第二話【 変節自我 】




 《直人》

 見慣れていた街並み。
 ここに住み慣れていたはずの環境。
 自然に包まれた桜花市とは違って、都内の街は夜も眠ることを知らないのか、と騒がしく感じてしまう。昨日までの静粛な夜の帳を感受できていた、それだけに・・・・
「・・・・」
 わたしは一度だけ、ルームミラーを見る。
 後部座席には毛布に包まった和馬さまがささやかな寝息を立てていた。無理もない。桜花市での新生活が始まって、まだ二週間。慣れない一人暮らしに、ようやく緊張感がほぐれてきたころだろう。
 もっとも、それはわたしも同様か。
 未だに慣れない教師職。給料だけはべらぼうに安い(和馬さまの護衛職の一割にも満たない)くせに、拘束される時間といい、想像していた以上に過酷な労働である。
 唯一の救いは、進学クラスということもあって、和馬さまを含めて問題児が少ないことぐらいだろうか?
 だが、これでも過去の教員職に携わる人たちに比べれば、わたしの境遇は、まだマシだといえたのかもしれない。
 少し生徒に触れるだけで痴漢扱いにされる。
 生徒に体罰を行えば、親御が教育委員会に訴えた。
 この場合、その教師の善悪に関わらず、社会から抹殺されていく。そんな暗黒のような一時代が、確かにあった。
 確かにその当時から教育職にある一部にも、問題があったのは事実だろう。女生徒との淫行、脅迫などが新聞に掲載されるのは日常茶飯事の出来事だった。
 だが、その一部の教育者によって、正当な教育者の弱腰にならざるをえないこの立場が、必然的に教員志望者が激減させていき、過保護な環境によって付け上がっていく若者が増大していったのは、この悪しき過保護な制度が元凶であっただろう。
 そこでこの制度を緩和する一方で、政府は日本教育監視機構(通称JES)を設立させる。ここに後の天城探偵事務所の所員となる氷室恭子が現在、所属しており、わたしも彼女には大きな借りをつくることになるのだが、それはまた後々のこと。
 日本教育監視機構は、内閣情報調査室(内調)から生まれた一組織で、その主な役割は、校内における犯罪の大抵は未成年が被疑者となる場合が多く、警察も介入は困難とされた校内の犯罪を調査することにある。
 贈賄、脱税、猥褻(わいせつ)など、その任務は多岐にわたった。
 未だテストケースの段階ではあるが、この組織の設立により、教員職の立場は強化されて(無論、教員が公正な場合のみ限定だが)、必然的に社会をより健全化させていくのだった。
 時計を見る。現在、深夜三時十五分・・・・
「わたしも・・・・少し眠らせて頂くか」
 静かにシートを倒した。
 ゆっくりと瞼を下ろす。
 週末の連休前夜。首都高のパーキングエリア。眠りにある二人を乗せた車を、時折、ライトの照明がまぶしく照らしていった。


 愛銃ストライクイーグルの手入れを終え、カートリッジの銃弾を装填していく。恐らく使用することはない、と思いたいが、念ためである。いくら仁科勘治朗が厚顔無比の男とはいえ、まだ神崎の家に滞在しているとは想像したくもなかった。
 和馬さまと弥生の引き裂かれた真相を知ってから、仁科への殺意は未だに萎えてはいなかったが、それでも長年、共に暮らしてきた仲でもある。できることなら、この手で殺めたくはない。
 それがひとたび真田直人に戻ってしまった、わたしの本音である。
「わたしも甘くなったものだな・・・・」
「んっ?」
 アクセルを緩め、和馬さまの目的地に到達する。神崎の家と草薙の家の中間に位置する、都電の駅。休日(土曜日)とあって出勤ラッシュのこの時間帯も比較的に緩やかだ。
「ここから、再出発されるのですね?」
「ああ。ここが許婚として、弥生さんと最後に別れた場所だったからな」
 再出発する和馬さまと弥生の二人にとって、確かにそこは相応しい場所だと思った。およそあのときの状態には戻れないが、要はその二人の心の持ちようではあろう。

 弥生と再会することを決めた和馬さまが、この地で落ち合う場所に定めたのには、二つの大きな理由がある。
 一つには先に触れたように、この地が許婚として最後に別れた場所であったこと。もう一つには、和馬さまはまだ、弥生が神崎の家の付近にある《一刻館》に、隠棲している事実を知らないことになっているからだ。
「それでは和馬さま、わたしは神崎の家に用事がありますので・・・・」
「ああっ・・・・」
 わたしは後部座席のドアを開く。
「俺は・・・・弥生さんの想いを踏み躙っているな」
「・・・・」
 わたしには反論できなかった。
 和馬さまが言いたいのは、不当な復讐を遂げてしまったことだけではない。むしろこれから先のことを口にしているのである。
 和馬さまは二週間前、草薙弥生と邂逅し、陰惨なまでの過去を背負い、どれだけの愛情を胸に秘めていたのか、を知ってしまった。その上で和馬さまは今、新たな後ろ盾を得るべく、蠢動しているのは事実だからだ。
 基本的にわたしは和馬さまの狩り(大原理恵、青山恵都、篠原千秋の三名を除く)性交関係に関与しないことが、暗黙の了解となっている。
 無論、和馬さまから要請があれば、話は別だが・・・・
「それはあまり、お気になさらないほうがよろしいと思います」
 わたしが言えるのは気休めだ。
 まだ誰一人として手出しした形跡は見受けられないが、既に触手を伸ばしていることは明白であった。MCNとは禁断の扉であり、そこから得られる女生徒の身体は禁断の果実ともなりえた。もし、わたしがMCNの所有者であるとしたら、同様の誘惑に駆られていたことだろう。
「人は同時に二つの門をくぐることはできないのですから・・・・」
 陳腐な例えだと我ながら思う。
 草薙弥生の理想は、和馬さまの妻になることであった。そして、それを叶えるためには、和馬さまが神崎の当主となり、一樹に彼女との婚約破棄を命じなければならない。だが、和馬さまが当主となるためには、草薙の家を上回る大原財閥の後ろ盾が必要となり、そのもっとも友好的な手段が大原理恵との結婚なのだ。
 大原家唯一の令嬢、大原理恵。現在の大原財閥の総帥、大原泰三。この二人だけなら、MCNでも操ることが可能ではあろう。だが、大原財閥は神崎グループ以上に一枚岩ではない。無理な政策の推進は、幹部の無用な不審を抱かせ、不要な反発を招き、自分たちの首を絞めかねない危険性も多分にある。
 そして、日本という国は一夫多妻制を認めていない以上、もはや草薙弥生の理想が実現させることは、もはや不可能だといえたかもしれない。
「弥生さまも既に覚悟あって、和馬さまを送り出したのですから」
「ああ、そうだったな」
 和馬さまが頬を抑えて、「効いたよ」と、口にした。わたしがあの雪の中、殴り飛ばしてしまった部位だ。
「芯には残らないよう、配慮はしましたよ!」
「んっ、解かっているよ」
 そう、あれから二週間・・・・早くもあり、遅くも感じる。
「それじゃ、弥生さんを待たせてもいけないから・・・・」
 基本的に草薙弥生は、和馬さまとの約束には、必ず約束した時刻よりも三十分は早く到着している。
「はい。わたしからも彼女にはよろしく、とお伝えしておいてください」
 和馬さまは下車して振り返り、「了解した」と告げて笑った。

