧 】( 過去 )


 《 和馬 視点 》


 それは今から、三年前のこと。
 桜が爽やかに満開する、三月下旬。
 当時中学生になったばかりの俺、神崎和馬は、名門草薙家の新春会に招きを受け、一人の可憐な少女と出会った。


 神崎源蔵が推し進めてきた数年がかりの一大事業であり、この話が首尾よくまとまれば、神崎家の家名は更に揺るぎないものになるだろう。そのために度々入院しなければならない身でも、源蔵は血なまこになって、この新春会に漕ぎ着けたのである。
 だが、その数年という時間が源蔵に大きな誤算を生んだ。
 草薙家の令嬢と同じ年齢である長兄の神崎一樹が、自身の出生の秘密を知って、あからさまに楯突くようになってしまっていたのである。
 一樹の本当の父、鳳一輝から神崎瑞穂を寝取り、一輝はその数日後に服毒自殺を遂げ、瑞穂もまた、源蔵の過ちによって死去している。二人の死は源蔵にとっても不本意なものではあったが、一樹に対する負い目は免れようもない。
 それもあって、源蔵には一樹の反抗を黙認するそれ以外になかった。
 だが、草薙家との話を流してしまうには、余りにも惜しい話である。
 そこで源蔵は次男の、従順な当時中学生になったばかりの俺に白羽の矢をたて、草薙家の催す新春会に望んだわけである。
 長男ではなく次男、ということで、草薙家の印象を悪くしないか不安な一面も少なからずあった。が、草薙家のほうでは、いよいよ深刻なほどの経営難に入る頃合であり、兄弟の上下に異を唱えることはなかった。



 旬の幸の料理は確かに、それほど悪くはなかった。草薙家が誇る庭園の素晴らしさも納得できる。だが、それらをじっくりと理解するには、俺は余りにも若すぎた。
 新春会のスケジュールは、庭園での昼食、御茶会、和歌、宴席、就寝までの五段階に分けられていると、出発前の父が言っていた。
 その一番目の段階で、俺は既に、退屈で暇を持て余してしまう。

 いい陽気だし、昼寝でもするか。少し眠いし・・・・

 そんな不毛な考えを抱きだしていた頃、俺の前にまるで天女のような少女が現れる。桜の花びらが舞い散り、和風な音楽が奏でられ、天女とさえ錯覚した一人の少女が鮮やかな舞を披露する。
 数年後には腰まで届きそうな長い髪も、この頃は両肩で綺麗に揃えた程度の長さで、男の和馬より一回りだけ大きく、それでも細い身体。それだけに年頃の乙女に相応しく、ほどよく発育された部位が際立つ。
 一瞬にして、俺の睡魔を吹き飛ばしてくれた。その余りの美しさに、俺は瞬き一つすることすら惜しんでしまったほどだ。
 俺に限らず、息を呑む観衆。次第に彼女の舞にも熱がこもった。
 それが卓越した技量であることは、舞踊に全くの素人目である和馬にも理解できる。
「・・・・・」
「どうだ、和馬。草薙のお嬢さんは?」
 頬ける俺の様子に父の源蔵が問い、草薙の両親も目を輝かせる。
「んっ、ああ・・・・」
 彼女を見ることで夢中だった俺は、曖昧な返答をしただけで、その内容の意味さえも理解できていなかった。
 草薙の家は名門の中の名門である。まして、弥生はその草薙家の一人娘であり、本来ならば成り上がり者の神崎家では決して、手に届かない令嬢であるはずだった。源蔵としては今後の神崎家の発展のためにも、この名家の血が咽喉から欲しいところであろう。
 一方の草薙家は、これから深刻な経営難という、過酷な冬の始まりを迎えるころで、この縁談を是非ともまとめて、潤沢な神崎の援助支援を得て財政を立て直したい思惑があったようだ。
 華麗な舞いも終幕を迎え、俺には時間がまるで止まったか、のような錯覚さえも覚えた。
 親父は放心している俺のために豪快に手を叩いた。それで我に返った俺も父に遅れて、素直に賞賛の拍手を惜しまなかった。
「お粗末さまでした・・・・」
 少し荒い息を整えて、丁寧に深々と一礼する。
「初めまして、和馬さま。草薙弥生です」

