09『 少年の決意 』
『 少年の決意 』
エクリプス大陸における春の、外の夜はまだ寒い。
ましてこんな降雨の深夜ともあっては・・・
「ついてねぇよなぁ・・・」
衛兵の一人が月光も、星の瞬きも見せない夜空を見上げて愚痴る。
その同僚の溢した愚痴に同感だった。
招集された衛兵の一人、マイクは、このアルビオン公国の公宮を護る衛兵の一人であり、今夜の公宮の警備は特に厳重であった。当然ではあろう。
昨日はこのアルビオン公国の嫡子エルドレッド侯とヴェンツェル皇国第三皇女マリアンヌの婚礼が行われ、つい先ほどまで盛大な披露宴が行われていたほどである。
その現在の静粛なまでに眠った公宮には、ヴェンツェル皇国の皇王ダグラス陛下を始め、皇族からなる要人たち。そのためどんなに厳重な警備網を敷いたとしても、それが過度ということはない。
故に追加招集された身のマイクにも、それに対しては異存がない。まして臨時ともなれば、日当の報酬は二割増しでもある。
「まじ、寒ぃ〜・・・」
ただこの降雨に対する不満だけが積もっていたが・・・
次第に雨足が強くなっていくこんな天候もあって、外壁を中心に警備を担当する衛兵には篝火で暖を取ることも許されない。身に付けている衣服は雨に濡れて、重たくも冷たい。ただの微風が兵の熱を更に奪い、冷たい寒気が肌を刺す。
唯一の慰めは通常よりも多く警備兵が配されて、また交代時間が迫っていたことぐらいだろうか。
だから、マイクは槍を脇に挟んで両手に息を吹き込む。
官舎に帰れば、温かいお風呂と美味い食事が、そして優しい恋人が待っている、と信じて。
その厳戒なまでに配された警備兵たちの姿を見つめる視線がいくつもあったことも知らず・・・
漆黒の闇のような空間に幾つもの影がうごめいた。
彼らが闇に溶け込んでいるのは、深夜だからということだけではない。全身を真っ黒な衣装に統一して、身を包んでいるからだ。頭部には黒い布を巻き、視線と呼吸する部分にのみ、肌が晒されていた。
「・・・・」
この天候は彼らにとって僥倖であった。
月明かりもなく、篝火の数も極端に少ない。雨音は僅かな音もかき消し、衛兵らに気付かれることなく、彼らを公宮付近まで導いてくれたのである。
全く無駄のない、軽やかな動きで公宮の城壁にはりつく。
そして衛兵に気取られることなく背後を取り、片手で口を塞ぐと、もう一つの手が掴むナイフで首を掻き斬る。短い絶命が続き、その僅かな間で無力化とさせていった。
先行した黒い影が指先で後続に合図する。
彼らが目指す第一目標は、皇王ダグラスが眠る寝室。
計画は事前に行われており、公宮の二階の深部と把握し、その城内の道筋まで頭の中に叩き込まれている。
第二目標がその第一皇女であり、現在は帝国の嫡子に嫁いだ身のミレーユ皇女。続いて第二皇女のフレア、第四皇女のレティシアらとなっている。
彼らは雇われた殺し屋であり、暗殺者集団。
滞在中に皇王や皇族が殺されれば、アルビオン公国の公都シアルフィーの公主シャヒーンにその責任が問われることになろう。だが、それは彼らの知ったことではない。あくまでもそれは依頼主の問題であって、暗殺者たちには何ら関知するところではなかった。
・・・・。
第四皇女レティシアの侍従であるエリスが周辺の異常に気付いたのは、暗殺者らが公宮の広い庭園に足を踏み入れた、その瞬間のこと。
「・・・エリス?」
「ローレンさん。敵です」
同室の老騎士に短く返答し、自身は短剣のバックショルダーと矢筒のベルトを固定して、部屋の片隅にたてあけてあった弓を手にする。
一階の寝室を出た彼は、驚かせた幾人かの衛兵に注意と警戒を呼びかけると暗闇の庭園に向け、手にしていた弓に矢をつがえる。
黒い・・・なんだ!?