 それは紛れもなく、草薙弥生が愛したころの、男の笑顔だった。



《弥生》

 わたしは揺れる電車の中で、携帯を大切そうに握り締めていた。
 開いては着信履歴を何度も確認してしまう。

 この携帯が鳴ったとき、わたしはまず自分の耳を、次いで発信先を確認した自分の目を疑った。彼のほうから(和馬さんの名前を語った偽者は除いて)電話されたのは初めてのことだったからだ。
「か、和馬さん!」
《もしもし、弥生さん?》
 わたしは久しく聞く、和馬さんの声に胸が締め付けられそうになる。嬉しかった。もう二度と和馬さんの声が聞けないかもしれない、と思ってもいた、それだけに。
《今、大丈夫?》
「・・・・は、はい」
《週末、直人と都内に戻ることになったんだけど・・・・弥生さんに会えないかな?》
 わたしは思わず、目を見開く。
 この瞬間、夢ではないのか、とさえ思った。和馬さんから電話してきたのも初めてではあったが、お誘いを受けるのも初めてのことであった。
「ほ、本当に和馬さん・・・・なんですよね?」
《あっ・・・・あのねぇ》
 困ったような声がくすぐったい。
 解かっている。わたしがその声を聞き間違うはずはなかった。だが、今のわたしは必要以上に慎重にならざるをえない事情がある。今のわたしの身体は、一人ではない。
 そう、和馬さんの子供をわたしは宿すことができたのだ。
 わたしが最後の生理を迎えてから、関係を結んだ男性は一人だけであり、つまりお腹の子供の父親は和馬さんだけに限定される。それだけに言葉にはならないぐらい、わたしには嬉しい出来事であった。

 首筋で揃えられた少し癖のついた髪型。顔立ちの良さから見せる笑顔。ラフな格好も栄えるほどの長身な体格。わたしが生涯にかけて唯一に愛する男性。
 駅のロータリーに降り立ったわたしの前に、既にその和馬さんの姿がそこにはあった。
「今日は俺の勝ち、だね」
 わたしの贈った時計を指差して、まぶしいばかりの笑顔を向ける。
 早く来ることに勝ち負けを競っていたつもりはなかったのだが、この日ばかりはわたしが到着するより先に、和馬さんが待っていた。
 今週は和馬さんの「初めて」に、驚かされてばっかりだ。
「何時から待っていたんです?」
「えっと、こういうときは確か・・・・さっき来たばかりです、って言えばいいんだよね?」
「もぉー!」
 もう二度と言えないだろう、と思っていた言葉を、もう二度と話せないとも思っていた相手から言われてしまった。
 むぅ。少しだけ、悔しいぞぉ。

 それから映画を見て、フレンチレストランで昼食を摂り、ウインドショッピング。まるで二年前のあの日が戻ったみたいだった。
 そして、二年前はこれから・・・・。
 《 ズキン! 》
 ・・・・っ!
 途端にわたしの胸に鋭い痛みが突き刺さり、掌を握り締めた。
 いや違う、・・・・違いすぎるでしょ!
 あれは穢れなかったころのわたしだった。あのころのわたしならば、わたしは和馬さんとの約定を果たすこともできていた。
 大きすぎる違いだ。
「!」
 その握り締めていた掌を、和馬さんが手に取って手を繋ぐ。
「たぶん・・・・今、弥生さんと同じことを考えていたと思う」
「和馬さん・・・・」
「俺も、もう、あのころには戻れない・・・・」
 暫くの間、二人は沈黙したまま、互いの手に伝わるぬくもりだけが二人の繋がりを感じさせた。
「神崎の当主・・・・親父の跡を継ぐために」
「うん」
 そうか、と思った。
 和馬さまは見つけたのだ。新天地でわたしの草薙の家を上回る名家の、その御令嬢を。覚悟を決めて送り出したはずのわたしではあったが、こうして改めて告げられると、一抹の寂しさを憶えてしまうのはわたしの未練であっただろう。
「でも、変わらないものもある・・・・」
「えっ?」
 和馬さんはわたしの手を取ると、薬指に蒼い石が填め込まれた指輪を填めていく。
「和馬さん、こ、これ・・・・」
「これを弥生さんに贈ったときの気持ちは、今も・・・・そして、これからも変わらない」
 驚きに満ちた目で、わたしは再び左手の薬指に戻った指輪を見つめる。
「俺が神崎の当主になれば、兄貴から弥生さんを取り返す」
「和馬さん・・・・」
「それで・・・・いい?」
 わたしは頷いた。愛人でも愛妾でもいい。和馬さんの側に居られるのなら。
「もう一つ、弥生さんに贈りたいものがあるんだけど・・・・受け取ってもらえるかな?」
 神妙な顔持ちで首を傾げてくる。
 和馬さんはロータリーでタクシーを拾うと、首都高を経由して、神崎の家がある方角へと向かわせる。
 和馬さん、変わったな・・・・と思わずにはいられない。無論、いいほうに、である。以前までの和馬さんに比べて、行動が積極的になったというか、些細な仕草にも自信が満ち溢れている。神崎の当主になるため、その自覚がそうさせたのだろうか?
 頼もしいな。
 それに以前なら(直人さんを除く)人前では素っ気無い態度が当然であったのに、タクシーの車内で未だに、わたしは手を繋がれているのだ。
 やっぱり、一度、身体を重ねた・・・・
 思わず、わたしは赤面する。そして、また今日ももしかすると、と思わず期待してしまう自分が、浅はかに思えてならなかった。



