第一話【 初恋到来 】




 《和馬》

 春一番、桜吹雪。
 毎年、このような光景を見てきた。この新しい生活の場所においても、それはさほど変わることがない。
 俺は一度だけ玄関に振り返り、初めて袖に通した制服を一瞥する。
「まぁ、こんなものなのか?」
 中学の学ランに慣れていたこともあって、ブレザーにはやはり違和感が残るのは仕方ないことかもしれない。ネクタイの締め方もサマになっている。誰も入学式当日から、無様な姿は晒したくはないだろう。
「別に変じゃないよな?」
 それでも正直、自信はなかった。
 これが中学までなら、いつも出迎える直人や和美あたりが指摘してくれるのだが、直人も今日から桜花中央学園の教師であり、地下でこそ家内は繋がっているが、それぞれ異なった住居である。
「しかしこの家、どう考えても、俺の一人暮らしには広すぎだぞ」
 俺はこの二階建ての(地下を入れると三階建てだが)建物を一望して、唖然とせずにはいられなかった。さすがに神崎の家に比べれば、二廻りほど敷地と建物は狭い。寝室、勉強部屋、ダイニング、キッチンは、まぁ、解からないでもない。だが、更に俺の家には、女と寝るとき用の特別な寝室もあり、それ以外にも未使用な部屋が二、三はある。
 正直、無駄だ。
 地下通路に繋がる階段の扉は、俺と直人のみが知るパスワードを入力することで開閉が可能な電自動扉で、地下には地下で、二つの家の制御室、監禁室、MCN保管室(ただし、直人には悪いが、俺はここにMCNを保管してはいない)がある。
「こんなに広いと知っていたら、神崎の家からメイドや料理人も連れてくるべきだったな・・・・」
 俺の家と対となっている直人の家も、同様のことが言えたことだろう。
 ただ俺は元々、散らかすタイプではないし、週一でヘルパーさんが掃除に来てくれることになっているから、生活に差し支えることはないだろう。だが、それでもこれから三年間、ここに一人で暮らすのか、と思うと一抹の寂しさが漂った。

「あっ、やっぱり神崎くんも桜花だったのね?」
 外門を開けたところで、同じく登校しようという雛凪つむじに声をかけられた。長めの二つ結びに容姿も可愛いと言って過言ではないだろう。女性の身体的特徴は乏しいと言えたが、その分、スリムでもある。
 男子はネクタイ着用の紺色のブレザーだが、女子は薄いベージュ色のセーラー服の上に紺色のブレザーを着込んでいる。二つの制服を統合させたような制服である。
「雛凪さんも桜花だね」
 当然といえば当然であったかもしれない。
 この周辺の専門学校も含めた高校を統合したのが、私立桜花中央学園なのであり、この桜花市に住む人間の大半が桜花の関係者によって占められている、といって過言ではなかっただろう。遵って、ここに住む同世代の俺たち全てが、ほぼ同校生といえたかもしれない。
「どう? 一緒に登校しない?」
 愛らしい笑顔が朝日よりも眩しく感じられた。
「んっ、・・・・」
 だが、さすがに入学式当日から女子と登校することに、気後れを感じてしまうのは、俺の恋愛経験の浅さだけが原因ではないだろう。恋愛経験の希少さを露呈せずに済んだのは、我ながら上出来だとは思う。その意味においても、俺は草薙弥生に感謝すべきなのだろう。
「ああ、コタとか、友達とかにも一緒に紹介しておきたいし」
 そんな俺の心境を、雛凪も理解してくれたのだろう。
「それなら、了解だ」
 そのありがたい申し出を断る理由はなかった。まだこちらに越してきたばかりで、全くの見知らぬ土地なのである。雛凪の知人を紹介してもらっておいて損はない。
 よろしくお願いします。台風一号さま。
「んっ、今、何か言ったぁ!?」
 相変わらず可愛い笑顔が、何故かそのときだけ怖かった。
 とても非常に・・・・。