衛兵が唖然としているが、エリスは無言のままに矢を放った。そして撃ち放たれたその矢が、暗闇の中の何かに突き刺さり、倒れ込む音に続く。
「「!!」」
驚いたのは暗い廊下に佇む衛兵たちであり、暗闇の庭園に潜んでいた暗殺者たちであっただろう。そのどちらがより驚いたかは定かではない。だが、エリスの第二射が放たれ、それがただの偶然ではないことが証明されると、暗殺者たちは速やかに散開していく。
エリスの青光る瞳が、暗視スキル所持者と認識したのだ。
「アサシン・・・暗殺者かぁっ!」
ローレンが敵影を識別し、衛兵らが周囲を警戒したが、散開した暗殺者が最初に標的としたのは、城内の内壁に均等感覚で設置された篝火の灯り、光源である。
全ての光源が失われ、城内も庭園同様に暗闇の中に呑みこまれると、暗視スキル所持者を除く全ての人間が無力化とされる。この暗闇の中の乱戦こそ、この暗殺者たちの真骨頂であった。
衛兵の中には火炎系の低級魔法を扱える術者もいたが、この天候では全くの無意味であり、閃光・雷撃系の魔法という迎撃手段もあったが、短くない詠唱を暗殺者の刃が許すはずもない。
ほぼ棒立ち状態だった衛兵に暗殺者の一人が襲いかかり、短剣に持ち替えたエリスが暗殺者を仕留める。
「す、すまない・・・」
「応戦するか、もしくは退いてください!」
この暗闇の中での衛兵の存在は、エリスにとってはただの負担でしかない。一人を助ける間に五人が殺されていく。そんな構図である。
「ローレンさん、このままでは全滅します。新たなに光源を確保するか、応援を呼んでください」
「くぅ、エリス、し、しかし・・・」
「っ、急いでください!」
この場ではまともに奮戦して戦線を支えてくれている老騎士に、エリスは声をかけつつ短剣を構えて、同時に焦りも憶える。
・・・暗殺者の数が多い。
エリスは意図的に自らの身体が持つ潜在能力を解放することができる。
その『解放』を駆使して必死に応戦をはかるが、その間にも、別の暗殺者が二階に通じる階段の扉へと向かって行ってしまう。彼らには最低限度の仲間意識しかなく、例え何人の仲間が犠牲になってでも、目的の遂行を第一とする暗殺者たちであった。
それがエリスに奥の手を決意させる。
・・・『解放』を限界にまで引き上げさせる、それを。
『良いか、エリス・・・』
幼き頃の師であり、エリスに短剣と弓の扱いを教えてくれた養父の言葉が甦る。元々は公宮の騎士だった養父が、その晩年、騎士を退役後にエリスを引き取り、公国の狩人となった優しくも厳しい養父。
その養父の後を継いで、アルティス公国の狩人になろうと決めた日のことだった。
『これから教える[解放]は、お前に生存の道を高めてくれる大きな力となってくれよう』
自然を主戦場とする狩猟は決して安全な世界ではない。
熊や虎、時には獅子をも相手にしなければならないときもある。それに単独でも立ち向かえるようにと、養父は当時十歳だった少年に、体内に眠っている力の解放を促す、その流れを意識付けた。
この『解放』を習得できれば、それはエリスが生きていく上で大きな力になる。
狩人としても・・・
そして、一人の戦士としても。
それだけに諸刃の剣の危険性も兼ね備えていたが・・・
『ただし、潜在能力を開放するリミッターは常に50%程度に留めておけ・・・それ以上に引き上げてしまえば、お前の肉体自身が悲鳴を上げて、すぐにそのツケを自分が支払うことになるのだからな!?』
階段を護る最後の衛兵が暗殺者に倒されると、その養父の警告を振り切り、エリスは初めてその禁を破った。
二階に通じる扉を手にかけた暗殺者の背後に飛び込み、短剣を振り下げて蹴りを見舞う。『解放』における恩恵は機動力が上がることだけではない。少年とはいえ十分に爆発力の窺える蹴りは、暗殺者の肉体を庭園にまで弾き返す威力を持っていた。
そして正面を見据え、殺到してくる暗殺者を瞬時に屠る。
だが、暗殺者の残り数人というところまでが限界だった。
まず右足が悲鳴を上げたように激痛と衝撃が走り、短剣を持っていた右腕も酷使した反動によって、凄まじい激痛の衝撃から痙攣が襲ってくる。
「っ!!!」
(か、身体が・・・う、動かない!?)
