最終話【 雪中主従 】( 4月 )


 《弥生》

 両脚の太股から抑えられて、股間から身体を抉られていく。
「んっ・・・・」
「ああっ・・・・い、いくぅぅぅ・・・・」
 和馬さんの頭を懸命に抱きしめ、この日、八度目の絶頂に達する。そして、和馬さんの三度目の射精を受け止めていった。
 あ、熱い!
 どっくん、どっく、と。自分の身体なだけに実感できる。
「はぁ・・・・はぁ・・・・」
 互いに熱い吐息が漏れた。
 わたしは和馬さんの頭を抱きしめて、和馬さんもわたしの胸に体重を預ける。この体勢が暫くの時間続いていく。そして互いに視線を合わせると、どちらからでもなく、口付けを交わしていった。
 思わず、抱きしめる腕に力を込めた。
 す、すごい・・・・と、正直に思った。
 一樹さんとのSEXは、言わば薬によって強要された快感であった。身体だけが快楽を感じ、わたしの意思は不快感だけしか残されていない。だが、和馬さんとのSEXはそれとは異なる。心身ともに快楽だけを享受させてくれるのだ。
 やっぱり・・・・和馬さんが・・・・いい。
 夢の世界だけではなく、この現実においても、和馬さんのぬくもりはやはり、わたしには心地よいものでしかなかった。
 このぬくもりを手放したくない。できれば、このまま・・・・ずっと。
 この時間が永遠に続いてくれれば、強く願った。
 和馬さんとずっと・・・・
 わたしにとってそれまでの・・・・一樹さんとのSEXが、不快なものだけでしかなかった、それだけに・・・・


 約束の時間より三十分も遅れてしまったが、地下駐車場で待っていた直人さんは文句一つ言うこともなかった。
 一瞬、直人さんと視線が重なったとき、まるでわたしの心を見透かしているような、全ての事情を理解してくれているような気がしたのだ。
 不思議な人だと改めて思う。
 直人さんがわたしのために後部座席のドアを開けてくれたが、わたしは頭を振ってそれを謝辞した。車に乗ってしまうと、我侭を言ってしまいそうな、そんな気がする。
「ここで二人を見送らせてください」
「!」
 直人さんだけでなく、和馬さんもわたしの唐突な発言に驚く。
 セントラルアベニューを抜ければ駅も近くだ。わざわざ駅まで送ってもらうほどの距離ではない。なにより・・・・
 わたしは今一度、和馬さんの身体に抱きついた。
「か、和馬さん・・・・」
「んっ?」
「・・・・・」
 わたしも和馬さんの新居に連れて行って・・・・
 わたしはその言葉を懸命に呑み込んだ。
 わたしも和馬さんの新居に連れて行ってもらいたかった。もしも和馬さんと一緒に新生活をすることができたのなら、わたしはどれだけ幸せなことであっただろうか。

 だが、それはできない。わたしがそれを望んではいけない。

 わたしの草薙の家は、一樹さんの当主就任の支援を確約してしまった。その草薙の家を捨てることには何の抵抗もない。だが、わたしが今、和馬さんと一緒になっても、何一つ和馬さんのためにはならないのだ。むしろ悪影響でしかない。
 わたしと和馬さんの新生活・・・・
 それは即ち、和馬さんが「神崎」の姓を捨てることと同意義にさせてしまう。それだけはわたしが望んではいけないのだ。

 わたしは名残惜しそうに和馬さんの身体から離れると、ゆっくりと左手を差し出す。
「お返ししますね・・・・」
 いけない。思わず、声が震えてしまった。
 心の中で懸命に自分を叱咤する。
「え?」
「本当はもっと早くお返しするべきだったのでしょうけど・・・・もうわたしには、和馬さんから戴いた指輪を填めている、その資格はありませんから」
 ゆっくりと指輪を指から引き抜き、和馬さんの手を取る。
「もし願わくは、和馬さんが神崎家を継ぐ、継がないに関わらず、お側に置いてほしいかな・・・・厚かましいお願いですけど」
 もうわたしは和馬さんの妻にはなれないだろう。
 和馬さんが神崎家の当主に就任した場合、その横には、穢れたわたしなどよりも彼に相応しい伴侶が、きっといることであろう。また一樹さんに敗れ、当主に就任できなかった場合でも、わたしの戸籍上の登録は一樹さんにある。それに従うつもりは更々なかったが、どちらに事態が転がっても、わたしと和馬さんが結婚できないのである。