 家の前にある運動自然公園の角。本来なら、この公園を突っ切れば、学園までの近道にもなるのだが、まだ急がなければならない時間というわけでもない。
 さっきから何人もの同じ服装をした人物が通り過ぎていく。ある者は一人でトボトボと。ある者はギャアギャアと集団で。俺も雛凪に誘われていなければ、間違いなく前者であっただろう。
 通り過ぎていく人たちの中で雛凪に挨拶をしていく者もいる。それだけでも普段の彼女の性格が窺え知れるというものだろう。
「あと三十五・・・・三十四秒、待ってね」
「んっ、やけに細かいな」
「うん。コタは良くも悪くも、時間に規則正しいの」
 そしてきっきり、三十四秒が経過すると、
「お待たせ。そちらは新顔かい?」
 同世代の中でも長身のほうである俺よりも僅かに高く、スラリとした男の声であった。特に指先で押さえられた眼鏡が知的さを印象付けてもいよう。時間の規則正しさからして几帳面なのが、服装を含めた身体全体から窺えた。
「ねっ、コタって時間に正確でしょう?」
 確かに。
 俺は苦笑せずには居られなかった。
「谷浦虎太郎だ。皆から、コタって呼ばれている」
「こちらは神崎和馬くん。わたしの隣の・・・・」
「隣って・・・・あ、あの要塞かぁ!」
 思わず、俺たちは苦笑する。
 その適切な評価は俺の家に対する印象であり、俺が入居したときに雛凪が告げたものであった。
「その要塞の住人、神崎和馬だ。よろしくな、コタ」


「んで、またあの二人ね・・・・」
 俺たちはそれぞれに時計を見る。確かにまだ時間的に余裕はあるが、そろそろ移動したほうがいい頃合ではある。
「今日はいつもよりも遅れているかもな、あの二人・・・・」
 だが、まだその二人の姿は見えない。
「ねっ、神崎くん、足は速いほう?」
「まぁ、そこそこは・・・・」
 サッカー部で鍛えられてきた脚力ではあるが、陸上部で通用する自信は全くないし、何より、部活を引退してから半年が経過している。連日の直人の稽古で、衰えてはいないはずだが・・・・
「おっ、来た!」
 コタがそう言うと、確かにこちらに向かって走っている二人の男女の姿が見えてきた。時間的にそろそろギリギリである。なるほど。雛凪が俺の足を気にしたのも解かるような気がした。
「しかし・・・・凄いな」
「何が?」
「パンを食べながら、あの速度を維持する・・・・凄い特技だ」
「神崎くん、そこ、感心するところじゃないから!」
 まぁ、確かに。
 男のほうを都々御遥人、女のほうを小泉とうあ、と(こちらもゆっくりと駆け出しながら)紹介される。
 都々御遥人は、俺よりも僅かに身長が低いが、その分、俺よりも引き締まった体格をしている。まだ中学生の域から抜け出せない表情にも、人懐こさが窺い知れる。
 小泉とうあは、体格こそ雛凪と同様に小柄ではあったが、雛凪と違って女性的特徴をしっかり強調されている。急いで駆ける、切羽詰ったその表情にも、後日において桜花一年(約九千人弱)の中でも、三大美少女と称されるだけのものは確かにあった。


 桜花中央学園。
 教室の数だけで総数3000を越え、体育館が三つ。体育棟、室内外プール、陸上グラウンド、サッカー場、野球場、バレー、バスケ、図書館、ビニールハウス、造園の庭園公園、学生カフェ、校内派出所など。一日ではおよそ回りきれないほどの規模である。
 尚、維持費軽減の目的もあって、プールと図書館、学生カフェ、塾、スポーツジムなどが一般向けに公開されている施設もある。
 この広大な敷地にいくつもの建造物を目の辺りにすると、前日に確認しているのにも関わらず圧巻させられてしまう。現理事長が少子化による経営苦を告げたとき、「ショッピングモールのように、いくつもの学校を併合させてみれば?」と、子供心に告げた学園の出資者である俺でさえ、実際に入学することになるとは、思いにも寄らないことであった。

