第1章
エンテは水の神殿に踏み入れ、半生に渡って幽閉されてきた地を進む。その場所で彩られる過去は、重く、どれも彼女にとって明るくする材料にはなりえなかった。
だが、これから織り成すはずの未来は、そのどんな過去の出来事よりも陰惨で、過酷な運命が待ち受ける空間になるとは、この時の彼女には思いにもよらなかった。
ガーゼル教団の幹部の一人であるネブカは、水の神殿に赴く水の巫女を視野に口元を綻ばせた。
無理もなかっただろう。教皇グエンカオスから、メーヴェ王女の拉致を厳命されてから、半年が無為に過ぎてしまった。如何にネブカが優秀な暗黒魔導師とはいえ、このままの失態では、ガーゼル教団の幹部に居座り続ける所か、命さえも危うかっただけに、その彼に下された指令の標的が、一人、のこのこと水の神殿に向かってきているこの状況は、まさに千載一遇の好機以外、なにものでもなかった。
ネブカは四十六歳。表情には血の気が少なく、鼻が尖った異様な容姿をもつ大柄な暗黒魔導師である。魔導師としての才能はともかく、性格は卑劣なうえに残忍、狡猾であり、その外見と合わさって、俄かに近寄り難い存在である。
「久しいな、メーヴェ王女よ……それとも、エンテ、と呼ばれる方が、お好みかな?」
こちらの存在に気付いた彼女の表情が、俄かに強張る。
既に伏せておいた暗黒騎士も姿を曝け出しており、既に彼女の退路は閉ざされている。後はその囲いを狭め、その身柄を捕獲するだけで事はすむであろう。
ラゼリア・ウェルト連合軍に身を寄せていた時には、こうも簡単に好機が訪れる事はなかっただろう。何しろ連合軍には、英雄や豪傑の揃い踏みであり、それはこれまでの戦果と戦歴が物語っている。
それだけにガーゼル教団としても、迂闊に手出しをする事さえできなかったのだが……
「ち、近寄らないで!」
エンテは俄かに後ずさりすると、忍ばせていたレイピアを手にする。
今までに手を血に染めた事がない彼女だけに、細剣を持つ手の震えは止まる事がなかったが、この細剣は教皇グエンカオスを突きつけるためのものであり、それを阻もうとする存在も例外ではない。
彼女は意を決し、それは突剣の鋭い刃が光り輝く。
「ククククッ……良かろう。直々に相手をしてやろう」
片手で側に従えた暗黒騎士を退かせ、ネブカの巨体が乗り出す。
暗黒魔導師ネブカを前にして、アイスブルーの瞳には尚も毅然とした光が保たれ・・・・・意を決したように、手にする突剣を突き出した。
「!」
エンテが突き出す突剣の速度は、ネブカが予想していたよりも速く、遥かに鋭かった。
「くっ……」
突剣はネブカの腕をかすめ、刃先の先端から鮮血の糸がつく。辛うじて致命傷こそ免れたものの、迂闊に隙を見せれば、雷光のような閃光が煌く事だろう。
「チィ、小癪な」
油断といえば油断である。
エンテもウェルト・ラゼリア連合軍に身を置き、激戦の戦火に身を晒して戦い抜いてきた一人である証明であろう。一流の剣士や騎士に比べれば、稚拙で非力である剣に変わりはないが、護身術としての技量は十二分に備えていた。
そう、護身術としては、だが……
第二撃、三撃と突き出されたが、想像していた以上に鋭い攻撃、と解ってしまえば、後は稚拙な技量なだけに、剣先の軌道が素直すぎた。回避はそう困難な事ではない。
所詮は戦いを不得手とするシスターである。その初撃の突き出しこそネブカを驚嘆させるものであったが、この一騎打ちの結末は、その初撃をかわされた時点で、既に決着していたのだ。
――だが、念には念をいれておくとしようか……
健気に攻撃を繰り出す彼女に、不敵な笑みがこぼれた。突如、左右の暗黒騎士が剣を抜き、彼女の動きを牽制する。その僅かな隙をついて、ネブカは印を結んだ。
「トュマハーン!」
激しい波動がエンテの身体を襲った。
「っ……」
更に追い討ちをかけるように、再度、暗黒魔法を彼女に放つ。
「あっ……」
容良い唇から小さな吐息が洩れ、エンテは手にする短剣を落とした。そして、清楚なスカイブルーの髪をなびかせ、その場に崩れ落ちた。
――暗黒魔法トュマハーン
ネブカが最も得意とする暗黒魔法の一種であり、相手の体力を奪うだけでなく、身体機能を低下させる効力を併せ持つ。
「フッ、所詮は女子よ……」
崩れるように倒れた水の巫女を一瞥して、負傷した左腕を抑えつつ、ネブカは冷笑した。
「だが……」
美しく整った顔立ち、清楚な水色のローブに身を包まれているものの、年相応に膨らみだした身体つき。ささやかな吐息が起伏する胸の鼓動に繋がり、背を見せる体勢からでも、その眠れる美姫は余りに魅力的だった。
特にネブカのような、異質な容姿を持つ男には……
「いっ、一騎打ちに勝ったのだ。だ、だから、その身体を自由にできるのも当然の事、だろう」
それは意識を喪失しているエンテへの言葉だったのか
命令に忠実な部下、暗黒騎士に同意を求めたものなのか……
教皇グエンカオスに向けた懇願だったのか
それともこれから及ぼうとする行為を、後押しする自分に向けたものであったのか……
当のネブカでさえも、定かではなかった。
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