 これが俺、神崎和馬と草薙弥生、初めての出会いであった。


 御茶会は草薙家の一室にある静穏な茶室にて行われた。当然とばかりに俺と弥生は正対させられていたから、お互いを意識せずにはいられない。
 草薙家がこの日のために秘蔵してきた名品の茶器を、茶道坊主がほどよく暖める。さすがはプロ、見事な手さばきではある。
 だが・・・・
 本来、茶会とはお茶を飲むことを名目にし、会談ないし密談することが主目的である。それは今も昔にも、そう大きな差はないだろう。
 だが、俺から切り出せる話題はおろか、まともに口さえ動かなかった。恋愛経験のなさがモロに出てしまっていた。
「和馬さまにはお兄様が居るとお伺いしましたが・・・・?」
 彼女から話題を提起して貰わなければ話せないとは、我ながら赤面の至りである。俺は申し訳なく思いながら、弥生の問いに返答した。
「うん。それに妹もね」
「羨ましいです・・・・わたしには姉妹はいませんでしたから」
「んっ、でも、そんないいものじゃないよ」
 特に神崎家は、と心の中で付け加える。
「兄貴は兄貴で困った問題あるし、妹の和美には付きまとわれて、少し鬱陶しいし」
 俺は兄と妹の説明を交えながら、少しだけ、兄の存在に感謝した。
 一樹が新春会の出席を辞退したから、俺が呼ばれたのである。完璧な兄と聡明そうな弥生は確かに、ぴったりのベストカップルのようにも思えたが、それを想像しただけでも、不愉快指数が大幅に上がった。
「如何なさいましたか?」
 それが面に出たのだろう。弥生は怪訝そうに尋ねる。
「いや、気にしたら、ごめん・・・・少し兄貴のことを、ね」
「一樹さま、でしたよね?」
「うん。本来ならば、兄貴がここに来ていたはずなんだよね」
 和馬は視線を泳がせて、言葉を続けた。
「そしたら俺は、今日ここで弥生さんに会えなかったんだなぁ・・・・てね」
 相手が和馬に替わる、ということは、草薙家は承知していることではあるが、詳しい理由は知らされてはいないだろう。当然、弥生にしてもその理由は解からないだろう。
 こちらから振れるような他の話題もないし・・・・
 和馬は一樹が異父兄弟であり、兄弟間が険悪な関係であることを打ち明けた。そしてそのためには神崎家の家訓ともいうべき仕組みも説明せねばならず、和馬の説明は長々と続いた。
 和馬の説明に口を挟むことなく聞き及んでいた弥生は、最初に兄弟の話題を提起したことに謝罪した。
 その上で弥生は言う。
「ですが、きっといつか、解かり合える日が必ずくると・・・・わたしは思いますよ」
「ありがとう、弥生さん・・・・」
 その彼女の言葉が現実のものになってほしい、と切実に願った。小学生時代の一樹はまさに理想的な兄であり、俺の自慢でもあったのだ。

 だが、後日の俺は、この弥生の言葉もあって、激しく彼女を恨むことになってしまう。彼女が俺と兄の一樹と険悪な関係を知りつつ、一樹と婚約してしまったのだから、俺の抱いた感情は当然のものではあろう。
 過去は知りえても、未来を覗き見ることはできない俺は、優しさに屈託のない弥生の表情に感謝してしまった。




 こうして御茶会、和歌とそれぞれの行事を大過なくこなして、俺は宴席の主賓として歓待された。同じ主席として対となるはずの弥生は、既に姿がない。
 暫くして宴席の最中、一人の女中が俺に訪れる。
「和馬さま、寝室の準備ができました」


 この日、和馬と弥生には二つの寝室が用意された。
 一つはごく普通の寝室であり、和馬か、もしくは弥生のどちらが入室するのが一般的な慣わしである。
 もう一つの寝室は、和馬がその部屋を訪れるのを待つ、弥生との寝室である。和馬がこの寝室を訪れた時点で「お手付け」といい、和馬は一晩、弥生の身体を自由にする権利が与えられることになる。
 和馬が弥生に手を付けてから、その和馬が寝付いた時点で、弥生はすみやかに和馬の褥から出て、お手付けをしなかった際の和馬の寝室に入る。尚、その際に弥生は翌々日までの入浴を禁じられ、お手付けされた相手の匂いを、その身にまとうことが義務付けられる。


 源蔵が卑下た笑みを見せ、草薙の両親も期待に満ちた眼差しを俺に向ける。どんな期待を抱いているのか、それが解からないほど自分とて子供ではない。
 無論、俺は童貞であったし、これまでに特定の彼女はおろか、恋愛一つした経験さえない。それでも同級生などでHな本を回し読み、アダルトDVDなども所持している。好奇心旺盛な中学生の中では、ようやく自慰を覚えたばかりと控えめなほうだが、ごく普通の性欲の持ち主であった。