《和馬》

 俺が弥生を連れて案内したのは、新築の高級マンションの八階にある一室である。3LDKの豪華な部屋を揃えた、時価にして、およそ一億は下らないだろう物件だ。
 桜花市の新居に入ったあの日、不当な復讐を遂げてしまっていた俺に対し、直人は一つの提案をした。完璧なセキリュティーの安全な住居、住みやすい環境を弥生に提供にしよう、と。
「ここは俺が中学の時に使っていた、俺たちの溜まり場でさ」
 溜まり場というのは無論、嘘だった。確かに適度に散らかっているが、ただそれらしく見せるために、中学時代の仲間に連絡を入れて、俺はこの部屋の偽装をお願いしていたのである。
 あいつら上手くやってくれたな。
 卒業してからというもの、一度として連絡を入れてなかった俺の頼みをあいつらは快諾してくれた。かつての仲間たちを俺は心から感謝したものである。
 そして同時にこれならバレないだろう、という確信もあった。もしバレたりでもしたら、負担してくれた直人にも申し訳がたたない。
 如何に神崎グループの不動産業が俺の傘下企業とはいえ、容易に俺の我を通すわけにはいかない。彼らにも利益を求め、家族を養って生活しているのである。
 俺に残されている運営資金は、約三億程度。無論、全額が自由になるというわけでもない。ここから各企業が企画する新事業や、イベントなどを運営するにあたって、資金を提供していくことになるからだ。
 遵って俺が自由にできるのは、せいぜい八千万程度だった。桜花市の新居に膨大な資金を投下してしまったのが、今となって響いている。
「それはわたしの失態ですね」
 そこで俺が八千万、足りない額を直人が負担したのである。
 直人にも弥生に対して申し訳ない思いがあったようだ。もっと事前に真相を突き止めておければ、俺が不当な復讐を遂げることも、弥生が悲壮の覚悟を決めることもなかったのだ、と言う。
 その直人の思いは過剰だと思ったが、実際に購入する金額が足りないのも事実であり、俺はありがたく直人の金銭を使わせてもらった。

 俺たちの溜まり場、ということでゲーム機、本棚、冷蔵庫、箪笥(たんす)、ベッド、TV、洗濯機、テーブルなども完備してある。
 試しにどんなゲームがゲーム機に入っているのか、ディスクを取り出して確認してみた。もし家庭向けのもので面白そうなものなら、あとで弥生と遊ぶのも一興だろう。
「ぶっ!!」
 俺は思わず、噴き出さないわけにはいかなった。
 あ・い・つ・ら・ぁ!!!
 タバコの焦げ跡、菓子の食い散らしは、まぁ、我慢もしよう。
 ビールの空き缶も、まだ許容範囲内だ。
 ここに誰が住むとは知らせていなかった俺も悪い。弥生を連れ込む前に確認を怠ったことも、俺の手落ちではあろう。
 だが、ゲーム機から出てきたディスクのタイトル、《爆乳コスプレSEX》という活字には、俺は憤然とせずにはいられなかった。
「和馬さん、どうかしましたか?」
「や、弥生さん!」
 俺は慌ててディスクを背に隠して、振り返った。
「ちょっと買い物、お願いしてもいいかな?」
「はい。何を買ってくれば?」
「んっ、なんでもいいから・・・・」
 途端に俺は名案を思いつく。
「き、今日の晩飯! 冷蔵庫に何も入っていないはずだから」
 俺は片方の手で財布ごと手渡して、引きつった笑みを浮かべる。とにかく今は、急いで部屋から離れて貰わないと。まだ何が部屋の中に眠っているのか、俺でさえ解からなかった。
 弥生の退出を確認した俺は、すぐにゴミ袋を見つけ出し、部屋の中という中を確認して回る。スペースを見つける視界の広さは、サッカーの練習による賜物だろう。そして全てのイレギュラーを回収した袋を一階のゴミ集積所に投棄したとき、エレベーターに乗り込む弥生の姿を確認する。
 もう一つのエレベーターは最上階。
「くっ!」
 俺は駆け足で階段を昇っていった。
「ま、まさか・・・・ハァハァ、都々御たちとの登校マラソンが、このようなかたちで、活かされるとは、思ってもみなかった!」
 普段は文句を垂れるような思いであったが、俺はあの二人の登校時間に初めて感謝という気持ちを覚えたものである。


「弥生さん、お帰り」
 少し余裕ある時間の間に息を完全に整え、俺は笑顔で迎えられた。
「和馬さん、ただいまです」
「弥生さんに買い物を頼んじゃって・・・・その、ごめんね」
「いえ、それは構わないのですが・・・・」
 俺も弥生さんに釣られて時計を見る。
「この時間からですと、大したものは作れないと思いますが・・・・」
「okok。およそ人が食べられるものならば、何でも・・・・」
 俺は皮肉をたっぷり載せて、弥生の頬を膨らませた。
「それは、どういう意味ですぅ?」

