【 第十四話 】
『わたしが愛しきお兄さんと離れるわけがない』
「わ、わたしが・・・ですか?」
それは唐突に訪れたお話でありました。
場所は私がモデルで所属する事務所であり、相手は化粧品メーカー『エターナルブルー』の女社長、藤真美咲さん。桐乃が以前に所属していたところの社長で
もある。かつてはトップモデルとして活躍し、現在は後任となるモデルを発掘して、後援してもいる・・・わたしたち一モデルにしてみれば、まさに神のような
存在だった人物でもあったでしょう。わたしの親友である桐乃もまた、藤真さんの目に留まって、欧州本社にスカウトされたのは、まだ最近のことでした。
「どうかしら? あなたも十分にやっていける、と・・・いえ、きっとあなたなら世界一のトップモデルになることも夢ではない、と思うのだけど?」
「そ、そんな・・・わたしなんかが・・・」
「あら、随分と御謙遜ね」
藤真さんは微笑を湛えたまま紅茶に口を付けた。
「特に・・・最近のあなたには目を見張らせるような輝きを放ち、それは撮影監督やカメラマンなども口を揃えて断言しているわよ?」
「そ、それは・・・」
その原因はきっと・・・お兄さんと付き合えることになったこと。そしてそのお兄さんに初めてを捧げることができ、その腕に抱かれることが叶ったからに他
ならない。
「それで・・・どうかしら? 話だけでも聞いてみないかしら?」
「えっと・・・」
「世界一のトップモデルになれるチャンスであり・・・そうね、あなたとも交友がある高坂さんに追いつき、追い越すチャンスでもあるわよ?」
それはとても非常に光栄なお話だと思いました。
母の紹介で始めたこのお仕事でしたが、いつかは世界にお呼びがかかるようなことも夢見た時期がわたしにも確かにありました。また、桐乃が今生きている世
界を見る絶好の機会でもある。
「・・・申し訳ありません」
ですが、わたしは深々と一礼してこの話を断りました。
「・・・・」
そんなわたしの返答に藤真さんは驚いた表情を浮かべて唖然とする。
それも無理はありませんね。以前までのわたしであったのなら、きっと迷うことなんてなく、きっと喜んで大好きな桐乃のもとへ。彼女が生きている世界に飛
び込んでいったはずなのですから。
ですが、今のわたしにはそんな選択肢はありません。この日本を離れるわけには行かなかったのですから。
「気が変わったら・・・」ということで、藤真さんの名刺を頂いて、その場を辞去したわたしでしたが、きっとわたしの気が変わることはないでしょう。
ようやく付き合って貰えるようになったお兄さんでしたが、そのお兄さんには『黒猫』さんという、もう一人の可愛らしい彼女がおり、例え今、僅かな期間で
も渡欧しようものなら、もう二人に付け入る隙さえもなくなってしまう。そんな気がしてならないのです。
「・・・・」
つい先日も、お兄さんとのデートの最中にそんな雰囲気になってしまって、お兄さんは深刻そうな顔をして、わたしに言いそうだったのです・・・「もう、わ
たしとは付き合えない」と・・・そんな空気を微妙に察したわたしは懸命にその場を逃げ出しましたが・・・
今、お兄さんに別れを告げられたら・・・
わたしは・・・
わたしは・・・
『あやせぇ〜?』
「加奈子・・・こんな時間にどうしたの?」
同じ高校に通う加奈子は、同じ事務所にも所属する。桐乃が渡欧した今、現在ではもっとも親しい女友達だったでしょう。
『こんな時間って、まだ十時前じゃ〜ん』
「・・・・」
『あやせって、高校生にもなってまじめ過ぎぃじゃねぇ〜?』
わたしは無言なままに頷く。
少なくても、加奈子よりはまじめであるつもりだった。
『ところでさぁ〜〜今、あやせって京介と付き合ってんだよねぇ〜?』
「う、うん・・・」
やはりこの前の、事務所の食堂での一件を追及してきた、のだと思ったし、加奈子には少し申し訳なく思ったのも事実だった。
加奈子が正月ライブで告白したことを、わたしはお兄さんから聞かされていたが、それはきっと桐乃も知らなかったのだろう。でなければ、桐乃がお兄さんと
別れた、という報告をわたしと黒猫さんだけにするはずがなかっただろうから・・・
『それでさぁ〜この前、京介がもう一人・・・ん〜何とか猫?』
「黒猫さん?」
そういえばわたし、まだ黒猫さんの本名さえ知って(憶えて)いない事実に改めて気が付いた。
『そう、それ。その黒猫ってのとも付き合っている、って聞いてさぁ〜それ、本当にあやせも知っているのかなぁ〜〜って?』
加奈子の話では、つい先日のこと。お兄さんと黒猫さんは加奈子のお姉さんを訪ねたらしかった。その際に腕を組んでいるところをわたしのときと同様、加奈
子の目に留まったらしいのだ。
本当に面倒くさいことを・・・何て加奈子に説明すればいいのよ?