 両親公認であの弥生の身体を抱ける、と思うと、股間がムクムクと反応を示すのは、ただ若さばかりではないだろう。
 それだけ草薙弥生の存在は、俺の心の中に強く根付いていた。
「それじゃ、そろそろ寝るね・・・・」
 まるで自分の考えを見透かされているような気がして、それはそれで癪ではあったが、このまま宴席の席に留まっていても俺に益はない。
 どちらの寝室を選ぶかは、席を立ち上がった時点で定まっていたが、
「がんばれよ!」
 源蔵のその言葉に、俺は思わず赤面した。

 弥生との寝室を前にして、少しだけ逡巡する間があったが、俺は自分の心に問いかけて意を決する。
 スー、とふすまを開けると、まさに白雪のような純白の蒲団の上に、二つの枕が置かれてあった。その蒲団の側面に、白装束を身にまとった弥生が指を付き立てて一礼する。
「何も知らぬ粗末なわたしではありますが、なにとぞ、よろしくお願い致します・・・・」
 言上する声調に、そして俺が一歩踏み出した際に、彼女の身体が僅かに震えたのを俺は見逃さなかった。

 ・・・・さすがに緊張しているな。彼女も・・・・
 ・・・・そして、俺も。

 俺が中学生、弥生も高校生ではあるが、二人とも恋愛した経験がないというところでは共通している。まして、如何に互いの両親が公認しているとはいえ、昨日まで全くの見知らぬ他人同士である。緊張するな、というほうが酷であろう。
 それでも弥生は気丈に平静を装って、純白の蒲団の中に入り、瞼を閉じた。ここで本来ならば、俺も蒲団に入って弥生の身体に覆いかぶさり、自らの性欲の望むままに彼女の身体を求めていくのが定石である。
 だが、俺は彼女の隣に寝そべっただけで、一向に弥生の身体を触れようという仕草を起こさなかった。
「何かわたしに、不都合が・・・・?」
「んっ・・・・」
 不審に思った彼女が俺を見る。
「別にそういうわけじゃないんだけど・・・・家のことで無理をすることはないんじゃないかな〜って」
 深い息を吐き出して、俺は髪をかいた。
「・・・・お互いにね」
 このお手付けには、源蔵が数年の歳月を費やしてまで結び付けたかったものであり、その父親の労力を無にはするには、扶養の身である俺には抵抗を感じてしまう。また弥生に至っても、役目を果たせなかった、ということで草薙の家に対しての立場がないだろう。
「俺がこの部屋に入った以上、それはそれで既にお手付けだけど・・・・」
 だが、その両家のためだけに、自分の童貞と弥生の貞操が犠牲にならなければならないのは、やはり俺的には面白くはない。
「本当の契りは、もっとお互いを知ってから、からでも遅くはない、と俺は思うんだけど・・・・どうかな?」
「和馬さまのお気持ちは大変に嬉しいのですが、神崎家からの援助がなければ、わたしの、草薙の家は・・・・」
「俺がここに入室した時点で、弥生さんは既にお手付けを果たしているじゃん」
 俺を見る弥生の瞳に、驚きの色が浮かぶ。要は自分たちだけの問題なのだと改めて彼女に告げると、やはり極度の緊張をしていたのだろう。口元を抑えて咽び泣きする。
「ごめんなさい・・・・もう覚悟はしていた、はずなのに・・・・絶対に泣かない、って・・・・ごめんなさい・・・・」
 そんな弥生の涙を見て、俺は改めて自分の選択が間違っていなかったことを確信する。

 自分とて童貞であり、SEXにも興味がない、と言えば嘘になる。まして相手は草薙家の令嬢にして、俺の知る限りでも、もっとも可憐な女性である。
 だが、それだけに俺は、この草薙弥生という女性を大切にしたかった。また契りを交わしていないとはいえ、お手付けが成立した以上、自分と弥生は互いに未成年ということもあり、婚約する運びとなろう。

 こうして俺と弥生は、掟破りではあるが、互いの身体を寄せ合って翌日の朝を迎えるのである。
「おはようございます」
「あ、んっ・・・・お、おはよう」
 俺も目覚めは決して悪くないほうだったが、弥生のほうが早く目を覚ましていた。やはり日頃の習慣の差というものであっただろうか。
「昨夜の和馬さまの心遣い・・・・ありがとうございました」
「んっ、気にしなくてもいい・・・・けど、できたらその「さま」は止めて欲しいかな。今でもかなり気恥ずかしい」
 弥生は笑顔で了承した。
「では、和馬さん・・・・」
「・・・・改めて名前で呼ばれるのも、気恥ずかしいかな・・・・」
 だが、まさか婚約者となる俺に「くん」付けで呼ぶのも可笑しなものであろう。
「もう!」
 愛らしい頬が膨れたが、それも僅かな時間のことだった。互いに自然と視線が重なり、どちらからというわけでもなく二人は口を合わせた。