「わ、わたしだけ・・・・」
 電光掲示板に映し出されたクラス分け。学校側が意図してそうしたわけではなかっただろうが、俺、谷浦、小泉が揃ってC組なのに対して、雛凪だけがB組なのである。
「まぁ、こんだけ人が居れば、仕方のないことかもな」
「んっ、かもな」
 俺はコタの意見に賛同した。
 約九千人近い新入生の全てが普通科、というわけではなかったが、それでも一番多い人数であることには違いなかった。複合学校ということもあって偏差値の幅が広く、A〜Jまでが基本的に進学クラス。それ以下は落ちこぼれ、というわけではなかったが、当然、振り分けられるクラスの数も多くなるのは道理だ。むしろ、四人中三人が一緒だったことのほうが異例ではあろう。
「そうだね」
 雛凪が俺に向く。
「お隣さんはお隣さん、ということかな?」
「なるほど・・・・そうかもな」
 入学式開式の予鈴が響く。
 ギリギリの時間に飛び込んだ俺たち。
 足には自信があったが、正直、結構しんどいものがある。それでも四人の表情を見渡して、楽しい高校生活になりそうな予感があった。
 俺は踵を返して、握り締めていた掌を開く。
 そこには雛凪と小泉の頭髪が一本ずつ。

 そう、楽しい高校生活が・・・・。



《直人》

 何処の学校でも恒例であろう、入学式が始まった。尚、入学式に参列した新入生だけで九千人にもなる桜花中央学園では、上級生たちの始業式は明日ということになっている。
 どうやら無事に登校できたようですね。
 わたしは九千人の中からでも、唯一の主君の姿を見つけて安堵する。さすがに多少は緊張しているようだが、今のところそれ以外の異常は見受けられない。
 このとき、わたしは雛凪つむじという女生徒は知りえていたが、都々御遥人、小泉とうあ、谷浦虎太郎の三名が、和馬さまの友となり、わたしが担当するクラスに編入されていることを知る由がない。
「・・・・」
 お偉いさんがた(校長、理事長)の実も実もない、ありがたい言葉が耳に聞こえたが、右から左で受け流していく。そんな中、わたしは少し逡巡していた。

 少し、時期尚早だったかもしれない。
 今朝、和馬さまが見たであろう夢は、わたしが見せたようなようなものである。そうなるように潜在意識に仕込んでおいたのだ。
 わたしは焦っているのか?
 そう思わずにはいられなかった。
 いくら和馬さま自らがそう望んだこととはいえ、人格が崩壊する恐れの危険さえも孕んでいる。危険な賭けだったともいえよう。
「だが・・・・」
「えっ?」
 わたしの隣に立つ宮森香純が驚きの声を上げる。思わず、胸のうちを呟いていたようだ。
「あ、いえ、独り言ですよ」
 サングラスではなく、普通の眼鏡に触れて微笑する。
 宮森香純はわたしと同じく、今年度から新任教師として、桜花中央学園に着任した同僚である。もっともわたしの場合は、国家試験で教務免許を取得したわけではなかったが。
 童顔であり、背丈も低い彼女は、短大を卒業したばかりということもあって、私服さえ着ていなければ、和馬さまたちと同じ学友にしか見えないことだろう。和馬さまを含む一部の生徒から、「香純ちゃん」と名前で呼ばれる所以でもある。
「真田先生でも独り言を口にされるのですね」
 彼女の目にわたしは、どう映っているのか?
 少し釈然としないものを感じたが、わたしは反論せずに、思考を再開することを優先した。

 心配する和馬さまの手前、来春までと言ったものの、わたしは敬愛する源蔵さまがそれまで持たないであろう、ことを予測していた。
 即ち、和馬さまはそれまでに一樹を上回る一族の評価を得て、名家草薙家をも凌ぐ後ろ盾を確保しなければならない。この二つばかりは個人の人間だけしか操作できないMCNで、なんとかなる問題ではない。
 正直、今のままの和馬さまでは厳しい。
 誰からでも(反目し合う一樹でさえも)愛される人格を有する和馬さまではあったが、基本的に温厚に過ぎるキライがある。一樹との当主争奪戦が二、三年後という話であったのなら、それでも別段に困らない。
 だが、源蔵さまの寿命からして、そんな時間的余裕はなく、わたしは和馬さま自らの承諾を得て、潜在的に眠る本能を刺激したのである。