 ホテルの外まで二人を見送った上空には、粉のような白い結晶が舞い降りてくる。
「あっ・・・・雪・・・・」
 わたしはテールランプが消えて見えなくなるまで、笑顔を決して絶やさなかった。二人の前では絶対に泣かないと誓っていた。
 そして、今、その二人はもう居ない・・・・
 頬を伝わって熱いものが流れ落ちていく。そのあとはもう溢れるばかりの涙を留めることは不可能だった。
 悔いはない。一度だけでも、夢にまで見た和馬さんと身体を重ねられたのだ。悔いはない・・・・悔いはないはずなのに。
 か、覚悟していたのに・・・・
 もう和馬さんはわたしの元に帰ってこない、と。
 少なくても、わたしだけの和馬さんは・・・・
 三年前・・・・新春会より少し前に、「神崎和馬」という名前を初めて意識した。お手付けの際に、果たせられなかった約束に交わした初めての口付け。その翌日の結納では、和馬さんの手によって、わたしの薬指に填められた指輪。婚約者としてデートを重ねた日々。
 それらが走馬灯のように、わたしの脳裏に浮かんでは消えていく。
 口元を抑えて、わたしはガラス色の舞い散る雪を見上げる。薄暗い暗雲の上空。それはまるでわたしの未来を象徴しているか、のようであった。


 これより数十日後・・・・わたしは自分の身体に宿った存在を知った。それは紛れもなく、和馬さんから授かった新しい生命であり、わたしだけに贈られた宝物でもあった。

 どんな経緯にも関係なく・・・・そう、わたしだけの。



《直人》

 二人の話を静かに聞いていた。全ての事情を知らされたわたしには、彼女の心境が痛いほど理解できていた。
 どうやら草薙弥生という女性を、わたしは見縊っていたようだ。
 聡明で才女とも認めてはいたが、まさかそこまでの覚悟を決められるのは並大抵の決意ではなかったはずだろう。
 実際、わたしはこう考えていた。弥生が和馬さまと新生活を迎えて、わたしがそれを見守る、という新生活を・・・・それはそれで楽しみでもあった。
 源蔵さまは恐らく、そう長くは持たない。不謹慎ではあるが、この二人の場合に限って、その期間が短ければ短いほどいい。
 最悪、和馬さまが草薙家を上回る名家の後ろ盾を得ることが叶わなくても、MCNによって一樹の撤退を余儀なくさせることができるからだ。当主にさえなれば、和馬さまは一樹に弥生との婚約解消を求めることができ、その上で弥生と結婚する。
 それ以外に障害になりそうなものが居るとき(例えば郷田聡、草薙の両親、鳳老夫婦など)には、最悪の場合、実力行使で黙らせる。和馬さまがそれを望むのなら、わたしはいくらでも手を血に染めてみせよう。
 そんな過程を想像していてもいたのだ。
 この場合、和馬さまは一樹に対して実力によって復讐する、ということが不可能になるが、その拘りを捨てるか、弥生を取るか・・・・わたしには答えが明白であったから。


 MCNの存在を知らない弥生としては、もっとも賢明で、そしてもっとも過酷な選択を彼女に強いてしまっていたのである。


 首都高速から東名高速へと乗り継いだとき、雪が強くなってきたこともあって、若干速度を落とした。ゆるやかなGの減少が途方に暮れていた和馬さまの意識を覚醒させた。
「直人・・・・知っていることを話してくれ」
「・・・・」
 やはり、きたか。
 何となくだが、聞かれるであろう予感はしていた。
「和馬さまが真相を知れば・・・・後悔しますよ」
「やはり直人は知っているのだな?」
「はい。出過ぎた真似とは思いましたが、人を使ったりして色々と調べてみました。申し訳ありません」
 グレンという凄腕の情報屋。天城小次郎という敏腕探偵。
 この二人が居なければ、わたしも真実には到底、辿り着くことはできなかったことだろう。このうちのどちらかとは、永遠に会うことができなくなるのだが、それをわたしが知るのは、ずっと後のことだった。



《和馬》

 そ、そんな・・・・
 直人から真相が語られていくにつれて、俺は愕然とせずには居られなかった。掌に握られた指輪は熱を持ち、足はガクガクと震えて地に着かない感じだった。
 そんなこと・・・・って!
 今日の昼まで、俺はてっきり弥生は、俺よりも兄貴を選び、自らの意思で俺を裏切ったのだと思っていた。そう思い込んでいた。そう思ったからこそ、弥生の意識を封じ、犯して、孕ませたのではなかったか。
 自分が仕出かしたことではあるが、今更ながら悔い悩まさせる。後悔後に立たず、とはよく言ったものだろう。