 それは俺にしても、弥生にしても、ファーストキスであった。

 やがて唇が離れると、弥生は吐息が届くところで俺に誓った。
「和馬さま・・・・わたしは必ず和馬さまに、わたしの初めてを捧げることをお約束します・・・・ですから、待っていて貰えますか?」
 その提案は俺のほうから提起したのだが、改めて願い出る辺りに弥生の性格が窺えるだろう。
 それだけに俺は更に、彼女に対して好感を抱いた。
「さま、じゃなくて、さん・・・・でしょう」
 弥生さんがそう呼び続ける限り、こっちも負けじと、弥生さま、草薙さまと呼ぶようにしようか。
 弥生は微笑して、「そうでした」と小さく舌を出す。
 そして二人は再び、顔を密着させて口付けを交わしていく。
 今度のキスは長くなりそうだな、と俺は思った。



 それから草薙弥生との、婚約者としての付き合いが始まる。
 ただ俺も弥生も、お互いに学生という身分であり、学業に拘束される時間が多い。しかも俺は一年生にしてサッカー部のエースナンバーを託された身であり、弥生に至っても、生徒会にテニス部の主将という立場もあって、会える機会はおのずと限定された。
 そのためか、弥生は定期的にメールを送ってきた。
 きちんと構成された文章の節々に、彼女の熱い気持ちが見え隠れする。返信こそ怠りはしなかったものの、俺のほうからメールすることは、何故か躊躇った。疎ましく嫌われてしまうのではないか、という不安があったのだ。
「それ、かずにぃの考えすぎ!」
 妹の和美はバッサリと断言する。
 既に俺が婚約している事実は家族周知のことで、和美は義理の姉になる弥生のことを度々訊ねてきたものである。そして決まって、早く弥生に会ってみたい、のだと目を輝かせた。
「かずにぃみたいな大雑把な人には、四つぐらい年上の、しっかりした人がちょうどいいかもね」
「ああ、そうかい」
 俺は口を尖らせた。
 和美は声を上げて、会話を聞いていた直人も思わず口元に拳を当てた。忠実な側近までが含み笑いしているのが、更に俺には面白くなかった。
 ふん!


 草薙弥生と婚約してから数ヵ月が経過し、
 彼女は俺の誕生日を独自で調べ、平日だというのにも関わらず、俺の学校まで会いに来てくれた。
 独特の校章が入った薄いベージュ色の上着から覗ける白と紺のセーラー服。見慣れない明らかな他校の制服に・・・・しかも、可憐な美少女である。
 男女問わずして、誰もが彼女の存在に注目した。
 校門で待つ弥生に対応してきた教師に一礼する仕草にも、名家の令嬢に相応しく、自然と気品に満ちている。
「神崎和馬・・・・? ああ、奴なら今、サッカー部の練習中だろうが・・・・」
 神崎家が都内有数の資産家である。教師が弥生の素性を問うのは当然のことではあっただろう。だが、俺は婚約している事実を学校関係者にも公表しておらず、教師の驚愕は、まさに絵に描いたような狼狽振りであった。

「和馬ぁー、未来の奥さんが会いにきているぞぉ!」
 サッカーグラウンド一帯に響くように名前を呼ばれた俺は一瞬、唖然とした。それが弥生のことだと気付く前に、サッカー部のチームメイトたちから冷やかしを受ける。
「和馬ぁ、お前いつのまに彼女作ってたんだぁ!?」
「ひゅぅー、ひゅぅー」
「くっ、一年生の分際で・・・・(何て羨ましい奴なんだ!)」
 真っ赤な練習着に負けないぐらい、俺は顔を真っ赤に染める。そんな俺に次々とサッカーボールをぶつけるチームメイトに先輩たち。
「和馬さん、来ちゃった・・・・」
 が、そのチームメイトも、実際の弥生の姿を見ては顎を外すような勢いで唖然とした。既に弥生の可憐さを知っている俺でさえ、一瞬「ドキッ!」する可愛さだ。次第に俺には激しい憎悪と羨望の眼差しを向けられ、肘打ちと膝蹴りの洗礼が加えられた。
 正直、かなり痛いぞ!
 彼らの言動からして、弥生のことをただの彼女だと勘違いしているような節があった。もしも彼女が婚約者だと知られれば、俺は再起不能になるまで小突かれていたかも知れない。