「う、うん・・・知ってるよ・・・」
『うひゃ〜。本当だったかぁ〜〜ちょ〜驚きwww』
加奈子が驚くのも無理はない。わたしが正式なお兄さんの彼女であったのなら、二股なんて絶対に容認できる性格でないことは、加奈子も良く知っていること
だった。
だが、あの時点では仕方がなかったのだ。わたしに残された選択肢は二つ。黒猫さんと一緒に彼女にしてもらうか、それとも・・・わたしだけがお兄さんを諦
めるか、の・・・
『じゃーさぁ〜加奈子もさぁ〜京介と付き合っていいじゃ〜ん?』
なんて言い出す始末である。
何でもわたしを説得できたら、お兄さんも考える、って話の流れだったらしいですが・・・いい度胸ですね、加奈子?
「加奈子の希望地は何処?」
『ん、ん、何が〜?』
「勿論、加奈子の遺体を埋める場所に決まっているでしょう」
途端に『ブツッ』と途切れる通話。
・・・冗談なのに。人を何だと思っているんでしょうか?
ふん。でもただでさえ今、やや厳しい雰囲気なんですから、これ以上、ややっこしくして貰いたくなかった、というのも本音でした。
「でも・・・」
ここは加奈子にも参戦してもらって、この不利な状況を打開する、その選択肢の一つにはなるのかもしれませんが・・・
それから数日後のこと。
朝霧がたちこめる中、わたしはあの公園のベンチに腰を下ろしました。月が変わったころとあって、今日は特に暑くなるらしい。
・・・あのときのように、真っ白な世界。
今年は大雪となったバレンタインデー。あれからまだ三カ月としか経過しておらず、あのときもずっとこうして、お兄さんを待ち続けたものだった。そしてひ
とたび諦めかけたお兄さんとの交際が始まってからも、まだ一カ月としか経っておらず、今日もお兄さんを待ち続けているわたしがいた。
お兄さんとの約束の時間まで、まだ三時間とある。
・・・お願い、と祈るように目を閉じた。
今日は・・・わたしが桐乃のように、スカウトされた話をしてみよう。もしかしたら今の雰囲気が好転するかもしれないし、渡欧行きを止めてくれるかもしれ
ない。
「・・・そしたら・・・いいな・・・」
・・・分かっているのです。
もうお兄さんの心が黒猫さんに傾いてしまっているのが・・・納得いきませんよ。とても悔しいですよ・・・でも、今のわたしにはどうしたらいいのか。
「こんなときに桐乃がいてくれたらなぁ・・・」
そんなわたしの心境なんかを余所に、周囲を覆っていた朝霧は晴れ、じっくりと気温が上がっていきました。今日はゴールデンウィークの初日であり、世間で
は大型連休に向けて家族連れの旅行者やカップルで賑わっています。
「ようっ、待たせたか?」
「いえ、今、来たところですよ。お兄さん。おはようございます」
「あ、黒猫からメールきたか?」
「はい。何でも仕事が急遽入った、とかで・・・」
黒猫さんは新たに始めたお仕事が忙しくらしく、ゴールデンウィークの初日だというものに、今日の合同デートにも参加できない、とのメールがわたしとお兄
さんに届きました。
「それでお兄さん。新しいゲーム機を買ったんですが・・・」
「おう。遂に、だな・・・」
今度同じソフトのオンラインで一緒に遊んでみるか、と誘ってくれました。
「でもまだ接続ができなくて・・・」
「意外と簡単だぞ・・・俺が接続してやろうか?」
「お願いできます?」
「おしっ、任せろ・・・」
お兄さんの快諾を得て、わたしは公園から近くの我が家に、わたしの部屋にお兄さんを招き入れました。幸い、両親は仕事の付き合い、ということで連休中は
帰ってきません。
「おじゃましまーす〜」
「あ、今日は両親、旅行で居ませんから。お兄さん、そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ・・・」