 わたしの思考が一段落ついたころ、無駄に長々たらしい入学式は閉会していた。

 その後、クラスごとに分かれて教室に赴き、わたしは新任の挨拶を済ませなければならない。普段から彼らと同世代の和馬さまを相手にしていることもあって、生徒の扱いには自信があったが、個人だけでなく多勢を相手にしなければならない困難は、それまた別物であった。
「このクラスの担任になった、真田直人、33歳、担当は古文。君たちと同じく今年度からの新任一年目ゆえ、至らないところは多々あるとは思うが・・・・まぁ、よろしく頼む」
 正直、こういう社交的染みた行いは苦手だ。まだ援護射撃のない戦場に突撃することのほうが、余計なことを考えないで済む分、気楽に思えてならない。
 無論、命の危険度は比べるまでもないが・・・・
「先生、彼女いますかぁ?」
「初体験はいつのころですか?」
 クラスの大半(主に女生徒)から嬌声が上がり、最後方の席に着いていた主君は、懸命に含み笑いを堪えているのが解かった。
 人の気も知らずに!
 宜しい。後で和馬さまにはきっちり、格闘の特訓指導を行ってやろうではないか。
「やぁね! 男子てば!!」
 一人の女生徒がえらく勝気な眼差しで全体を見渡す。
 わたしは即座に名簿から彼女の名前を割り出す。名前は小池鈴子。整った顔立ちにセミロング、まず美少女と言ってもいいだろう。男子生徒に混ざれば背は低いほうだが、女生徒たちの中では比較的長身といっていい。そのわりに女性らしく、発育良くされてきた身体つきではある。
「すぐにそういうことを聞き出そうとするんだから!!」
 見事な援護射撃だ、と思いつつも、わたしは苦笑を浮かべた。
「小池にゃぁ、聞かねェよ!」
「そうそう、聞くだけ無駄だってね!」
「そ、それは、どういう意味よ!!!!」
 教室の室内に小池の怒声が響き、続いて笑い声が続く。
 良くよく見れば、それらの男子生徒たちは、彼女と同じ同郷の人間たちである。確かに気心触れた仲と言っていいのだろう。
「ふん。私が後五年もして、私が飛びっきりの美人になったら覚えていなさいよ」
「お前がどんなに顔変わっても、性格だけは絶対に変わらねェよ!」
「そりゃ、そうだ!」
 どっ、と湧く笑い声。
「どうかな? それは解からないぞ」
 わたしは一同を見渡して、ゆっくりと教壇から降りた。
「君たちは今、多感期を迎えたばかりだ。それは男子、女子も関係ない。些細な出来事一つから、人は変わっていってしまう。良くも悪くもだ」
 最たる例が、このわたしであろう。
 中東の戦地で銃を持っていたわたしが、遠く離れた日本の教壇で教鞭を振るうなど、誰が予想できたことだろうか。源蔵さまとの出会いがなければ、わたしは今もきっと、戦場という戦場で人を殺し続けていただろう。いや、もう砂漠の大海に屍を晒していたかもしれない。
「人生という未来図は、誰もが全くの先が読めない連続でもある。だからこそ、人生は面白くも厳しくもあるのかもしれないけどな」
 わたしは笑い、それに吊られて笑い声が上がった。

 今日は入学式ということもあって、この後に予定された行事もなく、どのクラスも午前中で早期解散となっていく。解散と同時に女生徒に囲まれてしまうのは、独身教師としての宿命なのかもしれない。
「真田先生は独身なんですか?」
「先生の出身地は?」
 女生徒たちに囲まれるのは決して悪い気分ではなかったが、どこまで正直に答えていいものか、戸惑う部分は確かにある。「中東」と答えて、入学式初日で生徒たちに引かれるのも考えものであろう。
 廊下で同じ境遇にある宮森香純と視線があう。向こうは向こうで男子生徒に囲まれて憔悴しているような、そんな表情だ。同情するだけの余地はあるが、わたしも似たような状況でもあり、互いに苦笑を浮かべるのだけで精一杯だった。
 はぁ。