エリスが暗殺者らに初めて晒してしまった硬直・・・
(し、しまった・・・)
それは致命的なまでに大きな隙であり、暗殺者たちがそれを見逃すはずもない。猛毒の塗られたナイフの刃がエリスに迫り、肉体の限界を迎えてしまった彼にはもはや免れない、まさに死の通告のようであった。
れ、レティ・・・
凶刃が迫りくる中で少年が強く思ったのは、昨日の夕刻に手を握り合った少女のことだった。自分が護るべく主君であり、心から慕い上げる美少女。皇国第四皇女レティシア・ミラルド・ティア・ミステル。
彼女を護れるのであれば生命など惜しくはない、と思っていた。それは今も変わらない想いであり、そのためならいつでも生命を捧げようとも。
だが、この時だけは違った。
彼女に伝えたかった言葉があった。
そしてその口にできなかった現実が・・・エリスに生を強く渇望させる。
僕は・・・、れ、レティと・・・
それがどんなに大それた望みであり、もはや叶わないのだと解かってしまったが故に・・・エリスは顔をしかめたまま目を瞑った。
《 ずぅぶっ!! 》
肉を抉るような音が響く。
だが、迫っていた凶刃の刃が、エリスに届くことはなかった。
えっ?
癖毛のある鮮やかなまでの赤髪。
「ありがとよぉ。俺の見せ場を残してくれてさぁ」
それはカルマーン帝国製の白銀の鎧を身に纏い、右手には松明を、左手に研ぎ澄まされた長剣を手にしている赤髪の騎士、アーレスだった。ローレンの呼んだ応援が間一髪というところで間に合ったのだ。
長剣で暗殺者を貫いたまま、エリスの前に体勢を入れ替える。それは言葉に表せないほどの安心感に満ちた逞しい背中だった。
「あっ・・・・」
エリスはゆっくりと身体の力が抜けていくのを自覚した。
カルマーン騎兵団(城内だけに下馬しているが)の来援により、庭園の乱戦は終息に向かいつつある。
「まだどこにアサシンが潜んでいるか解からない。徹底して警戒するんだ!」
それでもアーレスの命令は徹底しており、それは帝国兵だけでなく、異国であるはずの公国軍の衛兵にまで行き届いていた。
「まぁ、もう大丈夫だとは思うけどな・・・」
明るくなってきた上空を見上げ、いつもの癖毛に一割の寝癖のついた赤髪を整える。暗殺者に統一された黒い衣装は、真っ暗闇の中ならいざ知らず、明るみが増した今では却って目立つものでしかない。
・・・・。
庭園の至るところに転がる、暗殺者たちの死体。
これほとんどを、こいつ一人が・・・?
先日の戦場において、この銀髪の少年が披露した弓の技量にも驚かされたものであったが、アーレスが辿り着いた際に見せたエリスの短剣術、その身体能力には度肝を抜かれた思いだった。
・・・これで十三歳かよ!?
警戒の巡回を終えた兵士を労いながら、アーレスは今も座り込んでいる銀髪の少年に・・・その末恐ろしい成長の余地を十分に残しているエリスに、敬服と敬意、大きな賞賛と同等の敵愾心を抱かずはいられなかった。
それによって初めて、負傷した衛兵などの治療に専念できる時間が割けるようになる。
「マートリ! こっちだ」
「あ、はい。アーレス様」
アーレスに呼ばれたのは、エリスと年齢がそう変わらないぐらいの少女。それもかなりの美少女である。
淡い青色の肩元にストレートで揃えられた髪。整った顔立ちに優しげな視線の瞳は大きく、清楚なイメージを与える彼女には、レティシアやフレア皇女、帝国の『戦姫』クリスともまた違った、別次元の可憐さを宿している。
「だ、大丈夫ですか?」
その優しげなアイスブルーの瞳を向けてくる。
「あっ、は、はい・・・」
「では、楽にしてください。ライトヒールをかけますから」
エリスの負傷は外傷によるものではなく、あくまで特殊技能の『解放』を限界にまで引き上げた反動であり、酷使されて悲鳴を上げた身体はゆっくりと休めれば自然と回復するものだ。
それでもこのマートリという美少女にかけられた法術――別名、信仰系魔法――によって、全身に駆け巡っていた痛みが和らぐのを感じていく。
「・・・・」
「////////」
治癒術に代表される法術は、対象者に接近して手から癒しの効果を与え続けなければならない。そのためエリスが目を開くと目の前には清楚な美少女と対面することになり、自然と目の前の美少女の頬が朱に染まっていた。
「あっ、マートリ。
そいつに惚れても無駄だかんな・・・
エリスはレティシア皇女殿下とラブラブだからさ」
まるでタイミングを計ったような、アーレスの忠告。
「まぁ、あの『皇国の至宝』を敵に回して
奪える自信があるんなら、反対はしないけどな・・・」
ら、らぶらぶって・・・
アナタハ、ナニヲイッテイルンデスカァ!!