「直人、車を止めて」
「・・・・」
「引き返して・・・・弥生さんのトコに・・・・」
 彼女に対して責任を取る。それが当然のことだと思った。
「・・・・」
 直人は緊急用の路側帯に車を停め、ハザードを焚くと、雪中の中をゆっくりと歩き、後部座席の俺のドアを開ける。
「えっ・・・・」
 俺の目が見開く。
 直人の唐突な、意外な行動に俺は驚きの声を上げる。
 直人が・・・・俺の胸倉を掴んだのだ。そして無様な体勢で尻餅を着いたとき、初めて俺は、直人に殴られたのだと理解する。忠実な忠臣が振るう、手加減無しの激昂の塊だった。
「立ってください。和馬さま」
 俺は素直にその言葉に従った。俺を殴り倒したのは直人ではあったが、そんなことよりも、俺には忠実であるはずの直人に殴られた、ということのほうが遥かに堪えていた。
 一台・・・・そして、また一台と俺たちを通り過ぎていく。高速道路ということもあって、通過していく速度は普通の道路の比ではない。それだけに俺たちの時間がゆっくりと感じられた。
 まるで俺と直人の空間だけが別次元のように・・・・
 直人が鋭い視線のまま、哀れむような目で俺を見据える。
「女性のほうに覚悟を決めさせておいて、ようやく腰を上げる・・・・それが神崎和馬という男ですか?」
 俺はその場に俯く。
 正直、耳が痛かった。
 そう、これまで何でもそうだった。連絡の方法、メールのやり取り、デートの場所や日時。会う口実など・・・・全て相手任せだった。弥生と婚約したのだって、自らの意思で漕ぎ着けたというわけではなかった。
「その上に更に恥を上塗りするようなやり方が、和馬さまの・・・・わたしの仕えるお方の仕打ちなんですか!?」
 恥の上塗り・・・・そうかも知れない。
「だけど、俺は弥生さんに・・・・」
「不当な復讐に対する責任を取ろう、というお気持ちは、立派な心がけと思います・・・・ですが、既に弥生は自ら過酷な運命を受け入れた。その心意気を無為なものにさせてしまうおつもりですか?」
「な、何でそんな・・・・」
 俺はこのときになって初めて、ようやく・・・・別れ際に見せた弥生の表情とその言葉を理解した。彼女は俺のためだけに、自分の全ての幸せを投げ打って諦めたのだ、と。
「和馬さまは既に不当な復讐を遂げてしまわれた・・・・」
「・・・・んっ、わ、解かっている・・・・さ」
 口がうまく動かない。
 だが、殴られた痛みなどより、殴られる元凶のほうが俺には痛かった。
 俺には弥生に関して、兄貴を非難する資格はない。一樹が純潔を奪うレイプしたのと同様、俺も弥生をレイプし、そして孕ませている。
「幸い、と言っても何ですが・・・・今日の逢瀬によって彼女は身篭った子供を、二人の愛の結晶と思うことができるでしょう」
 弥生さんは既に妊娠していることを知らない。そして今日、本来ならば危険日であるにも関わらず、俺に膣内出しを求めた。その結果、このまま弥生さんが妊娠を自覚すれば、確かに直人の言うとおり、彼女は今日の出来事によるものだと錯覚することだろう。
「だ、だけど・・・・」
「確かに、もう和馬さまと弥生がお二人が、法的に結ばれることは厳しいかもしれません」
 俺と弥生の婚約者としての関係は、一年前に途絶えてしまった。そして今、彼女は一樹の婚約者である。例えそれが両親による決定であった、としても、それが現実なのである。
「だからって、このまま黙って騙すようなこと、俺にはできない」
「いつか・・・・彼女に本当のことを打ち明けられる、そんな日も来ましょう・・・・その彼女に贖罪する、その想いを報いるためにも、和馬さまは神崎家の当主となり、一樹から彼女を奪い返すこと以外に、何ができますか!?」
「・・・・・」
 何もない。今、真実を告げれば、更に弥生を傷つけてしまう結果だけである。

 俺は静かに瞳を閉じた。
 弥生は自らの幸せを断ち切ってまで、俺の未来を優先した。
 そして俺は・・・・掌に残った指輪に目を落とす。
 絶対に弥生を一樹の手から救い出す。俺の手も汚辱によって見舞われているけど、それでも彼女が俺を求めるなら、俺はそれに応えなければならないだろう。
 そう、俺は・・・・


 この日はあらゆる意味において、俺には特別な一日であった。
 弥生さんの想いが如何に強く、そして一途であったか、改めて思い知らされた。
 この日まで俺には忠実で従っていたはずの直人が、初めて俺を殴ったのもこの日であった。
 そして俺が神崎家の当主を強く求めたのも・・・・この日だった。