《和馬》

 自由行動となった後は、俺は直人との打ち合わせもあって、都々御たちの誘いを断り、第五音楽室へと向かった。まだ知り合って間もなく、折角の誘いをふいにしてしまったことには申し訳なくは思う。
「ちょっと今日はヤボ用があってな。また明日誘ってくれ」
「そっか。じゃあ仕方ないよな」
「それじゃ、また明日な!」
 都々御と谷浦の言葉に、俺は笑顔で応じた。
 これより長い付き合いになる二人のことを考えると、初めて知り合えた今日一日ぐらい、一緒に帰るべきであったのかもしれない。
 もしそうなっていれば、俺の運命の出逢いは大幅に遅れたことは間違いなかったことだろう。少なくても、俺の未来図は大きく修正を余儀なくされたことは間違いない。

 音楽室だけでも六つもある桜花学園は、確かに常識では考えられないめずらしい学校であったかもしれない。だが、音楽科、芸能科とある複合学校である桜花では、これでも少ないぐらいなのだ。
「んっ?」
 俺が入室した途端、ピアノの旋律が耳についた。確かヒューマン子供の情景の一節だったか。よく街角でも耳にすることができる曲だ。
 直人か? とも思ったが、すぐに別人だと理解する。直人の旋律だったならば、もっと円熟で繊細であったし、俺でさえ容易に解かるようなミスはしない。
 ここなら誰にも聞かれることがないだろう、と直人は安全を保証していたが、どうやら先客がいたようである。

 また間違えたな。
「あ、あれ?」
 若い女の子の声が耳につく。演奏者も自分のミスを自覚したらしい。
 俺はゆっくりとその演奏者を一瞥して、唖然と・・・・いや、何故か呆然とさせられた。これといって際立った容姿というわけではない。質素が薄めの髪色、ニットスティッチ(後ろ一つ結び)の髪型。ゆったりとした制服のデザインもあって、袖口から覗ける手首と、丈の長めの裾から真っ直ぐに伸びた脚は華奢にさえ思えた。ただピアノの鍵盤を幸せ一杯の表情で触れる少女、それが俺に与えられた印象である。
「あ、鈴ちゃん」
 鈴ちゃん?
 誰だ、それは!?
「今・・・・あっ!」
 俺と視線を交わし、人違いであることを理解したらしい。何気に気まずい空気が漂う。
「んっ、すまない。立ち聞きするつもりはなかったのだが・・・・」
 俺は素直に謝罪した。
 そして生まれて初めての感情に動揺もしていたのだろう。素直に賛辞だけを口にすればいいものを、彼女のいらぬ癖まで指摘してしまった。
 俺は別のピアノに座り、鍵盤カバーを上げる。指先一つで調律を確認した。
 シューマン子供の情景・第七節・・・・別名、
「トロイメライ、だったな?」
 この曲にどれだけの想いいれが彼女にあるかなど、俺は知らない。
 また俺がこれほどまでに熱心にピアノの鍵盤に触れたのも、およそ初めてのことかもしれない。
 楽器の類など一切に扱えない俺ではあったが、直人は女を口説く方法の一つとして、ピアノの指導だけは欠かさなかった。何でも「戦場のピアニスト」という映画に感動し、影響されて感化されたらしい。
 安直な理由だよな、と思わず苦笑する。
 もし映画がピアニストではなく、ギタリストだとしたら、俺は今頃、日本武道館を目指していたかもしれないのだから。
「す、すごい・・・・」
 素直な彼女の賞賛も、もはや今の俺には聞こえなかった。
 白と黒の配列。一つしか許されない道筋。適度に定められた音程。俺は理由も定かではなく、自然と溢れんばかりの情熱を傾けていた。
 この瞬間は確かに、第五音楽室は俺と彼女、そして俺の奏でるピアノの旋律だけに占められていた。