「・・・絶対に無理です」
ソシテ、アナタモ・・・
さすがのエリスも歳相応に、顔を真っ赤にしてアーレスに反論を試みた。
「ぼ、僕とレティは・・・
決して、そんな関係じゃありませんよ」
確かにエリスは仕えるべく、レティシアに想いを寄せてはいる。身分違いの差も弁えずに。実際に先ほどの窮地で思い浮かべたのは、彼女のことだけである。
だからといって、エリス個人に関してならともかく、それだけでレティシアと恋仲であるような発言は絶対に間違っている。
「でも、エリス。お前は惚れているんだろ?」
「・・・そ、それは、否定しません・・・」
それは初めてエリスが自分の感情を吐露したときだった。
とっても不思議だった。アーレスが比較的に年齢の近い、異国人の同性ということもあっただろう。もしくは最初からエリスの想いを的確に指摘していたからかもしれない。
だから、何故かアーレスには話せてしまうのだ。
「そして皇女殿下もお前に惚れている・・・」
「そ、その自信が全くありませんが・・・」
「はぁ・・・(こりゃ、皇女殿下が哀れだわ)」
好意は抱かれている、とは思う。だが、それが自分の抱いている想いと同じものなのか、というとエリスには今一つ自信が持てないでいた。ましてレティシアは皇族であり、自分はその一家臣にしか過ぎない身なのである。
そして同時に臆病でもあった。
レティシアとの関係が良好であるが故に、もしこの想いを伝えたとして、この関係がギクシャクしたり、最悪、主従の関係にまで終焉を迎えたりしない、という保証もないのだから。
「まぁ、それでお前はどうしたいのよ?」
アーレスの口調は真剣なそのもの。
それはまるで昨日の昼間の続きをしているようであった。あのときのアーレスも真剣な口調でエリスに助言してくれそうだったのだ。
「皇女殿下と、ただ一緒に居たいって言うんなら、侍従でもいいさ。恐らくそれが一番確実に、一緒に居られる時間が得られるだろうよ・・・」
「・・・・」
「ただ、もし・・・皇女殿下と添い遂げたい、って思っているんだったら、エリス・・・お前は騎士になるべきだ」
「騎士・・・」
帝国騎士のアーレスが、エリスに唯一の道を示す。
エリスがレティシアと結ばれることが許される、唯一の道を・・・
「幸い、皇女殿下は平民出身、まして第四皇女だ」
政治的価値は他の皇女よりも低く、それだけに障害もそう多くはない。(ただし絶対に娶れるとも言ってない)
まずは騎士となって戦場に赴き、戦功をたてれば、その戦功次第では四、五年・・・上手くいけばもっと早く皇王ダグラス陛下から許される可能性も皆無ではない。
「騎士・・・僕が、騎士に・・・?」
・・・・。
エリスはこのアーレスに示された道標を、信頼する老騎士ローレンに打ち明けてみた。このローレンはレティシアの後見人となるそれ以前は、騎士団の副団長も務めていた経験もあり、今のエリスが相談するのに最適な人物であると言えただろう。
「そうか・・・騎士に、な・・・」
「僕は今までどうすれば良いのか、解かりませんでした。でも、アーレスが僕に言ってくれたんです。もし、レティと添い遂げたいというのなら、騎士となって戦功をたてる他にはない、って・・・」
「そうだな・・・」
ローレンは思わず目を見張る。
この少年が初めて、自分の希望を・・・レティシアと添い遂げたい、という想いを口にしたのである。もし、この場に空回りし続けていた彼女がいれば、想いの余りに泣き出していたやも知れない。
「一つだけ忠告しておくが・・・騎士になる、と言っても過酷な訓練の日々があり、エリスのその願いも生半可な思いでは到底におぼつかないぞ?」
騎士とは誰にもなれる、というものではない。