そんなことをお兄さんに知られたら・・・エッチされてしまうのかもしれませんが・・・どこかでそうなることを期待している自分は確かに存在していたので
しょう。
「コーヒーを淹れてきますので、わたしの部屋で待っててください」
「お、おう・・・」
以前のわたしなら、お兄さんを部屋に入れて不在になることなんて、素直にできなかったわたしでしたが、そこは、まぁ・・・もうお兄さんはわたしの彼氏な
んですし・・・
「お待たせしました・・・」
「おう。サンキューな・・・ああ、もう接続は終わったぞ」
「本当ですか。ありがとうございます」
素直に感謝の言葉を述べながら、室内が全く物色されてないことに僅かな失望感が伴いました。べ、別にお兄さんに下着を漁られたかったわけじゃありません
し、盗まれたかったわけでもありませんよ。ただ・・・その、全く興味を示してくれないのは、わたしのプライドというか・・・
「・・・・」
と、お兄さんが机の上の写真に気が付いて・・・
「あっ・・・」
「お、俺・・・こんな写真、撮られてたっけ?」
それはオールバックにサングラスを着用しよう、としているスーツ姿のお兄さんで、正直、わたしのお気に入りの一枚だったりもします。
「・・・撮影のとき、カメラマンの人にお願いして・・・」
「そっか。あんときか・・・なんかどさくさに紛れて、何度か、俺も撮られたような気もしてたんだわ・・・」
そう言ってお兄さんはコーヒーを啜って苦笑する。
「ところでお兄さん。また加奈子に口説かれませんでしたか?」
「うぐっ、な、何故、その話題をお前が知っている?」
わたしは黙ったまま、じー、っと、お兄さんを見詰め(睨み)ます。
以前から思っていたことですが、お兄さんと加奈子の相性は抜群・・・凄く息が合っている、というか。
「・・・えっ、と・・・そういえば、か、加奈子のお姉さんって、どういう人なんだ?」
あ、誤魔化しましたねっ!?
でも、わたしも加奈子のお姉さんがどういう人なのか、良く分からない。加奈子自身が余り家庭の事情を話したがらない、ということもあるが、特にお姉さん
の話題に関しては、ほぼ皆無だったのです。
・・・二年前まで、わたしがオタク嫌いの超潔癖症だった、ということもあったのでしょうが。
「そうか、あやせも知らないのか・・・」
「はい。でも・・・どうして、お兄さんと黒猫さんは、確か彼方さんでしたよね。加奈子のお姉さんに会いに行ったんですか?」
「ああ、彼方さんは沙織の・・・あ、あやせも沙織は分かるか。その沙織の師匠らしいんだ。ずっと前に解散した『小さな庭園』のメンバーで、そのころからの
付き合いらしい・・・」
「そうなんですか・・・」
意外な繋がりだと思った。
「で、その沙織経由で、彼方さんが、黒猫に用があるってことでな・・・」
「それで加奈子のマンションに行ったんですね」
「おう」
お兄さんは事実だけを述べていたんでしょうが・・・分かっているんでしょうか、この人は。きっと分かっていないんでしょうね。『超』が付くほど鈍感な男
なんですから仕方のないことなのかもしれませんが・・・
わたしがもう一人の彼女の名前を聞いて、少しずつ不機嫌になっていたことを。
「それからなんだよなぁ・・・黒猫のやつがやたらと忙しくなって・・・」
「・・・」
黒猫。黒猫、って・・・
「あ、あやせ・・・!?」
わたしが不機嫌になったことを察したらしいお兄さんが、心配した顔で覗き込んでくる。
「なんでもありませんよっ・・・ふん」
私は慌てて顔を逸らしました。
「明らかに機嫌が悪くなってるじゃねーかっ!」
「そんなことありませんっ!」
「・・・俺、また不快なこと言っちまったのか・・・せめて理由を言ってくれよ。今度は気を付けるからさ・・・」
言えるわけないじゃないですか。
その、もう一人の彼女である黒猫さんに嫉妬しています、って。
お兄さんのバカ!!