 この日を、俺は一生忘れることはないだろう。
 もう季節外れの雪は、俺と直人の二人に、平等に降り注いでいた。
 この日のことを・・・・。


《直人》

 和馬さまの新居に到着したのは、雪中の夜の帳が落ち始めようというころであった。こちらのほうでは若干、雪が弱めだ。
「和馬さま、到着しました・・・・」
「んっ、」
 あれからの道中、和馬さまとわたしの間には会話はなかった。今、わたしから何を言っても逆効果であっただろうし、わたし自身、仕える人物を殴ってしまった衝撃も少なくはなかったのだ。
「今日は直人も・・・・」
「はい?」
「こっちの家に泊まらないか?」

 桜花中央学園の一生徒である和馬さまと、一教師であるわたしが同じ建物で暮らすには、何かと問題がある。対となるわたしの家と和馬さまの家は、この地下でこそ繋がってはいるが全くの別の住居であった。

 どのような思考を得て、和馬さまが申し出た言葉であったか、わたしにも理解できていたが、わたしはそれを固辞した。まだわたしにはやるべきことが残されているからだ。
「申し訳ありません・・・・今日はこの後・・・・」
「神崎の家に、一旦戻るのか?」
 わたしは驚きの目をした。
 和馬さまの持つ大器の片鱗に、僅かに触れたような気がした。
「いや、何となくだけど・・・・そんな気がしたから」
 わたしもグレンや天城小次郎に真相を聞かされるまでは、明日の一日までこの周辺の探索を兼ねた散策、最後の休日を満喫するつもりではいたのだが・・・・
「神崎の家に住み着く害虫を駆除してきます」
「そうか・・・・」
 それが一樹のことではないことは、和馬さまも理解をしているだろう。もしかすると、弥生に関して同じ穴の狢(むじな)と、誤解しているかもしれない。
 確かに和馬さまと一樹は、互いに弥生をレイプしている。だが、もしそれで思い煩っているとしたら、それは大きな間違いである。恐らく弥生自身もそう思うはずだろう。
 全てを弥生に打ち明ける日がくれば、和馬さまの場合は準和姦になってしまうだろう。わたしは彼女の心境と性格から、そう信じている。そこが同じレイプという行為であっても、一樹との差なのである。
「そうだな・・・・直人が居ると、俺はまた甘えてしまうかもしれない。俺のした行動は、やはり俺自身が向き合わないとな・・・・」
「和馬さま・・・・」
 わたしはエンジンをかけたまま、一度だけ車から降り立ち、和馬さまと相対する。
「一つだけ、弥生さまに贖罪するお気持ちがあるのなら、わたしから提案があるのですが・・・・・お聞き入れくださいますか?」
 和馬さまはそれを了承し、わたしも笑顔で主君の肩を抱いた。

 今日一日だけでこの若き覇者が、どれだけ精神的に成長したか。わたし以外に解かる者などいないことだろう・・・・いや、もしかすると彼女、弥生だけは共感してくれるかもしれない。
 まだ和馬さまは十五歳・・・・だが、その置かれている境遇は同世代の比ではないだろう。負ければ、全てを失うのだ。しかも残された時間も限られている。その限られた時間の中で、和馬さまは全てに勝る神崎一樹。そして名家草薙に勝る、後ろ盾を手に入れなければならない。
 生半可な覚悟や決意では到底にして届かない。それこそMCNを駆使して、鬼や悪魔にでもならない限り。
 そう、まだ今の和馬さまでは・・・・


 さて。それでは・・・・
 わたしはサングラスを外し、アクセルを更に加速させる。
 再びの往路の中で、わたしは確実に変わっていった。かつてのネムレスと呼ばれていたころの無慈悲なわたしに・・・・。
「仁科勘治朗・・・・」
 わたしはこの男だけは許せなかった。
 元々、一樹と和馬さま(和美さまを含めて)の間には、何一つ諍いさえなかったのである。それは確かに歴代の神崎家の兄弟では異例ではあったのかもしれない。だが、だからこそ、この男が許せないのだ。
 この男が自らの保身のために、余計なことを一樹に漏らさなければ、ここまで多くの人を巻き込んだ悲劇は忌避できたはずなのだ。
 その責任の一端は、わたしにもあることは解かっている。今日までこの寄生虫を野放しにしてしまったのは、わたしの責任でもあるだろう。
 今日、弥生が過酷な覚悟を決断した。
 和馬さまも己の過ちを認め、傷付きながらも前を向いた。
 だからこそ、わたしもその二人に応えなくてはならない。