 エプロン姿に調理をする姿を眺めながら、俺は本題を切り出した。
「弥生さん、草薙の家から東大に通うのも大変だろう?」
 MCNで弥生に行動させた記憶を全て消しており、俺は彼女が《一刻館》に隠棲していることを知らないことになっている。
「えっ?・・・・あ、うん」
「中学校を卒業したら、ここも使わなくなったからさ。弥生さんがここを使ってよ」
「えっ! そ、そんな・・・・」
 確かに贈り物にしては、金額として大きすぎるものかもしれない。それを気兼ねして戸惑うだろうとは、直人も指摘していたことだ。
 俺はそんな弥生の身体を後ろから抱き寄せた。
 そして耳元で囁くように告げる。
「ただ一つ。この部屋を使うにあたって、お願いがあるんだけど・・・・」
 瞳を閉じて、背中から抱き締める腕に力を込めた。
「この部屋では、絶対に兄貴とHしないで」
 それは俺の本音でもあった。
「か、和馬さん・・・・」
「今、弥生さんが兄貴の婚約者だということは解かっている。関係を止める権利が俺にはない、ということも。正直、納得はできていないけど」
 弥生とて人間であり、女性である。性欲がないはずがない。そして俺は遠く離れた桜花市にいる。そんな俺に彼女だけ我慢しろとは言えない。
 だから、MCNの兄貴のページには、弥生が性交を拒めば、絶対に強制はできないように記載させてもらった。これによって兄貴は、弥生自身が望まない限り、SEXを強要することはできなくなるはずだ。
 俺が神崎家の当主になる、その日まで・・・・



 《直人》

「ご無沙汰しております。源蔵さま」
「おう。直人か」
 思いのほか、神崎家の現当主の声は元気そうではあった。だが、その表情にある死相は一段と、色濃く源蔵さまの顔を蝕んでいる。痛々しくもあったが、それをわたしが目を背けてはいけない。
「ここは堅苦しくっていかん! 酒は止められるわ、女は抱けんわ!!」
「少しはご養生くださいませ」
 わたしは両手を組んで、小首を傾げた。
 内面的なところは相変わらずだ・・・・
「たく! 和馬の奴ぁ、あれ以来見舞いにさえ来ん・・・・あれは元気にやっているかね?」
 不平一杯の冒頭ではあったが、やはり実の息子を想う気持ちが語尾のほうに色強く表れていた。まして最後に会ったのが、MCNを受け継がせたあの日である。心配に思うところもあるだろう。
「ええ」
 わたしは頷いた。
「和馬さまにも多々、やるべきことがありまして、今頃は弥生さまと一緒にいることでしょう」
「そうか。和馬は、あれ(MCN)を使ったか・・・・」
「はい」
 わたしにも源蔵さまの言わんとしていることが解かった。現に和馬さまはMCNを用い、それが不当な復讐であったのだと解かって、自責の念に陥ったりもした。
 だが、源蔵さまと瑞穂さまの失敗と異なるのは、相対的に見て和馬さまの失敗は、むしろ弥生の状況を好転させたことだろう。勿論、これからの先も、必ずそうなるという保障の限りではないが・・・・
「それで、今日の用件を聞こうか?」
 源蔵さまの表情が父親のものから、神崎家の当主たるものの表情に豹変していた。
「まさかお前ほどの男が、こんな老いぼれをただ見舞いに来たわけではあるまい?」
「ご明察、ありがとうございます」
 源蔵さまとわたしの間には、公的私的に関わらず、世辞や建前は不要だった。無論、冗談は何時になく飛び交うものだが。
「源蔵さまにお願いがあって参りました」
「聞こう・・・・」
 わたしは一礼する。
「わたしがこれから申すのは、源蔵さまを苦しめるだけのものでしかないかもしれません・・・・が、お願いであります。その寿命が続く限り、長生きしてくださいませ」
 わたしの言い分は、もう余命いくばくもない人物に対して酷な要求であったかもしれない。
「そうか。わしは和馬やお前のために、簡単には死ねないのだな?」
「申し訳ありません・・・・」
 一分でも一秒でも長く、源蔵さまには生きていて貰いたい。それは確かにわたしの本音でもあったのだが、医師は患者が転移された癌によって苦しみにのたうち回るよりも、安楽死させることで、無限の苦しみから解放する方法を薦めるのが大抵ではある。
 源蔵さまの死、それはイコール、新当主就任戦の始まりである。喪に服す日数を含めたとしても、今の和馬さまに足りないのは時間であった。
 わたしの視線を源蔵さまが受け止める。
「解かった。いつまで、と保障はできんが・・・・」
「ありがとうございます」
「なに、わしが勝手にお前に惚れ込み、養子にしようと日本に連れてきておいて、わし個人の都合でそれをふいにしてしまったのだ」
「古い話です。それにわたしは・・・・」
 わたしは眼を閉じ、頭を垂れる。
「紛れもなく、源蔵さまに息子として扱って戴きました。このご恩は、和馬さまを新当主に据えることで、報いたいと思っております」
 わたしを見る源蔵さまの目に優しさの光りが灯る。
「ふふっ・・・・変わったものだな、お前も・・・・」
「はい。それも、源蔵さまと・・・・和馬さまのお蔭です」

 恐らく、和馬さまは覚えていないことだろう。正確には、まだ記憶するだけの年齢に達していないころのことだ。無理もない。
 わたしは、和馬さまが生まれながらに忠実な側近、というわけではなかった。少なくても、和馬さまが誕生して間もない頃は・・・・



