【 第十五話 】

 『俺が可憐な黒猫を泣かせるはずがない』

 

 ・・・ショックだった。

 正直、あやせが妊娠していたことも、そしてそれを打ち明けた後、彼女がベランダから身投げしたことも・・・

 幸い、新垣家の庭が芝生であったこと、そしてそのあやせを早急に病院へ搬送できたことだろう。医師の話では発見が早かったことが幸いして、命に別状はな いとのことだった。

 だが・・・そこまで彼女を追いつめさせてしまった責任は、俺にある。

 あのとき、彼女はベランダで、「お兄さん」「ごめんなさい」と呟いていたのだ。何故、あやせが妊娠したことを告げたとき、俺はすぐにその責任を取ると言 えなかったのだろうか・・・いや、それ以前に別の少女を、黒猫の存在を考えてしまったのか。いや、せめて・・・あやせが欧州の本社行きの勧誘を教えて貰っ たときに、素直に止めなかったのか・・・



 確かに俺は妹の・・・桐乃の渡欧を一度は止めていた。偽装デートや兄妹を承知での交際となってまで。だが、あやせの渡欧の話を聞いたとき、桐乃のとき以 上に、俺はあやせを引き止めたかった衝動に駆られていた。

 欧州行きは、桐乃が渡欧を再決断したように・・・俺でも、それがどんなに良い話であるか分かっている。俺のような凡人には想像もつかないが、きっと極一 部の人種にしか掴めない、栄光への階段なのであろう。でも、俺は『妹』だから、まだ止められたのだ。

 あやせは俺の彼女になってくれた。しかも二股の公認、であっても。

 そんな彼女にも栄光の道が標されたのに、俺の・・・俺のような我儘で引き止めてしまっていいのか、と二の足を踏んでしまったのだ。

 その結果が・・・



 俺はまだ・・・何処かで・・・黒猫とあやせ。この三人でずっと一緒に居たいと思っていた。少なくても今の大学を卒業する、その日まで。そんな都合のいい ことを考えてしまっていた。

 だが、あやせを妊娠させてしまっていたこと。

 そして、何よりも・・・こんな情けない俺には考えられない美少女が二人も彼女になっている、この異常な状態がそんなに長く続いていいわけがなかったの だ。

 彼女の意識が戻ったこと。それから、数分の間だけでという条件での面会が許された。本来ならその時間はあやせの両親に与えられる時間であっただろうが、 現在はこちらに戻ってくる最中で、到着はどんなに早くても明日の朝ということだった。

「お、お兄さん・・・ご、ごめんなさい」

「何故、あやせが謝る必要があるんだよ・・・」

 俺はあやせのベッドの横にある椅子に座り、頭部に包帯が巻かれたあやせを見詰めた。俺は右手を開き、壊れたヘアピンを見る。

 俺はあやせの言うとおり、相当なバカだったのだろう。

 これは彼女が桐乃から強請って貰ったもので、あやせにとっては宝物なのだという。「大切なときにしか身に付けないんです」と言い、俺の前では必ず、彼女 の髪に留められていたのだ。これまでの行動から、どれだけ俺はあやせの想いを見逃して、誤解し易い彼女と知りつつも、軽率な行動を起こしていたのか。