 俺の演奏が終わると、二人ほどギャラリーが増えていた。
 一人は教員姿の直人。もう一人は、先ほどの教室で啖呵を切った女生徒だ。恐らく彼女が言う「鈴ちゃん」と呼んでいた女生徒だろう。
「素晴らしい演奏でしたね。君は・・・・確か神崎くんだったか」
 およそ他人行儀な直人の対応に、俺は強い違和感を憶えずにはいられなかった。第三者の前では一教師、一生徒という関係を保つ以上、それは当然の応対ではあったが。
 仕方がない。俺も、その他人として装う以外に他なかった。
「勝手にピアノを使用して、すいませんでした」
「あ、あたしが悪いんです。あたしが彼より先に演奏していたんです」
「君は・・・・?」
 彼女の素性を問う直人の質問に、俺は心の中で「グッジョブ!」と叫んでいた。同校生徒の名前など調べようと思えば、すぐにでも調べられるものであるが、このとき俺は確かに、今すぐにでも知りたい、という衝動に駆られていたのだ。
「音楽科の一年、結城琴子です」
 結城・・・・琴子。
 俺は心の中で反芻する。不思議と二度と忘れ難いような気がした。
「そちらの君は、うちのクラスの小池鈴子さんでしたね」
「あ、はい。小池鈴子です」
 入学式当日から見事な啖呵をきった少女らしく、気丈な性格が窺える。が、一同が名乗っているのに俺が呆けたままでいるわけにもいかないだろう。
「同じく、神崎和馬です」
「わたしは吹奏楽部の顧問、真田直人です。ああ、別に咎めているわけではありませんので、そんなに畏まらなくても結構ですよ」
 サングラスではなく、普通の眼鏡であるだからだろうか。直人の表情がいつも以上に柔らかく感じられた。
「基本的に第五、第六音楽室と、放課後になれば使用も滅多にありませんから、また自由に練習してくださいね」
 普段から見てきている忠実な護衛ではあったが、改めて教師としての姿もさまになっている、と認めずにはいられなかった。


「めずらしいですね」
 女生徒の二人が退出して行き、唯一残された俺は直人に振り返った。
「しかし、和馬さまが人前でピアノを披露するなんてどういった風の吹き回しです?」
「んっ、」
 思わず視線を逸らした。視線を交わせば、何故か見透かされるような気がした。が、言われてみれば、直人以外の人前で演奏しようと思ったのは、確かに今日が初めてのことだったかもしれない。
「気持ちの篭った、いい演奏でしたよ」
「世辞は止せ」
「いっそどうです? 和馬さま。吹奏楽部に入部されてみては?」
 その口調は普段の直人そのものであったが、その提起された内容のしつこさには明らかな悪意を感じる。さっきの仕返しのつもりであるらしい。
「冗談も止せ」
 時間が限られている、という事実は主従共通の認識である。
 神崎、という家柄を抜きにすれば、プロのピアニストを目指す、という人生もそう悪くはないと思った。だが、もし俺がその立場であったのならば、ピアニストよりもプロのサッカー選手としての道を目指していたことだろう。
 神崎の家柄を抜きにすれば、か。
 そんな考えなど、当面の俺には思いもよらなかった。
 少なくても、この時点では・・・・



《直人》

 わたしは和馬さまが当主執りに必要な後ろ盾を得るために、三人の女生徒の名前をリストアップしていた。
 一年、普通科、大原理恵。
 二年、芸能科、青山恵都。
 三年、普通科、篠原千秋。
 いずれの女生徒も、相応の名声と潤沢な経済力を背景にしてきた令嬢たちである。また和馬さまにとっては一生に関わる問題でもあり、そのためにもある程度の容姿も考慮して選定してある。
 その結果、この三名に絞られた。

「まず、大原理恵・・・・あの大原財閥のご令嬢です」
「なっ・・・・」
「はい。西日本を代表する、あの財団です」
 恐らく、和馬さまの最大標的となるだろう。
 大原財閥といえば、西日本を代表する大企業グループである。一樹を支持した草薙家などよりも遥かに格式が高く、都内でも有数の資産家とされる神崎家、そしてそれを取り巻く神崎グループでさえ、その足元ぐらいにしか及ばない。
「資料のみで申し訳ありません。さすがに厳重なガードによって、中々盗撮することも困難だったもので」
「そうか・・・・」
 手渡した資料に目を落とす。
 桜花中央学園普通科一年、クラスはA。この年の秋に16歳を迎える少女で、特に身体的特徴はない。身長と体重も共に同世代の平均程度。両親は若いころに他界しており、大原財閥の総帥「大原泰三」の唯一の孫。
 即ち、理恵を娶ることが大原財閥の後ろ盾を得る最短の道ともいえる。
 だが・・・・大原理恵は自家用車による自宅通学で、自宅は神崎の家よりも遥かに広く、しかも厳重な警備によって警戒されている。誰にも気付かれずに侵入することは、わたしの腕を持ってしても容易ではない、というよりも、まず不可能であろう。
「最悪、MCNを用いる必要があるかもしれませんが、あの厳重な警備網です。そのためにも相当な準備と時間、計画が必要になるでしょう」
「そうだな」
 日本の東と西に大きく分かれているため、神崎とは特に険悪な間柄というわけではなかったが、親しいという関係でもない。利用するつもりで近づいて利用されていた、では本末転倒ではあろう。