《ネムレス(直人)》

 わたし・・・・オレが来日した当初、この慣れない文化、住み慣れない環境から激しいストレスを憶えていった。無理もないだろう? 中東で相手を殺すことだけを目的に生きてきたオレが、勤勉? 協調?
 できるはずがない。
 そこからくるストレスは尋常ではなく、ましてそれが解消されることもなく、オレは次第に憔悴していくと同時に、この理不尽なまでの悪循環を日に日に募らせていった。
「この事業が成功すれば・・・・それが奴には何故、解からん!!」
 最悪の場合はMCNでこちらの我を通す、その当時の源蔵さまも荒れていた。源蔵さまの唯一の救いは、それまで疎遠であった妻である瑞穂さまが心を開き、閨を共にすることになったことぐらいだろう。
 邪魔な存在は消せばいい!
 後日になって解かることであったが、MCNによって平和的解決を見るはずであったその標的を、オレは惨殺してしまった。また日に日に溜まっていた鬱憤を晴らすかのように。同じ殺すにしても、明らかにやり過ぎていた。その日のオレは来日して初めて、キレてもいたのだろう。
 
「何故、殺した?」
 神崎の家に帰宅したオレを、源蔵さまは呼び止めた。
 MCNを封印した後には最終手段として、源蔵さまから殺しを依頼されることもあったが、独断専行で殺しを行ったのは、この日が最初で最後であった。
「邪魔な存在は殺される前に殺しておくべきだろう・・・・少なくても、中東ではそうしていた」
「ここは日本だぞ!!」
 来日する以前、あの無限の砂漠の大地で、オレは来日を薦める目の前の人物に尋ねたものである。
「日本に戦争はあるのか?」と。
 答えは否だった。ならば来日するなど論外だとも思った。オレは人を殺すことで食っていくことしかできない、生まれながらの傭兵なのだ。
「日本に戦争はない・・・・だが、競争はある。日本はどの分野も競争社会だ!」
「キョウソウ?」
 結局、中東一帯での紛争も終焉を迎え、部隊は解散。オレは行く宛てもなく、言われるがまま来日してきた。そして今、その競争社会の陰湿、複雑さ、理不尽なしきたりの一つ一つがオレを苛立たせている。

「オレはやはり、人を殺めることだけでしか、自分の存在意義を見出せない人間なのかもしれないな・・・・」
 思わず、自虐的な発言がこぼれた。
 中東での生活は、確かに殺伐とした明日をも知れぬ毎日ではあった。殺戮能力さえ優れていれば、大抵のことがまかり通る・・・・それだけに単純な世界であった。
「何故、そんな目をするんだ?」
 その源蔵さまの悲しげな目を、オレは一生忘れることはないだろう。
 そんなオレに源蔵さまは二つのものを、オレに与えた。
 真田直人という戸籍。そして・・・・生まれたばかりの赤子、和馬さまである。瑞穂さまの反対を押し切ってまで、オレに託した幼い生命だ。無論、信頼された証であり、オレは戸惑いながらも信頼されていることに嬉しかった。喜びを感じていた。だが、同時に和馬さまに憎悪を抱いていたのも確かであった。
 和馬さまさえ誕生していなければ、オレが神崎の性を名乗り、源蔵さまの養子に納まっていたはずなのである。その泣き声一つ、疎ましく思えてしまうのも無理はなかっただろう。

 憎悪、嫉妬、羨望・・・・そして、殺意!
 それが、わたしが和馬さまに捧げた最初の感情であった。

 わたしがその小さな蟠り(わだかまり)を完全に捨て去ったのは、それから一年ばかりの歳月が過ぎ去ったころであろうか。
 プチトマトのような小さい手でわたしの指を掴み、「なーと、なーと」と連呼する。和馬さまが初めて口にした言葉がそれだった。
 最初は何のことか解からなかったが、それが懸命にわたしを呼んでいるのだと解かったとき、わたしは思わず、涙が零れたものだ。
「和馬さま・・・・」
「なぁーとぉ」
「はい、直人でございますよ」
 小さくも力強く指を握る手。
 このとき、確かにわたしの中で何かが変わっていた。


 元々傭兵であったこともあって、理系の分野においては確かに多大な才能を遺憾なく発揮できていたわたしであったが、唯一、文系・・・・特に古文が苦手ではあった。なぜ、日本という国はそう考えるのか、が理解できていないのだから、当然ではあろう。
「見つめ合っている男女・・・・」
 激しい殺意を胸に抱き、互いの咽喉元を切り裂く、その一瞬の隙を窺っているのだな?
 と、いった感じである。
 わたしは和馬さまに聞かせるための絵本から、多くのことを学んだ。恐らく、源蔵さまがわたしに和馬さまを委ねた一つの目的に、同じ「無」の状態にある二人に、道徳の教育を目的としていたのではないだろうか?
 それから多くの小説、心理学に関する文献に至るまで、時間の許す限り眼を通していった。才能というものは、点を発した原点を中心に、扇状に広がっていくという。そのときのわたしがまさにそれであり、わたし自身それを実感さえしていた。

 わたしの才能の発露は紛れもなく和馬さまの存在にあり、ならば、わたしの持つ全能力をあげて、源蔵さまの後継者に育てる。そう思うようになっていくのは、当然の流れであっただろう。
 喩え和馬さまが当主の座を求めずに、違う新たな道を進むにしても、その経験は決して無駄にはならないだろう。


《 神崎さん、面会終了のお時間です 》
「と、もうそんな時間ですか・・・・」
 その無機質なアナウンスに弾かれるように、わたしはゆっくりと立ち上がった。
「ふん。面会時間が限られている入院なんぞ、地獄のようなものだぞ」
 確かにずっとこの個室部屋で、一人で居続けなければならない時間は、病人にとってこの上なく暇を弄ぶことだろう。まして源蔵様のような自由奔放な性格とあっては尚更かもしれない。
「遊蕩三昧のわしが言うのも変だが、お前も健康だけには気をつけろよ」
「はい、肝に命じておきます」
「こいつめ、少しは否定しろ!」
 ありがとうございました。
 わたしは同じ言葉を心の中で繰り返す。
 中東で拾ってもらったときから、早、十七年が過ぎ・・・・色々なことがあった。殺すことだけが全てであった自分に、人との触れあいの大切さを教わった。生命の尊さを習った。和馬さまを育てるという生きがいも貰った。
「事実ですから・・・・」
 わたしは笑った。どこか無理をしている笑みだと、自分ながらに思う。お互いに苦笑しつつも、もう二度と会えることはないだろう、という認識が、二人にはあったからかもしれない。