 秋の県大会が近いのにも関わらず、俺は帰宅することを許された。サッカー部のチームメイトからは、冷やかしにも似た声援が送られる。
「・・・・・」
 校内の同学生からも注目を浴びまくる。俺はムスッ、としたまま、黙って校門を目指した。
「ご、ごめんなさい。まさか、わたしとのこと、誰にも話していなかったなんて・・・・」
「・・・・・」
 俺は二人きりのときはともかく、人前では彼女に優しくすることができなかった。弥生には悪いと思いつつも、気恥ずかしさがどうしても先行してしまうのだ。
「本当に・・・・ごめんなさ・・・・い」
 俺は不意に振り返った。立ち止まっていた弥生が手を顔に当てる。
「おい、こ、こんなところで泣くなぁ。これじゃまるで俺が泣かして、悪いみたいじゃないか!」
 いや、明らかに俺の態度が悪いせいなのだが・・・・
 校内まで来て、突然に泣き出されるのは非常に困る。周囲の目もあり、今後、何を言われることか。いや、それ以前にこの現状でどう弥生に対応していいのか、俺は明らかに狼狽していた。
 その俺の狼狽した様子に、クスクス、とした笑い声が・・・・
 嘘泣きだったのだ。
「・・・・・・」
 俺は校門へ踵を返して、今度こそ無言のままの早足で歩き出す。後ろから懸命に謝罪する弥生ではあったが、俺は暫く機嫌を直すことはなかった。

 弥生の方の高校では、俺の存在は既に認知されているらしかった。その点についても、俺は弥生に対して非があるのは間違いなかった。
 そろそろ、許してあげようかな・・・・。
 そう弥生の方に振り返ったとき、彼女は俺に小さな箱を差し出した。
「和馬さん、誕生日。おめでとうございます」
 弥生は俺の誕生日を独自に調べ、平日だというのにも関わらず、俺に会いにきたのだと、今更ながらに気付いた。
 自分自身、忘れてたわ・・・・誕生日なんて。
 誕生日プレゼントを受け取り、初めて俺は、その先月に弥生の誕生日が過ぎていた事実を知る。
「教えてくれれば、何かプレゼントできたのに・・・・」
 先ほどまでの不機嫌だった感情は露と消えていた。
 自己嫌悪して消沈する俺に、弥生は一つだけ、ささやかなお願いごとをする。

「本当に、こんなものでいいの?」
「大切に・・・・大切に、致しますね」
 和馬一人が写っている写真、そして今日の記念に二人で撮った写真を胸に、弥生は至福の笑顔を俺に見せた。そんな表情で、「これで毎日、和馬さんを見ることができます」と言われれば、俺も赤面の至りである。
 俺は一回り小さく感じられた彼女の身体を抱き寄せて、弥生は期待をしてゆっくりと視線を閉じていく。およそ草薙家で催された新春会から、既に半年が過ぎようとしている。二人の口付けはそれ以来だ。

 そんな微笑ましい二人の姿を、出迎えの車の中で、直人は優しげな表情で見守っていた。



 それから、更に一年半が過ぎ・・・・
 その一年と半年の間に、さすがに頻繁というわけにはいかなかったが、休日などを利用して、俺と弥生はデートを重ねていった。
 俺の地元ではなく、また草薙の地元でもない場所が多かったが、それは俺の性格を考慮しての選択であったのだろう。また俺は、一度としてデート時間に遅れたことはなかった。が、先に着いて弥生を待っている、ということも一度としてなかった。
「わたしも先ほど、来たばかりですよ」
 それが嘘と解からないほど、俺たちの付き合いは短くない。
 ペールブルーの肩掛けに白のワンピース。昨年の新春会の着物姿も、セーラー服の制服姿も似合っていたが、俺はそんな彼女に会うたびに、彼女を見惚れていっていた。


「今年はもっと、時間を作らないとな・・・・」
 昨年の俺は中学二年、弥生は高校三年・・・・東京大学を志望していた彼女とは会える機会も激減してしまった。そして今年は、俺の最後の大会に高校受験が控えている。
 また、今日は・・・・俺たちにとって、記念すべき日でもあったのだ。
 帰り際、弥生は不意に俺の袖を掴んだ。
「和馬さんと初めてお会いした新春会から、ちょうど二年ですね・・・・」
「そっかぁ・・・・」
 時間の流れが早い、と思った。
 この二年の間に、弥生と会えた日はそれほど多くなかった。それだけに交わしたキスもたったの数回だけ、と、そっちの方の進展率も芳しくはない。
 もっと会える機会を増やせばいいんだけど・・・・学校に部活動。近所というわけでもないことがネックだった。和美に言わせれば「そんなの、かずにぃの言い訳だぁー!」と、きりもみアッパー気味に突っ込むのだろうが。