 神崎家の家に戻ったのは、既に深夜を回っていた。門扉は守衛が二十四時間体制で見守っていることもあり、途中で車は置いてきた。これから殺しをしようというのだ。極力、人目は避けたい。
「・・・・」
 昨日まで滞在していた場所であって、全てのセキリュティーシステムは頭の中に入っている。警報を作動させるようなヘマはしない。少なくても今のわたしは・・・・
 ああ、新雪を踏む足の感覚が気持ちいい、などと思っている場合ではない。
 うむ。それは確かだ。
 時刻が時刻なだけに、家の中には静寂としていた。足音を立てることなく駆け抜けて、一階の仁科の部屋へと向かう。
 ・・・・?
 だが、室内からは奴の気配を感じられない。就寝しているわけでもなさそうだ。
「ちっ・・・・奴は一体、何処へ?」

 耳を澄ませる。神崎の家に居ることは確かなのだ。かつて戦場で敵の奇襲を足音から察知したこともある。如何に広大な神崎の建物でも奴の存在を探知できるはずだ。
 見つけた!
 思いのほか近くに奴は居た。
 上? 二階の・・・・一樹の政務室か!
「一体何を?」
 階段をゆっくりと上り詰める間、一樹と勘治朗の会話を拾っていく。時折、和馬さまと和美さまの名前が耳につく。まぁ、善からぬ算段ではあろう。
 二人の間に交わされていた密約を知らなかったわけだが、それは仁科勘治朗にとって幸いであっただろう。もし、勘治朗が和美さまを抱く、邪まな考えを抱いていることを知悉していれば、わたしはそれ相応の報いでもって応えただろう。

「な、直人!」
 わたしが二階に立ったとき、そこには一樹の部屋から退出してきた勘治朗と鉢合わせしたときだった。
 和馬さまと新居のほうに向かったのではなかったのか?
 という心の驚愕が手に取るように解かった。
「ふっ、神崎家に残す寄生虫を排除しておくことを、つい忘れていたのでな・・・・取り急ぎ戻ってきたばかりだ」
 わたしは愛銃のグリップを両手に、まっすぐ差し向けるように構える。
「さぁ、何を一樹と話していた?」
「なっ・・・・うぐっ」
 勘治朗が呻いたのは、わたしの笑みを見たからだろう。
 仁科はわたしの銃の腕を知っている。来日した後も、源蔵さまのために暗殺に手を染めたのは一度や二度のことではない。
「ま、待て・・・・」
「いいや、待てんな・・・・貴様一人のせいで、一体どれだけの人間の人生が狂ったことか。源蔵さまの古き恩師ということで看過してきたが、観念するんだな!」
「わ、わたしが何をした、というのだ!?」
「寄生虫が目障りだからさ。それ以外に殺す理由が必要か?」
 わたしの返答に仁科が絶句する。
「まっ、待ってくれ。誤解だ・・・・何かの手違いなんだ!」
 まぁ、この期に及んで良くも動く口だ。
 挙句に、
「み、見逃してくれ!!」
 余りにも醜い男の言葉に、わたしは苦笑した。
 今のわたしに慈悲を乞うなど、まともな神経の持ち主ならば間違いだと気付くことだろう。僅かな生存の確率にかけて脇目も触らずに逃げ出す。それが正しい選択ではあろう。
 まして扉の向こうには神崎一樹がおり、当然、その護衛の郷田聡が控えているのだ。銃撃戦においても、前者はともかく後者はわたしでも油断できない雄敵だ。
 逃げ出そうという手段にようやく行動をしようとしたが、年とともに衰えた運動神経が感情を裏切る。どうやら腰を抜かしたようだ。
 その無様な姿に改めて苦笑が湧き起こってきた。まさか久しく殺意を抱かせた人物が、これほどまでに醜態を晒したのであるから、わたしの拍子抜けもいいところだろう。
「一週間だけ、時間をくれてやる」
「うぐぅ!」
 銃口を突きつけたまま、わたしは仁科を睨みつけた。
「次にわたしがこの家に戻ったとき、まだお前の姿がここにあるというならば、そのときは遠慮なく、ここに弾丸を貫くだろう・・・・」
 勘治朗の眉間を銃口で挿し、高圧的な笑みを見せる。この男にはこれぐらいで十分であった。また如何に勘治朗のような俗物とはいえ、身動きできない男を撃ち殺すには、目覚めが悪すぎるというものだろう。
 いいな? と念を押して、わたしは一度だけ一樹の部屋の扉を一瞥する。静粛に包まれた廊下である。室内にもわたしたちの会話が届いたことではあろう。だが、扉が開くような気配はない。
 どうやら見捨てられたようだな。
 踵を返すと醜態の塊のような男には脇目も触れず、もう二度と振り返ることもなかった。



