【 第三話 】

 『わたしが親しい桐乃に略奪愛をするわけがない』

 

 ―十二月。

 お兄さんが一人暮らししていたアパートの部屋から、部屋を引き払ってきたお兄さんと向き合う。

 わたしは親友の桐乃から貰った、大切なヘアピンを身に付けてきた。

『一つしかない大切な宝物ですから、特別なときにだけ、着けるんですよ』



 それが今日だった。



「まったく・・・本当に仕方のない人ですね」

 わざとらしく、少し溜息。

「お兄さんは、とんでもない大嘘吐きです」

 その優しい嘘の一つ一つに、わたしは色々と助けられていた。

 お兄さんが嘘を吐いてまで泥を被ってくれていなければ、きっと今でも、大切な親友の桐乃とは和解できていなかったことだろう。

「スケベで、変態で、シスコンで、ロリコンで、その上ドMで」

 わたしは思わず涙する。

「会うたびにセクハラばかりして、わたしを怒らせて」

 声が震えて、次第に非難は小さくなっていく。

「いつだってお人好しで、お節介で・・・」

 袖で涙を拭いて、無言のお兄さんを見上げる。

「鈍くて理不尽で優しくて、いつもいつもわたしを惑わせて・・・そんなあなたのことが、好きです」



 それはわたしにとって初めて体験した告白であり、

 無論、それはわたしにとっての初恋でした。



 わたしは少しの間、お兄さんが一人暮らししていた部屋のドアに視線を向けた。

「本当に・・・色々ありましたね」

「おう」

 そんなお兄さんのごはんを作りに・・・お兄さんのお世話をするために、嫌々と言い訳をしながら、毎日を楽しみにして通い詰めたわたしだった。

「・・・懐かしいな。ちょっと前のことなのに」

 きっとお兄さんと付き合うことができたら、きっとあんな楽しい日々が続くのだろう。

「お兄さん、返事を・・・」

 わたしは覚悟を決めてお兄さんを見詰める。

 覚悟。そう、わたしは覚悟を決めていた。何故なら・・・

 お兄さんには少し前、『黒猫』さんという、わたしから見てもとても可愛い(少し言動に理解を苦しむ部分もあるけれど)彼女が居たのだ。そしてその二人が 別れなければならなかった理由も、わたしは知っていたのだから・・・

「ああー、あやせ・・・」

「はい」

「ごめんな・・・俺、好きなやつがいるんだ・・・」

 うん。

 分かっていた。

 でも・・・でもね。

「・・・ばか・・・っ」

 わたしはまた泣いてしまっていた。

「ばかぁっ!」

 お兄さんの頬を叩き、

「お兄さんのばかぁっ・・・ばかばかばかぁっ!!」

 幾度となくお兄さんの胸を叩く。

「どうしてわたしじゃないんですかぁ!」

 わたしがこんなに好きになったんですよぉ?

「結婚してくれ、って言ってくれたじゃないですかぁ! あんなに何度もセクハラしたくせにぃ・・・」

「あやせ、聞いてくれ、俺は・・・」

「エッチまでしてあげたのにふざけないでくださいよ!!」

「ちょ、ちょっと待て、エッチはしてねーだろぉ」

 と、お兄さんの反論。

 さ、最低です・・・

「し、しました・・・とぼけないでください!」

「してないしてないしてない、絶対にしてないって!」

「信じられない・・・したじゃないですか・・・わ、忘れてしまったんですか?」

 わたしは懸命に訴える。

「あ、あのとき・・・わ、わわわ、わたしの胸を、見たじゃないですか!」

「エッチってそれかよ・・・」

 お兄さんが深い溜息を吐く。

 わ、分かっています。わたしだって少し自意識過剰だな、って思わないでもないんですから。で、でもお兄さんに見られて・・・すごっく恥ずかしかったんで すよ・・・

「あれは事故だろぉ、赤ちゃんのオチャメな悪戯じゃないか」

「事故だったらエッチしてもいいとでも思っているんですか!? せ、責任取ってください!」

「まず『胸を見ちゃった事故』のことをエッチって表現すんのやめない? ご近所さんに聞かれたらどうすんのぉ!?」

「うるさいうるさいうるさい・・・」

 だったら、キープでも二番目でもいいから付き合ってよ・・・

「わたしと付き合ってくれないとブチ殺しますよぉ!!」

「あ、あやせ・・・」

 お兄さんは改めて、わたしを見据えてくる。

「・・・だめだ、お前とは付き合えない。もう、決めたことだから・・・」

「っ・・・」

 わたしは怒ったモードを維持しながら、お兄さんの予想出来ていた答えを受け取った。

「ですよね。そこでそう答えるのが、お兄さんですよね・・・大嘘吐きのお兄さん。ずるいです。最後だけは、本当のことを言うんですから」

「あやせ・・・」

「・・・初めてあったときから、あなたのことが気になっていました」

「・・・」

「以前は、ごまかしちゃいましたけどね。大好きな桐乃のお兄さんで、優しそうで・・・もしもこの人と結婚したら、桐乃が妹になるだなぁって・・・そんな恥 ずかしい妄想をして・・・」