 だが・・・・
「もう、いいです・・・・」
 一瞬、俺は愕然とした。
 俺には彼女が、もう俺との付き合いは遠慮します、と言ったように聞こえたのだ。
 心の臓が、止まったような・・・・いや、いつもよりも鼓動が痛い。

「んっ、なにを?」
「・・・・」
 自分の声が白々しく聞こえる。
 確かに許婚らしく、彼女に何もしてあげられず、兄貴のように格別に容姿が良いわけでもない。だが、俺は彼女とはまだ別れたくなかった。できれば、これからもずっと一緒に居たかったのだ。



 だが、弥生の次の一言が、俺の思い違いを正した。
「ですから・・・・手付け・・・・いいです」
「あっ、・・・・(そっちかぁ・・・・)」
 俺の脳裏に《形勢逆転》《起死回生》《七転八起》《処女強奪》という言葉が横切る。何故か最後の言葉だけは、俺の股間を熱くさせた。
「本当は・・・・もっと前から、・・・・でも、なかなか・・・・区切りもつかなくて・・・・」
 俺は彼女を抱き寄せて、言葉を遮った。
「本当に・・・・いいの?」
 今、俺が彼女を抱けるとすれば、間違いなく抑制が効かなくなるような気がする。破瓜される痛みに弥生が泣き叫ぼうが、逆に彼女の存在をよく知ってしまったことで被虐心にも火がつく。二年前のように、優しく「無理をするのはよそう」などと言えないほど、性的知識も身についてしまっている。
 コクン、と弥生は俺の胸の中で頷いた。
「今日の一日、これからの出来事で・・・・俺を嫌うようになる、かも知れない・・・・抑制が効かなくなる」
「ううん、大丈夫・・・・」
 腕の中で弥生は頭を振り、俺をまっすぐに見上げてから、顔を真っ赤に染めて再び俯く。
「和馬さんに・・・・なら・・・・何をされても・・・・いい、から」

 その瞬間、俺の頭の何かが・・・・切れた。

 彼女の手を引っ張るように手に取り、駅前のラブホテルで一番高い部屋をとる。その勢いのまま、俺は弥生を部屋に連れ込み、押し倒すようにベッドに突き放した。
「キャッ!」
 その小さな悲鳴が、その僅かに非難めいた視線が、俺を俺でなくす。
「和馬さん・・・・その・・・・で、できたら、優しく・・・・」
「却下だ。好きなだけ泣き叫んでいいよ・・・・」
 人の変わったような俺の返答に、弥生は断念したようにベッドの上で仰向けになった。「約束だもん、ね・・・・何されても、いいから・・・・」と呟く。
 俺は弥生の身体に覆いかぶさり、いきなり唇を奪った。キスはこれまでにも数回ほどしてきた二人だが、これほどまでに乱暴なキスは初めてであった。
 唇を奪いながら、彼女のワンピースに力を入れる。
「あ、待って・・・・ぬ、脱ぐから破かないで・・・・帰れなくなっちゃうよ」
「・・・・」
 それはもっともだ。
 俺は弥生から少し離れて、頭を掻いた。
「ごめんなさい。何してもいい、って言ったのに・・・・」
「んっ、いや・・・・でも、まぁ、少し冷静になった・・・・」
 それが良いことなのか、悪いことなのかは定かではないが、彼女は重ねて謝罪する。
「でも、やっぱり、さっきは酷いこと言って、ごめん・・・・」
 あれはきっと、俺の隠れている本性なのだろう。普段は弥生に嫌われないように、と、優しさと健気さという仮面を付けているが、実際の俺は、非道で残忍なのかもしれない。


 もしもこのときに、俺と弥生が一時間早くチェックインしていれば、また、もしくは俺の携帯が、あと一時間後に鳴っていれば、この先の運命も大きな変更を余儀なくされたことだろう。