《一樹》

 今日は今朝から慌しい一日であった。
 直営企業の会議の連続であり、企業の代表でもある俺が出席しないわけにはいかない。その対応に追われている連日、というのが最近の俺の日常である。
 それにようやく一段落つけて、神崎の家に帰宅できたのは、既に一時を回っていた。無論、明日も明後日も、怒涛のように押し寄せてくる問題に多忙な日々であることには変わりないだろう。
 だが、こんな時刻になっても、俺はまだ休むことが許されなかった。
 護衛の郷田が、執事の仁科の来訪を告げたのである。

 またあの話か・・・・。

 仁科勘治朗の来訪を聞いて、俺は蓄積していた疲労もあって不機嫌そのものの表情で出迎えた。
「一樹さま。そろそろ約束を果たして貰いたく存じます」
「約束約束と、お前は言うが・・・・」
 正直、うんざりする。
 日に日に勘治朗の教え子であった母、神崎瑞穂に似てきた、という。当時では、まさか教え子に手を出すわけにはいかず、また瑞穂には、父である鳳一輝という存在もあった。
 それから時が流れ、神崎家に執事として仕えたことで、一度は断念したその欲望を再燃させた。その娘である和美に、だ。
 教師と教え子では禁断行為だったが、執事と令嬢では何の問題もない、というのが、こいつの主張なのだ。
 そして、俺はそれを承認した。
 あくまで当主に就任した暁、という条件付きではある。だが、源蔵は存命中であり、当主という肩書きはまだ尚、源蔵にある。それだというのに仁科勘治朗は、ここのところ頻繁に催促にくるのだった。
「俺はまだ当主というわけでもない。それに就任する際に、お前も俺を支援するという条件であったはずだが・・・・?」
「まぁ、そんな細かいことはさておき」
 その台詞をお前が言うか!
 俺は疲労で一気に両肩が重くなったように感じた。
「俺が当主でなければ、和美に強要する権利はないのだぞ!」
「そんな結果は後からついてきます。問題はないでしょう?」
 大有りだ。バカモノ!
 草薙家の支援を漕ぎ着けた老獪な手腕といい、今後における和馬との当主就任戦略においても貴重な駒ではあったが、いい加減に見切り時だったかも知れない。

 その仁科の退出直後、直人との接触である。

「さっさと切り捨てておくべきだったな」
 俺にとっても、仁科の存在が疎ましくなってきていたところであり、その意味でも、直人との接触は歓迎すべき事態であった。
「賞味期限が切れていたようですな」
「賞味期限か。確かに、な」
 郷田が数十年前、深刻なほどの社会現象にもなった用例を用いた。俺は苦笑しつつも、ちょうど今、扉一枚を挟んで、直人と相対している。
「真田直人か・・・・」
 椅子に座り、机で腕を組む。
 俺が幼年期に目指していた目標であり、それは今も変わらない。それだけに和馬の護衛にしておくには勿体無い逸材ではあろう。
 ここ最近における、俺の直営企業に大打撃を与えたのは、この直人が黒幕であろうと直感している。無論、何の確証も掴めなかったが、恐らく間違いはないだろう。
 直人が非凡なところは、そのいずれの損害にも深く関与していながら、一切、その痕跡を残していないところである。これでは俺も表立って非を鳴らすことはできない。
「惜しいな、あの才能・・・・俺のもとならば、もっと有意義に使いこなしたものを・・・・」
「それはどうでしょうか?」
 視線だけを忠実なる俺の護衛に向けた。
「それはどういう意味だ?」
 この郷田がまさか嫉妬しているのか、とも思ったが、この必要以上に寡黙な男が、そんな詰まらない感情を優先にするはずがない。少なくても、必要以上のことは口にしない男だ。
「俺には、直人を使いこなせない・・・・とでも?」
「そういうわけではありません」
 サングラスで視線は解からないが、まっすぐに俺を見据えている。
「一樹さまは動、あの直人も動の資質の持ち主です」
 つまり、そういうことか。
 俺が動、郷田が静。
 和馬が静、直人が動。
 互いに対極する二人が組んでいるからこそ、うまくいっている部分は確かにあるだろう。
「なるほどな。互いの長所で、利点を殺してしまう恐れは確かにあるな」
「はっ!」
「・・・・・」
 だが、ふと俺は疑問に思う。
 本当に和馬の資質は・・・・静なのだろうか!?
 と。