 わたしの大好きな親友の、その桐乃のお兄さん。

 同時にそれはわたしの初恋の人。

「一人で盛り上がって・・・そのあと何度も幻滅させられて・・・そのたびに見直して・・・」

 本当に色んなことがありましたね。

「いつのまにか、こんなに好きになってました」

 わたしは懸命に強がって微笑む。

 これが失恋なのだ・・・

 これが初恋なのだから、わたしが初めて体験する・・・失恋。

「・・・・」

「・・・・」

 暫くの二人で互いを見つめ合う。

「ねぇ、お兄さん・・・」

「ああ・・・なんだ?」

「わたしの心を乱した責任、取ってくださいますか?」

「・・・・?」

「もう・・・察しが悪いですね。わたしたちのお別れは、いつだってそうだったじゃないですか・・・」

「あ、ああ・・・」

 どうやらお兄さんも思い当たったようだ。



『この変態ぃ!! 死ねぇぇぇぇ――っ』

 本当にお兄さん、超ドMなんですから・・・

 わたしが何度、お兄さんを蹴ったことか。



「はは、そういうことか・・・」

「はい、そういうことです」

 お兄さんは苦笑しつつ、わたしに向かって姿勢を整えてくれる。

 いよいよ覚悟を決めてくれたようだ。

「さぁ、来い!!」

「じゃぁ、行きますよ・・・」

 いつもの恒例的なキックとは異なり、わたしはトントンと足踏みをするとゆっくりと助走をしていく。これから放つ一撃は、これまでの一撃とは異なり、渾身 のものでなくては、わたしの気が済まないのだからっ。

 姿勢を正して、その衝撃に備えて目を瞑るお兄さん。



 そんなお兄さんの頬に・・・わたしは・・・

 ちゅ。



「さよなら、お兄さん」

 わたしの唇が触れた頬を押さえて、唖然としているお兄さん。

「あなたのことなんか、大嫌いです」







 ・・・・。

 これがこのまま恙なく終わっていれば、それはわたしの初恋として、一つの思い出として片付けられていたことだろう。

 でも、そうはならなかったのは・・・

 失恋。

 それはすぐに来て、すぐに終わるものではなかったのです。想いが深ければ深いほど、強ければ強いほどに・・・特に妄想癖のあったわたしのことですから、 失恋のショックを永く引き摺ることに陥ってしまったのでした。



 それから大好きな桐乃が、大好きだったお兄さんとの交際が始まり、わたしの妄想癖には、一つの方向性に向かっていくのは仕方のないことであり、当然の流 れでもありました。

 それは現彼女である桐乃に黙って、お兄さんと結ばれること。

 浮気とも言い、不倫とも言う。以前のわたしなら、そんな汚らわしい言葉など断固拒絶する対象でしかなかったでしょう。でも、その当事者となってみれば、 そんな行為に走っていく人たちの心情が理解できてしまうのですから、不思議です。

『お兄さん・・・桐乃にバラしたら、ブチ殺しますよ?』

『い、言えるわけないだろう・・・』

 ふふっ。大丈夫です。

 わたしとお兄さんの関係は、二人だけの秘密なのですから。

 だから、今日も桐乃に内緒で・・・お兄さんと朝まで・・・





 と、仕事(ティーンズ誌のモデル)の休憩中に、そんなお兄さんとの甘い妄想に耽っていたわたしに、携帯の着信音が現実に呼び戻す。

 もぉう、折角、(妄想の中の)お兄さんといい感じに抱き合っていたのにぃ。

 だが、携帯の相手を見て、愕然とするわたし。

 き、桐乃・・・!?