「遠くに行くな・・・ずっと俺の傍に居てくれ・・・」

「・・・・」

 その言葉だけであやせの瞳には涙が浮かべられていた。



 あやせは再び眠りにつき、面会時間は終了を告げた。静穏の中の病室を出る際のこのとき、もう一人の少女の面影を思い出した。

 あやせに責任を取るためにも、俺は黒猫には会わなければならない。





 その機会は意外と早くに訪れた。

 あやせが退院した(勿論、要安静だが)その日。俺は黒猫に招待されて、彼女の家に赴いていた。時刻も昼ごろだったこともあり、昼ご飯を振る舞ってくれる のだという。

「ふふっ・・・どうしたの?」

 無論、黒猫はあやせが入院したことも、そして彼女が妊娠していることも知らない。

「い、いや・・・」

「誰も居ないから、って緊張してなくても・・・いいのよ?」

「ふん。逆だろ・・・それ・・・」

 だが、俺は中々、別れを切り出させずにいた。

 また・・・これを泣かせるのか、と思うと・・・さすがに心が痛んだ、ってこともあるが、それ以上に俺は『ヘタレ』なんだからだとさすがに思うわ。

 今、黒猫は昼御飯の支度でキッチンと居間を何度も往路している。

 いい匂いが居間にも届けられてくる。

「もう少し、待っていてね・・・」

「ああ・・・」

 こいつが作るものである。きっと素晴らしく美味いものだと容易に想像がつく。



 そして、黒猫は・・・正座して俺の前に座った。

「できたわ・・・」

「?」

 だが、テーブルの上には、お箸と台布巾しかなくて・・・

「あなたの赤ちゃん・・・」

 黒猫が全く膨らみのない腹部を押さえていた。

「く、黒猫?」

「・・・できちゃった、みたい・・・」

 ただでさえあやせを妊娠させて、黒猫に別れを告げなければならない、と思っていた俺である。この展開には唖然を通り越して愕然とし、思考は完全に混乱を きたしていた。



 ・・・お、俺の人生・・・

 ・・・詰んでね?







 結局、黒猫にも別れを告げられないまま、また、妊娠させてしまっているのに何も男らしいことを言えないまま、俺は自宅に戻ってきてしまっていた。

 黒猫は言った。

 例え妊娠しても、これで俺の人生を縛るつもりはない、と。

 出産費用の目処もつき、結婚はあやせに譲るものの、これまで通り・・・黒猫は俺の『愛人』として、この関係を継続させることを望んでくれた。

「・・・・」

 確かにあやせも、黒猫も妊娠させてしまった手前、黒猫のその提案は俺にとって渡りに船というものであろう。

 だが、こんなの・・・おかしいだろう。

 なんであやせと同様、黒猫も妊娠させてしまったのに、俺はあやせ一人にしか責任を負うことができないんだよっ!? なんで黒猫だけが『愛人』として日陰 に置かされなきゃならないんだ。どう考えてもおかしいだろ、それはっ。

 だが、だからといってあやせへの責任を疎かにすることもできない。

 俺は・・・





『すまない、こんなことを相談できる義理ではないのだが・・・』

『いえいえ。構わんでござるよ・・・』

 俺が選んだ相談相手は、俺の今の状況を良く知ってくれている人物であり、客観的な論理にも優れ、口も堅いと信じられる人物。槇島沙織こと『沙織・バジー ナ』であった。

 『オタクっ娘あつまれー』のサークルでも限られたメンバー・・・管理人の沙織、桐乃、黒猫、俺に・・・そして新たにあやせを加えた面子だけの専用チャッ トルームを開き、沙織がいることを確認して現在に至っている。

『それで京介氏。それがしに相談したいこととは何でござろうか?』



 俺はなるべく綿密に現在の事態を沙織に説明した。勿論、あやせと黒猫が妊娠してしまった事実を告げる上で、俺と性行為があったことは隠せることではな い。



『なるほど・・・僅か一カ月の間に、凄まじいことになっているでござるな』

 それがこの一連の出来事における沙織の感想だったが、余りにも淡々としている様子だった。男として・・・もっと俺は非難されるべき、だと思っていたのだ が・・・

『軽蔑してくれて構わないぜ・・・』

『いえいえ。この一件で京介氏だけを責めるのは、筋違いというものでござろう』

『そうか?』

 俺が沙織の立場だったのなら、きっと罵倒の嵐だっただろうが・・・

『まぁ、拙者から言えることは、相変わらず・・・女垂らし、女殺しぐらいですな〜』

『反論の余地もねぇ・・・』

『とりあえず相談をされた手前、拙者の方でも色々と調べてみるでござるよ』

『すまねぇ・・・』



 俺は沙織とのチャットを終えると、自分でも『重婚』について調べてみることにしたが・・・『重婚罪』の法定刑は二年以下の懲役なんたら・・・『結婚詐欺 罪』なんたら・・・とあり、気が滅入るしかない。

 警官の息子が犯罪者となったら、まじ洒落にならんわっ!