 翌日の早朝、仁科は出立で忙しい俺の前に現れた。今日も会議続きかと思うと、正直頭が痛いところだ。その上、仁科のような俗物を朝から相手をしなければならない、となれば、尚更でもあろう。
「それで? 俺は時間がない。手短に頼むぞ」
 こいつの言う用件など、問うまでもなかった。昨夜の直人との接触、そして残された時間の間に和美を抱かせろ、とでも言うつもりであろう。
「これは昨日も言ったが、俺が当主にならなければ、直人に対しても和美に対しても、行動を拘束する権利はない」
「それでは、わたしは・・・・」
「お前の好きにすればいいさ。直人に射殺されることを覚悟の上で、俺の当主執りに協力するか、それとも命惜しさに逃げ出すか。無論、後者の場合なら、お前との密約も無効だ」
 俺は既に仁科を切り捨てていた。どんなに手玉を替えて話題を振られても、取り付くしまさえ与えるつもりはなかった。そもそも俺と交渉している時点で、己の間違いに気付いて欲しいものだが・・・・
「まぁ、一週間という時間があるんだ。ゆっくりとお前の去就を考慮すればいいさ」
「そ、それではこんな話は如何です。昨日、弥生さまが神崎の家に来訪して、和馬さまの車に同乗されていきました、という情報は・・・・」
 それは初耳であり、有力な情報ではあった。
 俺は和馬の異能を知っている。実際に一年もかけて、弥生の心身を手に入れよう尽くしてきたものだが、まだ弥生は和馬だけを心に住ませている。
「ならば、和馬の新居まで一緒に行った可能性は高いな・・・・」
 少なくても、俺の離間の策は崩れた、と思うべきであろう。
「まぁ、一年・・・・良く持ったほうか」
 弥生の身体は今でも魅力的ではあったが、草薙家の支持は公文書になって俺の手元にある。この辺りの成果だけで満足しておくべきだろう。俺が当主に就任すれば、改めて和馬に弥生の身体を献上させればいいだけのことだ。
 俺は一億の小切手と、その後の職に困らないよう便宜を図ってやることで仁科は遂に引き下がった。一億という大金を手にすれば、老後まで生活に困ることはないだろうし、何よりも、直人に生命を狙われているのである。仁科としては、ここらで妥協するそれ以外になかった。

 俺が当主に就任すれば、まずは神崎家の完全掌握。鳳家の再興。和馬に弥生の身体を献上させ、草薙家を神崎グループに吸収。俺を支持する者で新生神崎グループを形成させることになるだろう。
 色々とやることが多いのだ。
 そのためにも全知全能をかけて取り掛かるとしよう。

 俺は仕度を整えて窓を見据えた。
 ・・・・和馬。俺は負けんぞ!!


《和馬》

 結局、一睡もできぬまま、俺は朝を迎えていた。思考はうまく働かないし、引越しの移動、弥生さんとのSEXとあって、疲労も感じている。だが、その弥生さんのことを思うと、自分の不甲斐なさ、愚かさが身に染みる。とても眠りになんかにつけなかった。
「直人は・・・・まだか」
 忠実な護衛もまだ帰ってきてはいなかった。
 家は地下でこそ繋がってはいるものの、外見は全くの別棟に見えることだろう。そのため連絡を円滑にする目的もあって、互いの家に滞在しているか、すぐに解かるシステムを採用している。
 現在、ランプは消えている。つまり、直人の不在を意味していた。
「・・・・」
 弥生さん。
 俺は新居に入居直後、MCNを開き、堕胎の禁止事項を解除した。あくまで彼女が望む限り、出産させることにしたのである。出産費用も、堕胎する金銭も俺が出す。だが、そんなことで彼女に贖罪できるとは思ってもいない。
 俺の犯した罪と負債は、それほどまでに深く重いのだ。
 二重の窓を開けて、昨日と打って変わって晴れ渡った空を見上げる。昨日降った雪も、もうほとんどが残されていないぐらい、快晴だ。
「・・・・少し、外の空気を吸ってくるか」


 俺の家の目前には、東京ドームがすっぽり入りそうな、広大な運動自然公園がある。公園を少し迂回して行けば、色々と様々な店が引き締め合っている大型ショッピングモールがあり、何千本と植えられた並木歩道。並木歩道をまっすぐ進めば、俺が進学する桜花中央学園がある。唯一、この並木歩道を走行できる巡回低速バスが俺を追い越していった。国宝級とされる文化建築物も、比較的近くにある。



 そして・・・・
 俺の家からかなり離れた場所に、古風だが広大なお屋敷がある。
「御嬢、お出掛けですか。今、供の者をお呼び致します」
「不要だ!」
 御嬢と呼ばれた女性は、凛と澄まして告げた。
「せめて護衛だけでも! シャバは危険ですぜ!」
「要らん!」



 俺の家の近くにある、コンビニでは・・・・
「うぉりゃー!」
「うがぁ。」
 食い物の恨み辛みの、壮絶な戦いが繰り広げられていた。



 今風の造りであるアパートでは、
「お姉ちゃん。もう起きてよ!」
「ううん・・・・もうちょっとだけ!」
 低血圧の姉を起こす妹の姿があった。
「もう、明日から学校だよ。本当にお姉ちゃんが先生になれるの?」