「二人目は説明する必要はありませんか」
 サラサラとしたブロンドのロング。明らかにカメラを意識した笑顔は、見るものにはまぶしく、輝いてさえいたことであろう。和馬さまが生まれたときから仕えているのである。主君がこのアイドルに敬慕していたことは承知の上である。
「あのケートだな」
 市販されている写真を手に和馬さまが口にする。
「はい。桜花、芸能科二年です」
 途端に和馬さまの顔色が面白いように変わっていった。
「なっ・・・・ま、まじ?」
 普段はクールに振舞う和馬さまが慌しく右往左往とし、「サ、サイン・・・・はっ、色紙を!」「か、カメラは携帯から・・・・」と、そんなオタオタとする和馬さまの姿を見て、わたしは人意地悪く微笑んだ。
 このとき、この瞬間を今かと、楽しみにしていた甲斐があった、というものだろう。
「ま、もっとも明日の始業式から登校してくるか、どうかは定かではありませんが」
 桜花中央学園の芸能科二年。芸能人ということで、登校してくる日は不規則に限られてくる。
「でも、ケートって確か、中流家庭の出身だったと聞いていたが?」
「そのとおりです。彼女に限っては、当主戦における和馬さまの後ろ盾にはなりえませんでしょう」
 だが、彼女をこちらの陣営に引き込むことで大きなメリットが二つほどある。
 一つには、神崎の家に和馬あり、と、神崎の家に関わる全ての人間が改めて認識させることができることだろう。
 神崎家の代々伝わる当主戦は、その神崎家の未来に有益な人材を確保することが絶対条件で、和馬さまの場合は、長兄の一樹と当主の座を争うことになる。その人脈を一族に披瀝した上で、一族の間で投票される。このとき、より多くの人間に和馬さまの名前を認識させておくのは、非常に有効な手段だといえよう。
 また青山恵都の知名度は、和馬さまが当主に就任した後にも、神崎家の家名を更に広める、プロパガンダになりえる存在である。
「彼女の持つ、知名度は和馬さまにとっても非常に有益なものになりしょう。ただそのためにも、神崎グループの芸能部門を強化する必要があり、こちらも暫くの時間を要しそうですがね」

「最後に篠原千秋・・・・」
 黒い長い髪。スタイルも抜群といってもいい。容姿的には、和馬さまの元許婚、草薙弥生に共通するものが確かにあるが、その他者に与える雰囲気は全くの別物であった。二人を名花で例えたら、草薙弥生はチューリップ。篠原千秋は棘のあるバラのような印象が確かにある。
「桜花中央学園の三年ですが、実家は草薙の家にも引けをとらないほどの名家です、が」
 わたしは敢えて接続詞をおいて、間をおいた。
 篠原家は確かに、東京の草薙家にも匹敵する名家ではある。だが、その草薙の家が支持する一樹と、この篠原家で争うのは明らかに無謀といえただろう。
「んっ?」
「表向きには篠原商会となっていますが・・・・別名、篠原組。生粋の極道です」
「極道・・・・」
 和馬さまが僅かに強張って硬直した。
 その強張った理由にこそ、和馬さまの当主戦で不利に働く理由ではある。如何に名家とはいえ、表向きには篠原商会という看板とはいえ、極道である以上、大抵の人間が草薙家の支持する一樹に傾くのは、人情といえただろう。
 篠原家の当主(こちらは組長と呼ぶべきか)は、現在、篠原啓二。四十三歳という働き盛りの男で、色んな事業産業に手広く手がけている。また一家を纏める統率力も、一つの組を束ねるだけのものがあろう。
「大原財閥が和馬さまの後ろ盾になれば、敢えて篠原家に拘らなければならない理由はありませんが・・・・」
「支持する名家が多ければ多いほど、俺に有利か・・・・」
「はい」
 わたしは頷いた。
 この以上の三名が、源蔵さまが存命中に是非、手に入れておきたい令嬢たちである。最低でも、大原理恵だけでも。これが叶わなければ和馬さまが望む、実力での一樹を上回ることなどおぼつかないだろう。