「わたしも、お兄さんに相談したいことがあります・・・」
空になったカップにコーヒーを注ぎ、お兄さんに差し出す。
「お、おう・・・言ってみな」
カップを受け取り、笑顔で快諾するお兄さん。
・・・何でこのお兄さんの表情に、こんなに惹かれるんだろうか。
「実は、藤真美咲さんという人に会いまして・・・」
「・・・ど、何処かで聞いたような、名前だな。それ・・・」
「それは、たぶん、桐乃の・・・」
「あ〜あんときの女社長さんかっ!」
「そうです。このラブラブツーショットのプリクラの件でのときの、あの人ですよ」
「ははっ・・・お、お前、まだそれ持ってたのね・・・」
何を言っているんでしょうか、この人は・・・大好きな桐乃と大好きなお兄さんのプリクラをわたしが処分できるわけないじゃないですか。
「その藤真さんから、本格的にモデルを・・・桐乃のように、欧州本社でやってみないか、って・・・誘いを頂いたんです」
「それって・・・すげー、ことじゃねぇか・・・」
そう。確かに一モデルでしかないわたしには、この話はとてつもなく光栄な誘いではあったのだろう。今でも断ったことに後悔こそないが、この話を聞いてい
た事務所の全員が翻意するべきだと口を揃えていたものだった。
「いや、でも、あやせなら・・・」
「・・・・」
「桐乃でも来た話なら、あやせでも当然のお誘いなのかもな・・・」
それはお兄さんなりの褒め言葉であったのだろう。
でも、お兄さんから欲しかった言葉ではなかった。
「と、止めて・・・くれないんですね・・・」
やっぱり、ショックだった。
瞳に涙が溢れた。
「お兄さん・・・と、止めてくれないんですかぁ?」
「あやせ・・・?」
「桐乃のときは・・・止めたらしいじゃないですか・・・」
それでも桐乃はお兄さんと決別し、渡欧したわけであったが、一度はお兄さんと交際することで留意したのだ。
「わたしの場合は・・・止めてくれないんですね・・・」
わたし、だからですか?
それとも・・・お兄さんには黒猫さんがいるから、ですか?
そ、そうなんでしょうっ!?
そうですよね・・・
「あ、あやせ、俺はっ・・・」
「お兄さんのバカ・・・お兄さんのバカ・・・」
どうして、わたしじゃダメなんですかぁ?
どうして、またわたしなんですかっ!!
「わたしは・・・欧州になんか行きたくありません・・・もう、モデルなんかも辞めます」
「あやせ!!」
「お兄さんのほうがわたしには大事なんです・・・お兄さんがいない世界なんて、わたし生きている意味ないじゃないですかぁ!?」
最悪だ・・・わたし。
泣きながら、号泣しながら、懸命にお兄さんにしがみついているわたし。
・・・だから、計算して告げたわけじゃなかった。
確認したわけでもない。ただ遅れている、という可能性もある。
「お腹の中に、お兄さんの子供だって居るのにぃぃぃ・・・」
気が付いたときには、室内はもう真っ暗でした。
号泣して疲れ果て、眠ってしまっていたようです。
テーブルの上には、『ごめん、今日は帰るよ』とお兄さんの書置きがあり、自分が先ほど何を口走ってしまっていたのか、走馬灯のように甦りました。
あんなふうに責め立てるために、お兄さんの彼女になりたかったわけじゃありません。こんなふうに責めるために、お兄さんに抱かれた・・・身籠ろうとした
わけではなかったはず・・・それなのに。
いえ・・・責任を取ってもらって、お兄さんと結婚してもらいたい、と願ってたわけなんですから、とんでもない酷い言い訳ですね。
カラカラっと、窓を開けたとき乾いた音が耳につく。
ベランダに出ると夜とはいえ、温かい空気が頬に触れる。
お兄さん・・・
ごめんなさい・・・
何が起きたのか、自分でも分からなかった。
僅かな間の浮遊を感じた後に残ったのは・・・
ドンっという、衝撃。
・・・ただ、それだけで・・・
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