 並木歩道の一つ向こうの道に、一台の高級車が俺の横を追い越していった。普段の健全な状態の俺であったのなら、一瞥しただけで目を輝かせていたかもしれない。
「私は女優なのよ、何で今更、写真集なんて出さなきゃならないのよ!」
「でもね、ケートちゃん。このままだと完全に仕事干されちゃうのよ」



 ここが、俺の通う桜花中央学園か・・・・
 俺もこの学園創立の出資者ではあったのだが、初めて見る建物の、そのスケールの大きさに、出資者の俺でさえ空いた口が塞がらない。この時代においても少子化問題は改善されておらず、むしろ悪化しているのが現状である。当然、生徒数を確保できなきゃ、学校学園関連施設は経営苦に追い込まれる。そこで俺は直人の意見を容れて、普通科だけでなく、商業科や工業科、およそ専門学校的分野も併合させたのである。全校生徒三万人弱。当然、建物の規模もそれに比例した超マンモス学校である。
 その学園の女子寮では・・・・
「あれぇ〜〜琴、もう入寮済ませちゃっていたの?」
「鈴ちゃん、入学式、明日だよ」
「じぁ、搬入手伝って〜〜」
「もぉう。仕方ないなぁ〜〜」

 俺のように地元を離れ、親元を離れて通学する者は多々としている。
 その意味では俺も本来ならば、男子寮に入るのが常識なのだろうが、俺はこの学園に通学する目的の趣旨は、他の一般生徒とは大きく異なっている。また、一教師である直人との関係もあって、俺が入寮する選択肢は始めからなかった。


 再び、運動自然公園に戻って、俺の家に戻る。途中、俺の横にリムジンが停められていたのだが、俺は遂にその存在に気付くことはなかった。
「とても素敵な公園ですね」
「お嬢様、そろそろお時間です」
「はい」
 あれ?
 あの人・・・・泣いている。
 俺と彼女の視線が重なったのは、擦れ違った、極僅かなその瞬間だけであった。無論、俺は気付かなかったし、知らなかった。
 後の俺の妻となる・・・・この女性のことを。



 無駄に広く感じられた公園を抜けて、俺は自分の家となった場所に戻ってきた。
「あれ?」
 門扉を電自動で開け、独り者には広すぎる庭を抜けようとしたとき、若い女性の声が耳についた。
「ん?」
「お隣さん、今日、入ったんだね」
 小柄な身体だが二つ結びが印象的な、同世代の女の子であった。
「まるで要塞みたいな建物だから、どんな人が住むのかなぁ〜って思ったけど・・・・」
 要塞ね。
 まぁ、確かに・・・・と、俺は苦笑する。
 二重のガラスは外側こそ普通のガラスだが、内側のガラスは防弾ガラスであり、建物の材質も硬質素材をふんだんに使用されている。直人曰く、ここで弾薬と食料を確保しておけば、当分は篭城戦が可能らしい。一体に何から攻撃されることを想定しているのか、それは俺にも定かではないが・・・・。
「・・・・」
 紫色の瞳が俺を見る。
「もしかして・・・・泣いてた?」
「い、いや、ただの寝不足!」
 言い訳らしく聞こえなくもないが、寝不足なのは事実のことである。
「私は雛凪つむじ! よろしくね、お隣さん」
「つ、つむじ・・・・」
「そ、それ、発音違うから!!」
 俺は苦笑して、「神崎和馬だ、よろしく」と名乗った。


「和馬さま!」
 そこにサングラス、SP仕様だが、神崎家の制服を身に纏っていた直人が駆けつけてくる。
「直人、もう到着していたのか」
「見知らぬ土地を勝手に出歩かれては困ります」
 俺は園児かい!
 まぁ、昨日の今日で、何の書置きもせずに出掛けたのは確かに、俺の不注意だったかも知れない。そこまで心配されることには、不本意ではあったが・・・・。


 こうして、俺の新生活・・・・当主就任を目指した日々か始まりを告げる。
 自分のために・・・・
 弥生のために・・・・
 和美や直人のためにも・・・・
 俺は負けられない。

 都内とは明らかに異なる、新鮮な空気を胸一杯に吸う。
 一年後の俺は、どんな未来を弥生さんや直人と迎えているだろう?
 だが、俺は知らなかった。
 さしあたってもうすぐ、俺は運命の出逢いを遂げてしまうということを・・・・
 そう、「初恋」という、俺にとって運命の出逢いを・・・・


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