 病室から退室した後、ドアノブを掴んだまま、真っ白な廊下の天井を暫く見上げる。

 そう、これがわたしと源蔵さまの・・・・今生の別れであった。



《弥生》

 和馬さんは嘘をついている、と思った。そして、買い物を終えて室内に戻ったとき、わたしはそれを確信する。
 和馬さんは以前から、スナック菓子を初めとする甘いものが大の苦手としていた。それは今日のデートにおいても変わってはいない。そして部屋のゴミ箱の中にあるのは、和馬さんの苦手とする甘いものばかり。真新しいグラスやお皿などが、綺麗に棚に収納されている。一度も使用された形跡もない調理道具の一式、その全てが新品だった。
 これが意味するところは、一つしかない。
 この部屋は、初めからわたしのためだけに用意された部屋なのだと。
 草薙の家を捨てて、もう何も残されていない、わたしなどのために?
 そう思うと胸が熱くなった。
「和馬さん・・・・」
「んっ?」
「一樹さんとは、恐らく和馬さんが思っているような・・・・」
 わたしは後ろから抱き寄せられるように身体を預けたまま、瞳を閉じていく。事実を知られてしまうのが怖かった。この状況が、この身体に伝わるぬくもりが、わたしにとって最上なものであっただけに。
 だが、ここで打ち明けておかなければ・・・・わたしは、和馬さんの想いを裏切り続けることになってしまうだろう。
「わたし・・・・一年前、和馬さんの名前で呼び出されて・・・・」
「んっ、知っているよ」
「!!?」
 和馬さんのその返答は、わたしにとって驚愕するに値した。わたしはただ唖然として目を見開くように驚く。少なくても、二週間前までの和馬さんには、わたしが一樹さんにレイプされている事実を知らないはずだった。
「直人が教えてくれたから・・・・」
「な、直人さんが?」
「俺・・・・何も知らなくて。弥生さんが兄貴と婚約した、と聞かされたとき、俺は何も知らなくて、ただ弥生さんを恨んだよ」
 恨まれて当然だと、思った。
「俺との婚約を解消したときだって、俺、何も理解してあげられなくて、それで・・・・直人が教えてくれたんだ」
「それでも、汚れたわたしをこの部屋に?」
「汚れた、なんて哀しいこと言うなよ。それに弥生さんを汚した、というのなら俺も同罪だろう・・・・?」
「ううん、一樹さんと和馬さんは違うの・・・・」
 わたしはこのとき、二週間前のプリンセスホテルの出来事だと思った。わたしには和馬さんから睡姦されたときの記憶がないのだから、当然ではあろう。
 わたしがその真実を知るのには、尚、一年の歳月を要する。
「草薙の家を捨て、和馬さんに捧げると誓った、約束も違え・・・・」
「俺は草薙の家の家名に、弥生さんの純潔を気に入って婚約していたわけじゃない。弥生さんが弥生さんだから、だよ」
「和馬さん・・・・」
 ゆっくりと振り返って、口付けを交わしていく。そのわたしたちの間を抗議するかのように、《ブクブクブク》と、お鍋が泡を噴き出した。
 慌てて火元を止めたわたしは、一つ間を置いて和馬さんに振り返った。
「和馬さんの好意に甘えるついでに、もう一つ。和馬さんにお許しを貰いたいのですが・・・・宜しいですか?」
「んっ?」
「この和馬さんの子供を、出産しても・・・・いいですか?」


「ここの奥に、俺と弥生さんの・・・・」
「あまり・・・・見ないでください!」
 わたし、凄いところを見られている、という実感があった。仰向けの体勢から両脚を抱えあげられ、わたしの膣内を指先で開いているのだ。
「却下だ。じっくり視姦させてもらう、としよう」
「もう!」
 およそ自分で確認できる場所ではないだけに、わたしには恥ずかしい以外、なにものでもない。だが、それでも和馬さんに見られている、という、それだけでわたしの身体は熱く火照るのだった。
「くす。濡れてきたよ・・・・弥生さん、感じているの?」
「い、言わないでください・・・・和馬さんに恥ずかしいところを見られている、と思うと・・・・もう・・・・」
 そこへ更に和馬さんの舌が触れ、わたしの湧き出た体液を啜っていく。それだけでわたしの思考は麻痺したように痺れていった。
「まだ受胎して二週間なら・・・・大丈夫だよね?」
 およそ安定期という期間が解からないだけに、わたしは返答のしようもなかった。ただ和馬さんがわたしとしたい、というのなら、わたしの選択は和馬さんの望むことである。
 それがもう、和馬さんの「愛人」としての道しか残されていない、わたしの勤めであろう。和馬さんに捨てられたくはない。「捨てないよ」と保障もしてくれたが、およそ人の心は移り変わるものである。
 わたしは両腕を和馬さんの背中にし、開脚した股間に宛がわれた感触があった。和馬さんが貫いてくるのか、それとも、わたしが包み込んだのだろうか。《ズブズブッ・・・・》と、自分の身体の膣内だけに、はっきりと実感できてしまう。
 繋がった箇所から溶けて融合したような、境界が曖昧なほどの密着感。
 和馬さんの根元まで受け止め、わたしの奥深くまで突き上げる。
「んんっ・・・・ふ、深い・・・・」
「や、弥生さん・・・・そ、そんなに締め付けないで!」
 む、無理・・・・だと思った。わたしが意図的に強く締め付けているというわけではない。ただ和馬さんのがわたしの膣内よりも大きいだけなのだと思った。
 それだけに一部の隙もない一体感が、わたしたちを襲い、わたしは至福のときに酔いしれる。もう二度と抱かれることはない、もう二度と受け止める日はない、とも思っていた。
 和馬さん・・・・和馬さん、和馬さん・・・・
 《ピチャピチャ》と卑猥な音も、もうわたしの耳には届かない。ただわたしは貪欲なまでに登りつめていく、その過程だけで一杯一杯だった。
「そろそろ、いくよ?」
「わ、わたしも、い、いっしょにぃ・・・・くぅあぁぁ!!!」
 その瞬間、わたしは真っ白になった。それと同時に、わたしの膣内で和馬さんが弾けた。
 わたしたちは繋がったまま、何も考えられず、その瞬間がこの上ないときを満たしていってくれていく。