 《 チャラァラァラァー、チヤャラァラァラララァー》
 弥生がワンピースを脱ぐために、ワァスナーを下げたとき、俺の携帯が鳴った。この着メロは直人からの電話だ。
 俺は嫌な予感に駆られて、即座に携帯に出る。
「どうした?」
《和馬さま。源蔵さまが倒れました》
「またか・・・・」
 親父はここ最近、入退院を繰り返している。診断された病名は胃潰瘍。ただし・・・・その病名はこれまでの寿命だった。
《いえ、実は・・・・》
「んっ?」
 こんな言い難そうな直人の反応は初めてだ。他に何かあるのか、と携帯で尋ねたところで答えは貰えそうにない。恐らくは非常事態だ。
「解かった。今すぐ戻る・・・・」

 非常に・・・・非常に残念ではあったが、俺は携帯を折り畳んだ。

「また・・・・仕切り直しですね」
「ごめん!」
 俺は両手を合わせて謝罪した。
 清純そのものの弥生にあそこまで言わせておき、ここまで連れ込んでおきながら、である。俺には申し訳なさで一杯だった。だが、まさか当主であり、父親でもある源蔵が倒れたのにも関わらず、息子である俺が駆けつけないわけにはいかないだろう。
「親父が倒れたみたいなんだ。ここのところ、度々のことなんだけど」
「源蔵さまが・・・・」
「ストレスからくる胃潰瘍、って話だったんだけど・・・・どうやら、他に何かありそうなんだ」
 事情を理解したのだろう。弥生は俺に申し出る。
「わたしも一緒に行ったほうが宜しいでしょうか?」
 俺は去年、彼女から貰った時計を見て、その申し出を丁重に断った。今から病院に行っていたら、彼女が草薙の家に帰る頃は深夜をゆうに回っている。ただの胃潰瘍だけなのかもしれないし、それに直人の、あの反応も気になった。


「なにかあれば、すぐにご連絡くださいね・・・・」
「ああ、ありがとう」
 俺たちは駅前のホームで別れた。
 相対するホームの向こう側で、彼女がこちらに小さく手を振る。
 俺はこの時点で気付いていなかった。これが婚約者の草薙弥生との最後の別れとなり、彼女と次に会うのが、一樹の婚約者となった後の、神崎家での出会いになるのだと・・・・


 この時点では思いにも寄らなかったのだった。




 俺が平聖中央病院に到着したときには、既に夕刻の時間を遥かに回っていた。
「かずにぃ!」
「和馬さま」
 俺は妹の突撃ような身体を受け止めて、忠実な側近を一瞥する。
「直人、それで親父の容態は?」
 それまでの親父の病名は、胃潰瘍という病名であったはずだ。だが、ただそれだけならば、直人がわざわざ俺を呼び出すとは考えにくい。
「今は術中です。先ほどまで一樹さまも立ち会っておられたのですが、時間も時間ですし、一旦、神崎の家の方に戻られました」
「兄貴が!?」
 直人は頷いた。俺が不審に思った理由は言わなくても理解されている。
 今、一樹ほどに父親の源蔵を疎ましく思っている人物はいない。親父が倒れたと聞いて、内心では手を叩いて喜んでいるような気がした。
「ですが、今、源蔵さまにもしものことがあれば、現時点で一番困るのは一樹さまです」
 一樹としては忌々しく思いつつも、今一番に、源蔵に死なれては困る第一人者であった。

 もし神崎家の当主たる源蔵が亡くなれば、その故人の喪が明け次第、神崎家は新当主を据えなくてはならない。そして現時点では、草薙家の令嬢と婚約している、俺のほうが時期当主に最有力なのである。
「ただ、和馬さまも覚悟を決めておいてください・・・・」
 和美が俺の服を強く握り締めた。
 か、覚悟・・・・だって?
「親父の容態はそんなに悪いのか?」
「癌だったようです・・・・しかも発見がだいぶ遅れてしまったために転移が酷く・・・・」
「末期癌・・・・だと、言うのか」
 俺は愕然した絶望感に満たされる。
 まだ現代の医学においても、不治の病というものは存在する。癌といっても色々と種類があり、早期発見さえできれば治療の施しようもある。だが、親父の場合はその発見が致命的なほど遅かったのだ。
 当主の座などよりも、まだ親父には生きていて貰いたかった。
 俺は椅子に座り、祈るように両手を組んで額にぶつけた。