 その沙織・バジーナからの連絡がきたのは、その翌日のこと。

 俺が呼びだされたのは秋葉原にあるレンタルルームの一室であり、ここには以前、『桐乃の携帯小説記念パーティ』と称して、気落ちしていた俺を励ますため に、そして桐乃が謝罪する場所として活用されたところである。

「ひでぇ目にもあったけどな・・・」

 沙織に踏まれたり、桐乃には椅子で叩かれたり・・・と。だが、あの時代が今では懐かしく思えてしまう。まだ一、二年前の出来事だというにも関わらずに な・・・

 ちなみに部屋名の看板には、『沙織・バジーナの人生相談』とあって苦笑を誘うものであったが、これも以前の・・・『高坂京介専属ハーレムご一行さまパー ティ』よりは遥かにマシであっただろう。



 俺のノックに併せて開けられた中には、例のぐるぐる眼鏡に黄色いバンダナを巻き、チェックのワイシャツにジーンズという・・・いつものオタクスタイルの 沙織・バジーナが出迎えくれた。

 さすがに今回は、あのメイド(全く萌えない)服ではなかったが・・・



「さて、まず京介氏の話を聞いて、拙者も色々と調べてみたでござるが・・・」

 テーブルの上に沙織が調べてくれたであろう書類が並べられており、順を追って説明を受けていく。

「まずはこれまでに重婚が認められている、これはほんの一例ですが・・・」

「えっ、認められているのか?」

「そうですな、これは特に特殊な事情がございますぞ・・・」

 沙織が一例として挙げたのは、とある男性の重婚歴であった。

「その男性が最初に結婚した女性が失踪して失踪宣告を受け、男性が後妻と再婚した後に失踪宣告を取り消した、その場合でござる・・・」

「・・・」

「ただし、これを故意に行うと、当然・・・全員に重婚罪が適用されてしまいますので、これははっきりと言って・・・下策でござるな」

「だな・・・」

 そもそも最初に結婚させるほうを失踪させる、ってことだけでも酷い話だと思ったし、失踪宣告取り消し後にも、色々と問題が発生したりもするようだった。

「次にもっともポピュラーなのは、やはり片方を内縁とさせることでござるようですな・・・」

「・・・」

「・・・しかし、これが京介氏には、お気に召さない、と?」

 俺はゆっくりと頷いた。

「黒猫のやつは、自分は愛人でもいい・・・なんて言ってくれているけどな。だからって・・・あいつだけを日陰にはしたくはない、というか・・・上手くは言 えねぇけど・・・それって、やはり黒猫を犠牲にしているっていうか・・・」

 二人の少女を妊娠させた挙句、こんな偉そうなことが言えるほどに俺は大した人間でもないのだが・・・だが、黒猫だけを・・・片方を『愛人』にさせるのは 何か間違っている、と思うのだった。

「ふむ・・・」

 俺の煮え切らない答えを聞いて、沙織もさすがに考え込んだようだった。ぐるぐる眼鏡でその視線は何処に向けられているのか、その表情もさっぱりであった が・・・

「もう・・・一つだけ、方法が全くない、というわけではありませぬが・・・」

「な、なんだ?」

「・・・その前に京介氏にお尋ね致しましょう・・・」

「おう・・・?」

「もし、合法的に・・・あやせ氏と黒猫氏の両方と結婚できるとしたら、京介氏はどれくらいの覚悟がござりますか?」

「・・・覚悟?」

 俺の覚悟・・・

 心の中で沙織の言葉を反芻しながら、俺は一つしかない答えを告げた。

「俺にできることなら何でもやってやる・・・」

 俺にはそれしかなかった。勿論、そんな一大学生の俺にできることなんて、たいしたものではないだろうが、それがあやせの想いに報いるために、黒猫の気持 ちに応えられるものであるのならば、迷う必要さえなかった。

「成程・・・京介氏の覚悟は承りましたぞ」

 沙織が最後の選択肢として示したのは、海外に・・・重婚が認められているイスラム圏内におけるものだった。イスラーム法によれば一夫多妻制が認められて おり、最大四人までの妻帯が許されているらしい。

 ただし、これにはいくつかの条件とデメリットも確かに存在する。

 その条件の一つには、娶る妻たちを養っていくだけの収入、もしくは資産が必要不可欠となるのだが・・・

「それでは・・・にん」

 そこで沙織は立ち上がって振り返り、独特的なぐるぐるメガネに黄色いバンダナを外していく。そこに現れたのは超美貌の御嬢様であり、その素顔には思わず 『ドキッ』としてしまう。まして『沙織・バジーナ』から『槇島沙織』の変貌のギャップには、唖然の一言に尽きるだろう。

「・・・それでは、京介さん。わたくしとも結婚いたしましょう?」



 おまっ・・・

 それを素顔で言うのは・・・卑怯じゃ、ねぇ?


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