 和馬さんの愛人・・・・
 戸籍上、わたしが和馬さんと夫婦になることはもはや厳しい。そのことはわたしも理解していた。ただ和馬さんの側に居られるのなら、愛人でも何でも良かったのだ。
 そう・・・・何でも。

 およそ一年後。
 神崎家の当主に就任する和馬さんは、三人の愛人と、そして数多の愛妾(妊娠しても、認知されない女性)たちによるハレムを作ることになる。そして、彼女たちを羨望している自分が居る。
 そう、わたしはそのハレムには・・・・

 わたしは生涯、神崎家の当主となった和馬さんの、その愛人どころか、愛妾にさえもなれなかったのだから・・・・。



《和馬》

 《 プァ〜〜・・・・ 》
 窓に映る、流れる景色。俺は何を見るというわけでもなく、ただ流れていく窓の光景をぼんやりと眺めていた。こういうとき、よく菓子などを食べるなどをして気を紛らわすのだろうが、あいにくと俺は甘いものが全般的に苦手だ。
 一度だけ、車内を見渡す。大型連休を月末に控えているこの時期なだけに、新幹線の利用客はそれほど多くはない。
 ふと、まぶしいばかりの表情でピアノを弾く少女が脳裏に浮かんだ。同じ桜花中央学園の一年で、音楽科の少女。ここ最近では、彼女のことを想像するだけで、俺の胸の鼓動は自然と高鳴りを憶えていた。
「ちっ・・・・」
 舌打ち一つして、俺はゆっくりと頭を振り、それを振り払う。
 せめて桜花市の新邸に到着するまでは、弥生のことだけを考えておくべきだと思っていた。そう思おうとしている時点で、俺は既に彼女の気持ちを裏切っているような、そんな気もしなくはなかったが・・・・。


「・・・・」
 ゆっくりと瞳を閉じる。
 先ほどまで弥生と一緒にいて、二つのことに気がついてしまった。
 草薙弥生。俺の元許婚にして、現在では兄貴の婚約者。一年前の出来事を知り、再び復縁することができた彼女ではあったが、俺が抱く弥生への想いと、結城琴子に対する想いとが、全くの別物であるということ。
 そして、もう一つは・・・・。
《 愛が愛を、重すぎるって理解を拒み 憎しみに変わっていく前にぃ〜 》
 そのとき、俺の携帯が某アニメの主題歌を鳴らした。
 俺は周囲を見渡した。極力、病院と電車内での携帯の使用は、慎むべきであっただろう。だが、次の駅までかなり時間があるし、他の少ない乗客も別段、こちらを気にしている様子はない。何よりも今は、この忠実な部下の声を無性に聞きたかった。
《もしもし、和馬さま?》
 直人の声を聞くと、途端に不思議と不安が薄らぐ。
《今、マンションの方にお迎えに上がろうとしたのですが・・・・》
 同時に俺はギクリ、とした。
 俺の携帯には発信機が取り付けられている。下手な言い逃れはできないだろう。
「んっ、今、新幹線の中・・・・」
《はぁ?》
 都内に残してきてしまったかたちになる直人には悪いと思ったが、今はなるべく早く、都内から抜け出したい気分だったのだ。
 このあと直人に「護衛という、わたしの役目をご存知ですか?」「勝手に一人で帰る・・・・わたしは一人、待ちぼうけですか?」などと、小言が続いたのは当然のものであっただろう。
「悪い・・・・」
 護衛されている身分である俺の行動は、確かに軽率なものであったし、同じ新幹線で一人、一足先に帰るにしても、一言は直人に告げておくのが筋というものであった。

《・・・それで、悩みは解消されましたか?》
「いや・・・・」
 俺は正直に答えた。
「でも、性急に答えを求めようとは思わないことにした」
《それでいい、と思います。恐らく和馬さまが抱いている迷いに、明確な正解などありませんから》
 俺は携帯にも関わらず頷いた。
 確かに世の中、正解と不正解の二つだけで割り切れてしまうほど、人生はそう単純ではない。また、例え選択が大失敗であったとしても、それを糧にすれば、決して無駄ではないこともある。
《時が来れば、自ずと決断しなければならない、そのときまで熟考するのもいいかもしれませんね・・・・》
 直人の言う「そのとき」とは、俺の父親であり、現在の神崎家の当主でもあり、直人が敬愛する人物の死のそれ以外、なにものでもないことが俺にも容易に解かった。

「んっ、ああ、それは大丈夫。駅から歩いて帰れるさ・・・・うん。途中で晩飯も済ませておく・・・・」
 もうそこまで心配されるような年頃でもないのだが・・・・直人にとって俺はいつまでも、頼りない弟のような存在でしかないのかもしれない。
「ああ、一つ。都々御たちへの土産を買うのを忘れていた。東京土産を五つ、お願いしてもいい?」
《解かりました・・・・が、五つ?》
 桜花市において、俺が土産を買うような交友関係にあるのは、都々御遥人、谷浦虎太郎、小泉とうあ、雛凪つむじの四名ぐらいだろうと、直人も思ったことだろう。
「一つは、直人の名前を語って、香純ちゃんに・・・・」
 桜花に入学して半月が経過し、俺たちの中に一つの噂が円満した。俺もその噂を広報した張本人ではあったが、間違いなく宮森香純先生は直人に惚れていると断定している。そして、直人自身もまんざらではなさそうだ。
「きっと香純ちゃん、喜ぶよぉ〜」
 携帯なだけに直人の表情が窺えないのは非常に残念だった。
《解かりました。土産を四つですね!》
 ちっ!
 だが、俺はこれ以上の追及を諦めた。これ以上に直人をからかうと、四つの土産、それ自体買ってこなくなる可能性がある。それは後日、何もないときの楽しみに、とっておくとしよう。
「それじゃそっちも、車の運転には気をつけて」
 それこそ無用な心配であったかもしれないが・・・・