 それから二時間が経過し、術中のランプが途絶えた。
 俺は無意識に立ち上がり、そのせいで転寝していた和美も目を覚ます。
 手術を執刀した若い医師がまず退出してきた。本来は小児外科の名医らしい。親父にとって幸運なことに、親父が運ばれてきたときにすぐに執刀できる医師が居なく、そこで米国のMSA(最優秀若手医師賞)を取得していた西條医師が執刀したことだろう。
「とりあえず、一命だけは取り留めました」
 西條医師の説明は簡潔であり、明確でもあった。名医と呼ばれる所以の一つだろう。話していて心から信頼できる。だが、どんな名医にしても直せない病は存在する。
 俺は一旦席を外し、携帯で神崎の家にかけた。兄貴にも手術の成功を告げるべきであろう。
「解かった。今すぐそちらに向かう」
 時計を見て、既に夜の帳が落ちている時刻にも関わらず、兄貴は惜しげもなくこちらに向かった。
 報告を告げたとき、兄貴は確かに安堵の溜息を吐いていた。確かに親父を恨んではいるのだろうが、やはり死なれることには抵抗があるのだろう。
 俺は純粋にそう信じて疑わなかった。


 兄貴は連絡から一時間もしないうちに到着した。供の郷田とともに。
「それで親父は何年、生きられそうなんだ?」
 西條医師は頭を振った。
 癌の転移にはそれぞれの個人差があり、次に転移するのが一年かかるかもしれないし、三年かかるかもしれない。ただ予断は許されない状態なので、もう神崎源蔵が退院することはありえないだろう。
「そうですか・・・・」
「しばらくの安静は絶対ですが、容態が安定してきてくれれば、面会することもできるでしょう」
 そう言って西條医師の説明は終わった。


 それから、二週間後・・・・
 俺と弥生はその間、一度として連絡を取れなかった。一つには俺が携帯を紛失していた時期があり、また持っていたとしても、行為の途中でやめてしまったことで、まるで催促しているように思われるのも嫌だった。

 そんな俺に草薙家は、突如として、弥生との婚約解消を告げる。

「はぁっ?」
「和馬くん、本当に申し訳ない!」
 草薙の両親は俺の前で床に額をこすりつけた。
 婚約破棄になった理由は、草薙の両親も知らされていないという。ただ急に弥生が「もう和馬さんとは会わない」もしくは「合わない」と口にするだけだという。
 俺は二年間を振り返って、何一つ、彼女にしてあげられていないことに気付いたのは、このときである。人前では決して優しくすることなく、また、俺を受け入れるつもりだったときは、まさに彼女を犯すような雰囲気であった。

 俺は草薙の両親の謝罪を、上辺の空で聞き流していた。
 とてもではないが、今の俺には、耳が受け付けてくれないのだ。


 その翌日。
 ただ明確な理由が知りたくて・・・・
 もし、俺が改善することで考え直してくれるのなら、と一縷の望みも確かにあった。またそれ以上に、婚約を解消するにしても、この二年間のお礼だけは言っておきたくて、三回だけ彼女の携帯に電話した。

 俺のほうから電話を掛けるのは、これが初めてのことだった。
 一回目は・・・・話し中だった。
 その数分後に掛けた電話はコールされたが、出てくれなかった。
 俺の中で絶望感が広がる。
 たまたま、携帯の近くにいなかった・・・・という可能性も捨てきれないが、確率的には意図的に出なかったほうが遥かに大きい。
 
 最後に・・・・と、心に願って掛けた電話は・・・・
 《ブツ! ツゥー ツゥー ツゥー》

 繋がった瞬間に切られた。


 不思議と怒りはなかった。嫌われて当然だとも思う。日頃の俺の対応に比べれば、きっと彼女のほうが遥かに、傷ついていたことだろう。
 俺は彼女に甘えていたのだ。
「和馬さま?」
 直人が驚く。
「んっ、ああ・・・・」
 携帯を耳にあてながら、俺は自然と涙を流していたようだ。
 胸が潰されるくらいに悲しかった。
 弥生はいつも至福の笑顔を俺に向けてくれていた。神崎家の援助資金がなければ、草薙の家は苦難に陥ると高を括っていたのかもしれない。俺が好きなように振舞っても、弥生は後をついてくることしかできない、と思い込んでいたのだ。
「大切なものを・・・・なくなってから、初めて気付くなんて・・・・俺は愚かだな・・・・」
「そうやって人は学んでいくんです・・・・和馬さまだけではなく、わたしも、皆も・・・・」
「そうか・・・・」
 俺はゆっくりと携帯を折り畳んだ。



 俺は知らない。
 俺は知らなかった。
 このとき弥生の携帯は、ここ、神崎家にあったことなど。

 俺は知らなかったのだ・・・・同時に愚かだったのだ。

 俺が本当に、草薙弥生という人物を理解するのには、まだ尚暫しの時間が必要であったことなど・・・・



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