 手渡した資料を再びまとめて、再調査と接触する機会を窺っていく。迂闊に手を出せば、厄介なことにもなりかねない。失敗だけは許されないという意味では、慎重にならざるを得ないところだろう。
 ・・・・?
 何か思い詰めたような表情をみつける。
 その主君の些細な反応に違和感を覚えたのは、長年に渡って仕えてきた賜物ではあろうか。
「まだ・・・・何か?」
「その、もう一人、調査をして・・・・欲しい」
 赤面して俯くような、初めて見せる反応。
 わたしは意外に思わなかった。確かにこれまでの和馬さまの性格にしては、めずらしい指示ではあろう。
「誰を、でしょうか?」
 何となくだが、そんな予感はあった。
 普段は人前でピアノを披露したことがない、その和馬さまが、あれほどの熱意を持って弾いていたのである。無意識のうちにわたしは理解していたのかもしれない。
「いえ、解かりました」
 了承して、暫し目を瞑った。

 これは恋になる、
 と、わたしはこのときに確信した。

 これまでに和馬さまが一人の女子に執着したような過去はない。それは元許婚であった、草薙弥生とて例外ではなかった。
 確かに弥生には好意を寄せてはいたが、それを恋と呼ぶほどのものではなかった。無論、あのまま二人の関係が続き、時間をかけて熟成させていけば、それは和馬さまの初恋へと昇華されていったことだろう。

 ・・・・結城琴子。
 これまでに和馬さまに好意を寄せてきた少女の中には、彼女よりも可憐で、彼女よりも魅力的な少女は少なくないはずだった。
 顔立ちは確かに悪くはない。控えめでおとなしそうな少女ではある。わたしの目から見て一言で言うなら、「無垢」「純真」と言ったところだろうか? そういった素朴な点に和馬さまは惹かれていったのかもしれない。
 人生という未来図は、誰もが全くの先が読めない連続であり、
 だからこそ、人生は面白くも厳しくもあるのかもしれない。
 とは、わたしが先ほど口にした言葉だ。
「まさに身を持って知る・・・・とは、このことですか」
「んっ?」
「いいえ。こちらのことです」
 和馬さまを一人の人間として見て、これは歓迎すべき出来事であろう。精神的にまた一つ、成長した証とも言ってもいい。だが、忠実な部下としては敢えて質さなければならないこともある。
 名跡を継ぐ者に恋愛が成立しないのは、何も令嬢だけとは限らない。和馬さまが神崎の家を継ごうという意思を持ち続ける限り、まして全てに勝る一樹を蹴落として、というならば尚更、それはついて離れない宿命でもあった。
「個人的に結城琴子に気を留められるのは一向に構いません」
「解かっている・・・・いや、今、直人が言おうとしていることは、解かっているつもりだと思う」
 完全防音されている音楽室とはいえ、静粛に包まれた教室に主従の二人だけが佇んでいる。それはまるで、あたかも別次元のように。
「恋愛なんかしていられる状況でも、そんな現状ないことも・・・・理屈では解かっているんだ!」
 和馬さまの瞳から落ちるものを確認し、わたしはそれを受け止めるように抱きしめてあげたい衝動を懸命に堪えた。和馬さまがどんな選択を選ぶにしても、強制も反対もしてはならない。だが、今、直面している事態を自らの意思で選択しなければならないからだ。
「解かっている・・・・解かっているんだ!」
「また一つ、大人になりましたね」
 ズボンから白いハンカチを出し、形良い頬を拭っていく。
「和馬さま、泣くことは決して恥じることではありませんよ」

 人は理屈だけでは動けない。
 人の本質は感情の生き物なのだから・・・・


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