 携帯を折りたたみ、ポケットに入れようとして、一枚の書類のコピーをポケットに詰め込んでいたのを思い出す。
 夫の欄には俺の名前、妻の欄には草薙弥生の名前が記されている。事前に区役所から取り寄せてあった婚姻届の複写だ。原本は弥生が管理する。無論、この婚姻届を役所が受理することはない。そもそも夫となっている俺は、法律上でも結婚できる年齢に達していない。
 あくまで、弥生個人の感情を満たすことができる架空の書類だった。
「これで、この書類上では、わたしたちは夫婦なのですね」
 その婚姻届を手に、弥生は円満な笑顔を浮かべていた。
 胸が《 ズキン! 》と痛い。
 愛人、という境遇を受け入れた弥生に、俺は・・・・。
 妊娠した事実を告げる弥生に、正直、複雑な思いであった。彼女が妊娠したのは、プリンセスホテルのときではない。その前々日、俺がMCNで意識を奪い、弥生を犯したときのものである。
 確かに直人が言うように、それを(事実を)黙っていれば、弥生はそのお腹の子を愛の結晶と思い込むことであろう。
「弥生さん・・・・ゴメン」

 弥生と一緒に居て気付いた、もう一つの新発見。
 俺は今の桜花市の生活を優先して、可能でもあった弥生との結婚を実現させる気がなかった、ということだ。
 MCNで一樹に弥生との婚約を解消させ、その上で神崎家当主の道を断念させてやれば、俺たちの結婚に口を挟むものは皆無だ。
 俺が一樹に復讐するため・・・・
 結城琴子を手に入れるため・・・・
 あくまで俺の個人レベルの感情を満足させるために、妻にもできたはずの弥生を、敢えて愛人にさせてしまったのである。



 喧騒的な都内から、静粛な自然に包まれた桜花市に降り立ち、俺は軽い違和感を憶えずにはいられなかった。
 こっちに帰ってきた、と思うには、まだ多少の抵抗がある。
 前もって約束でも取り付けておかなければ、休日に顔見知りと出会う機会もないだろう、とも思っていた。もう少し、運命の出逢いとやらに執着して顔見知りを捜し求め続けていれば、小池鈴子と買い物帰りの結城琴子にも会えていたかもしれない。

「さて、と・・・・飯でも食うか」
 俺は空腹を主張する腹に手を当てた。
 だが、駅のロータリーに降り立った俺は、ただ唖然とせずにはいられなかった。
「コンビニもないとは・・・・」
 市内のショッピングモールなどが繁栄している一方、ギリギリ桜花市外になるここには、ファミレス《道頓堀》ぐらいしかなかった。
 一人身でファミレスに入るのには、かなりの抵抗を憶えた。このまま新邸まで我慢して、出前でもとろうかとも考えた。が、激しく空腹を主張する腹の前に、俺は些細なプライドも白旗を上げる。
「いらっしゃいませ、ぽんぽこぽん」
「ぽんぽこぽん」
 一人の店員の掛け声に店員全員が「ぽんぽこぽん」を復唱する。
 思わず、俺は笑いが込み上げた。それがこの店舗の方針であり、店員たちも、その方針をまじめに取り組んでいるだけなのだろうが・・・・
 一人であることを告げ、指定された席でメニューを受け取る。お好み焼き屋だから、それほど種類があるとは思っていなかったが、数ページに渡る豊富な種類に、俺は新鮮な驚きを憶えていた。
 注文を決めて、コールボタンを押す。
「ご注文お決まりになりまし・・・・、あっ!!」
 寄ってきたウェイトレスが急に身体を硬直させる。何が「あっ」だよ、と思った俺も同様の言葉を吐き出す。
「み、宮森さん・・・・?」
「ひ、人違いです!」
 丸いトレイで懸命に顔を隠しても、大きい顔写真入りのネームプレートから既にバレバレだろう。
 学園に登校すれば、ほぼ毎日のように顔を合わすことになる級友であり、席も窓際の俺の右隣だった。
 彼女は宮森香帆。さきほど直人との会話にもあった、宮森香純の妹であり、そこらのグラビアアイドルよりも整った顔立ち、華奢な身体、艶やかな甘栗色の長い髪。桜花中央学園中、上級生も含めた男子生徒の憧れの的といっていいだろう。とびっきりの美少女だ。
「ここでバイトしていたのか・・・・って、確かうちって、バイト禁止じゃなかったけ?」
 桜花に通学する学生は総勢三万人近い。当然、様々な家庭的な事情もあるだろう。俺にしても、一学生としては異例的に分類される。三万人近くの人間が揃えば、三万の家庭的事情がそれぞれにあるのは、当然のことであった。
 そのため桜花では、外部でのバイトを禁止する一方で、内部施設でのアルバイト(無論、時給は安い)に限っては認められている。
「えっ、あ・・・・あの・・・・」
 それは推薦入学の特待生である宮森香帆とて、例外ではないはずだ。
「あ、今、店員さん。呼んできますね」
「店員はお前だろうが?」
 桜花に入学した九千人近い新入生の中でも、三本の指に入るだろう美少女が俺の言葉に慌てふためく。
 当然、俺の狩りのリストにも、MCNにも既に登録してある。
 クッククク・・・・面白いことになりそうだな、おい!
 もう一人の自分が、俺の中で囁く。
 いや、そんな気がしただけだった。

 だが、新邸に着くまでは弥生のことだけを考えていよう、という俺の考えは、あまりにも容易に崩れてしまっていた。そんな考えを抱いていたことでさえ、既に忘れ去られていた。

 ・・・・そう、桜花に戻ってきてしまった俺にとって、草薙弥生とは、もはや過去の人であったのだから・・・・。


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