『あ、あやせ。ごめんねぇ〜急に電話しちゃって・・・』

「う、ううん・・・」

『今、何かしてたん?』

「ううん、べ、別に桐乃に黙って、お兄さんと隠れて付き合おうとか、二人だけで一緒に駆け落ちしようとか、なんて・・・全然、すっごく考えてなかったか ら・・・」

『あ、あんたねぇ・・・思考がダダ洩れしてんっですけどっ・・・あ、あんたそんなことを考えていたのっ!?』

「い、嫌だな〜桐乃ぉ。わ、わわわ、わたしがそんな破廉恥なこと、想像しているはず、ないじゃない・・・い、いくら桐乃でも、ブチ殺しますよ?」

『・・・・』

 き、桐乃・・・黙られると怖いよぉ・・・

『まぁ、いっか・・・もう別れたし・・・』

「えっ!?」

 別れたって、何が・・・誰と?



 そこでわたしは、桐乃とお兄さんの間で交わされた、二人だけの『約束』、期間限定だった恋人同士だったのだと説明をされたのです。



「桐乃、そ、それは・・・本当のこと!?」

「うん。さっき別れた・・・」

「う、嘘とか・・・冗談だったら、その・・・いくら桐乃でも・・・本当にブチ殺しますよぉ!?」

「だから、あやせや黒いのには、せめて報告しておかなければ、と思ってね。今電話したわけ・・・」

 つ、つまり・・・今、お兄さんはフリー!?

 ほ、本当に・・・

「だから、兄貴は今、フリーなわけだし、兄貴があんたや黒いのと付き合うことになったとしても、もう反対はしないから・・・ううん、むしろ応援してあげる から・・・」



 それから二、三の世間話を桐乃と交わしたが、もはやわたしの頭の中には、そのお兄さんの会話だけしか頭の中には残っていなかった。

 し、仕方がないじゃないですかぁ・・・

 ここ最近、ずっと・・・ずっーとお兄さんとのことしか頭になかったんですから・・・そのお兄さんが桐乃と別れて普通の兄妹に戻り、今や晴れて独り身に なったと聞かされては、わたしがそれに固執してしまうことは当然のことなんです。

 わたしは慌ててスケジュール帳を開き、春休み間の予定を見直した。

「あっ・・・」

 失恋したショックを薄めるために、ギッシリとモデルの仕事で埋められていた日々であり、オフにした日は明後日の一日しかない。

 わたしは慌ててお兄さんに電話する。

『おう。あやせか?』

「お、お久しぶりですね、お兄さん・・・」

 務めて平静な口調を試みた。

 久しく聞けたお兄さんの声。告白して、失恋したあの日のあれ以来。(妄想と夢の中でなら毎日聞いていたけど)やはり現実のお兄さんの声に、わたしも緊張 を禁じえないです。

『急に、どうしたんだ?』

「あ、いえ・・・お兄さん、明後日・・・時間ありますか?」

『あ、明後日・・・あ、すまん。オフ会で埋まっている』

「オフ会? ああ、桐乃とか黒猫さんとかのサークルですよね?」

『おう』

 かつてのわたしほどに、オタクの集い・・・とりわけ、お兄さんや桐乃が集う『オタクっ娘あつまれー』に嫌悪感はない。お兄さんが言うように、恥ずかしい 趣味などであっても、また汚らわしいと思われることはあっても、決してそれを蔑んではいけない。

 相手の好きなことを否定するということは、それはまた自分の好きなことを否定することなのだと。

 そのお兄さんの言葉を、今のわたしは痛いほどに同感できる。

「なら・・・仕方ありませんね」

 わたしはこのタイミングの悪さを呪った。

「ブチ殺しますよ?」

『ええっ!? お、俺、こんなことで殺されんのぉ?』

「冗談ですよ・・・」

 そんなに本気にしなくても・・・

 少し失礼じゃありませんか? お兄さん。

「では、他を当たってみます・・・」

『すまんな、あやせ。この埋め合わせは必ず・・・』

「ほ、本当ですね・・・期待しないで期待しておきますよ、お兄さん」



 わたしは通話を終えて、携帯に記録してある電話帳を開き、思いついた相手を探し当てると、その人物に初めてのコールを促す。

『おやおや、これは珍しい・・・あやせ殿ではありませぬかぁ〜』

「お久しぶりですね、沙織さん」

 お兄さんや桐乃、黒猫さんたちが所属する『オタクっ娘あつまれー』の管理人であり、わたしはお兄さんの『一人暮らしおめでとうパーティ』を介して邂逅で きた人物でもある。ちなみにこの沙織さんは物凄い美貌の持ち主であり、わたしはトップモデルの人だと勘違いしたほど。

 わたしがオタクへの嫌悪感を緩和するのに一役を担ってくれた人物でもあるだろう。

 現にこうして、わたしは・・・

「あの、桐乃や黒猫さんたちが集うサークルに・・・わたしも入れてくださいませんか?」



 と、告げていたのですから・・・


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