馬術、剣術と槍術を含めた戦闘技能は無論、常日頃から騎士道精神。そして皇国への忠誠心が強く問われる。教養においては文字の読み書き、兵学、紋章学が重視されていた。
また晴れて騎士権を得て、例え騎士になれたとしても、一年に一度は実技審査があり、日頃からの鍛錬を怠ることも許されない。また命令違反、騎士団の名誉を穢すような問題を起こしたりでもすれば、即座に騎士権を剥奪されてしまう可能性すらあるのだ。
「まぁ、エリスなら、大丈夫だと思うが・・・」
少年の実力を知る老騎士は、まず馬術については心配していない。正確無比な騎射も大きな武器にはなろう。ただ副武装の短剣が馬上では致命的である。剣、もしくは長槍の馬上修練が必要となるだろう。
文字の読み書きは狩人だった時点で可能であり、兵学と紋章学にも明るい。細部は今後の教練で身につけられなくもない。
また少年の無欲な性格から、騎士道精神にも心配はしていない。皇国への忠誠心もレティシア皇女自身に向けられている限り、間違いはないだろう。
「・・・・」
ただし(一例として)もし仮に、皇王ダグラス陛下がレティシア皇女の縁談を決断し、その護衛にエリスが選ばれたりでもしたとき、彼は黙ってそれを承諾できるだろうか?
「・・・・」
最悪な事態しか想像がつかん・・・
これは陛下に、儂のほうからそれとなく進言しておく必要がありそうじゃわぁ。
・・・・。
《 コンコン 》
エリスは侍女のマリーダと挨拶を交わし、レティシア皇女の寝室の扉をノックした。
「エリスです」
既にノックした時点で覚悟していたのにも関わらず、エリスは背中に冷たい汗を流していた。呼吸も少しだけ荒い。まぎれもなく自分の主君のであり、絶世の美少女の寝室の扉である。
『ち、ちょっと待って・・・』
慌てたような彼女の声が耳に届く。
エリスのほうも高まる鼓動を鎮めるが如く、二度大きく深呼吸を繰り返していた。
『ど、どうぞ。鍵なら開けてあるから、入って頂戴・・・』
準備が整ったらしく、入室の許可が下りた。
「失礼します・・・えっ、と・・・」
最初にエリスの目に入ったのは、ベッドの上に腰を掛けているレティシアであり、曝け出された小柄な肩。ふんだんなレースに黒く縁取られた裾。そこから覗ける健康的なまでの大腿部。そのあられもない――ネグリジュ――姿であった。
・・・・。
事前に鼓動を鎮めていなければ、気が動転していたかもしれない。
・・・・。
視線を逸らしつつ、エリスは冷静となっていく自分を自覚していた。これはレティが自分を信頼してくれている証であり、もしくはやはり彼女には異性として意識されていないのだと思わせた。
「お休みのところ申し訳ありません」
エリスは視線を逸らして頭を下げた。
それでも絶世の美少女である彼女のその姿は、余りにも刺激的に過ぎる。
「か、構わないわよ・・・そ、それで、こんな今朝からどうしたの?」
・・・・。
レティシアに問われたことで、銀髪の少年は正念場を迎えていた。
「・・・お暇を頂きに参りました」
まるで何かが・・・壊れるような、そんな音がした気がする。
勿論、それはエリスの幻聴だったが、彼のその発言によって皇女の表情を愕然とさせ、驚愕させるものであり、室内の空気が一変したことだけは間違いなかった。
「な、何か・・・ふ、不満があったの?」
「・・・・」
別段、侍従という職務それ自体に不満があったわけじゃなかった。レティシアの侍従を務めることで多くのことを学んだし、ヴェンツェル皇国を始め、色んな公国に赴くこともできた。
それはアルティス公国だけで育ち、一公国の狩人でしかなかったエリスにとって、毎日が新鮮な驚きに満ちた日々であっただろう。
待遇だって悪くはない。不定期な狩人のときの収入とは違って、一ヶ月の給金が金貨である。狩人の年収がなんとか金貨に届くか、というぐらいだから、平民出身の彼にとっては破格の待遇ではあった。
何より愛しく想える、好きな異性と一緒に居ることが許されていた。
「私、私よね・・・何か問題が・・・
エリスの気に障ったことが、あ、あるなら・・・
か、改善するから・・・直すから・・・
お願い。だから、そんなことを言わないで頂戴・・・」
「れ、レティ・・・」
懸命に思い留まらせようとするレティシア。
それだけに決心が鈍る。だが、そんな彼女を愛おしく想えるからこそ、エリスは騎士への道を決断したのだ。
「す、好きなの・・・エリスが・・・」
聞き取るのも難しいぐらい、それは小さな声だった。
だが、彼女の告白を聞き返す必要なんてなかった。
そして思い違いでなく良かった、と思う反面、だからこそ騎士になりたいという決断を後押しする。
「僕も・・・レティが好きだ」
自分でも驚くほど冷静に口にできていた。
男としてはどうか、とも思うが、レティシアから先に告白された、という心理的余裕が生まれていたのは事実だろう。
「え、あっ、だっ・・・でも、だったら・・・」
「・・・ただ一緒に居たいだけなら、侍従で問題なかった。でも、こんな僕でもレティと結ばれたい、添い遂げたいと思ってしまったんです・・・」
昨日、彼女と一緒に見届けた婚礼。
あれが皇族と貴族の婚礼である、と思い知らされた。そしてレティシアは皇国の皇女であり、婚礼に望む異母姉の花嫁姿を羨望の眼差しで見届けていたのも解かっていた。
そしてエリス自身も、レティシアと結ばれるのなら、公言したい・・・皇女が自分だけのものになったのだと、主張したい思いだった。
赤髪の帝国騎士が示してくれた道標。
アーレス自身が率先して騎士となり、戦功をあげ、帝国内において『戦姫』と呼ばれるクリスティーヌとの関係を認めさせたように。
「だから僕は、皇国の騎士を目指します・・・」
「エリス・・・」
「五年・・・いや、十年かかるかも知れません」
三大国間では同盟が結ばれているが、野盗やならず者たちといった輩は、何時の時代にも蔓延っている。治安維持などで戦功をあげられる機会も少なくはないだろう。また亜人種族らが支配する北方大陸との、三大国の国境の雲行きもいよいよ怪しくなってきており、決して予断を許さない状況でもある。
ただし、エリスが確実に戦功をたてられる、という保証はない。もしかすると初陣で戦死している可能性だって否定できないのだ。
「それでも、待っていてくれると・・・」
エリスの言葉を遮るようにしてレティシアは涙交じりに微笑して、その顔を彼の胸に預けていく。エリスと出逢うこと早一年。ようやくに相思相愛を確認することができたのだ。
それだけに感無量の想いだったに違いない。
「・・・・」
それを銀髪の少年は赤面しつつも、抱き止めることはできなかった。
何分、今の彼女の衣装はネグリジェである。
抱き締めるのは色々と不味い気がする。
「・・・・」
そのエリスの反応を察したレティシアもまた、自身の大胆な行動にようやくにして気が付き、顔を真っ赤に染めて硬直する。
昼時を告げる鐘。そして侍女の入室を求めるノックがなければ、二人はいつまでも固まったまま、そのまま硬直していたかもしれない。
「いつまでも待っている・・・」
レティシアは赤面しつつ背を向けながら、同じく背を向けてしまった少年に告げる。
「・・・ううん、私が国を捨ててもいいのよ?」
「レティ・・・」
「・・・皇女なんて呼ばれなくてもいいの。あんな豪華な婚礼なんかもいらない・・・生活が貧しくても全然構わないのぉ・・・」
それなりの蓄えはある。それも返納しろというのなら、レティシアは全額を返納しても一向に構わなかった。
それでエリスと一緒になれるのなら・・・
と。
→
進む
→
戻る
→神聖婚伝説のトップへ
|