11『 寂寥の日々 』
『 寂寥の日々 』
ヴェンツェル皇国の首都、皇都フレンツェ。
三大国の一つ、皇国の居城もあるその城下町は、南エクリプス大陸でも世界最大規模の発展を遂げており、あらゆる地方の人間と、数多の産地の物資が集う経済の要衝に数えられるだろう。
総人口二百億とも言われる国の皇都であり、そのおよそ一割に当たる二十億人弱の人間がフレンツェにて生活の営みを歩んでいた。
そんな広大な皇都の一角にエクリプス騎士養成所がある。
大陸の名を冠したこの養成所は、これまでにも多くの騎士を輩出してきた名門であり、皇国領でもタブラスク騎士養成所と双璧を成す実績を残していた。
そのエクリプス騎士養成所に、朝早くから汗を流す若者たちの姿があった。
「はぁ、はぁ・・・」
慣れない長さの木剣を構えつつ、少年は息を整える。
この銀髪の少年の名をエリスといい、つい先日まで第四皇女レティシア・ミラルド・ティア・ミステルの侍従を務めた経歴を持ち、養成所に入所して僅か二週間足らずで、第一級騎士候補生にまで登り詰めた英才である。
得意な武装は弓と短剣。
特に弓に関しては他者を圧倒する技量の持ち主であり、騎士を退役した指導官のほうが恐縮するほどの腕前であった。また騎乗技術においても養成所内では一、二を争う。
唯一の欠点は、その騎乗した際の接近戦にあり、現在は長剣。もしくは長槍の習得が最重要課題とされていた。
それでも、既に騎士にもっとも近い存在の一人だと言えるだろう。
「・・・そろそろ、行くよ? エリス」
「ああ、頼むよ。カリス・・・」
そのエリスの剣の練習相手を務めるのは、第一級騎士候補生となったエリスの相部屋ともなった人物。こちらも当然に第一級騎士候補生の門下生であり、名をカリストファーという若者だ。仲の良い僚友、仲間たちからは親しみを込めて「カリス」と呼ばれている。
彼の得意とする武装は主に長槍。それでも、剣の扱いに関してはエリスよりも卓越しており、自主練や訓練教程においては彼から教えを乞うことが多い関係ともなっている。
特に騎乗させた際の長槍に関しては絶対的な防御技術を誇り、それはエリスの騎射の技量を持ってしても、その最後まで崩すことが叶わなかった唯一の存在だった。
現在はエリスの課題に合わせて、やや長めの木剣を構えている。そしてカリスと手合せをしてもらうことによって良かった点、そして改善すべき点を指摘してもらうのが、彼と相部屋となってからの恒例の朝ともなっていた。
「今朝もやっていますなぁ・・・」
「カリスとエリスですか。ええ・・・」
騎士団を退役した教官が微笑む。
カリスはエリスが入所したときからの優等生であり、このエクリプス騎士団養成所の中では一番の才能を示していた若者である。この二人を相部屋にすることによって、更に切磋琢磨させようとする養成所の狙いが見事に的中した形ではあろう。
「もう疲れたのかい?」
「はぁ、はぁ・・・まだまだぁ!」
実際、早朝の自主練を持ちかけたのはエリスだった。
カリスは嫌な顔一つせず、エリスの課題に付き合ってくれる。
同じ平民出身(公式的にはエリスも平民扱いとなる)ということ。そして面倒見の良い性格。エリスにとってカリスは良き先輩であり、騎士になるべく近い目標であり、そして共に寝食を共にする好敵手でもあったのだ。
そして・・・エリスが皇都で初めて得た親友でも。
自主練で用いた木剣を片付けて室内に戻った二人は、軽く汗を流した後、朝食が用意された食堂へと向かう。養成所の建物は皇国が出資した施設であり、それだけに食堂一つをとっても広くて大きい。既に五百人近い門下生が席に座って朝食を囲っていた。
「ところでさ、エリスはここ(養成所)に来る前は、レティシア皇女殿下の侍従を務めていたんだよね?」
「うん・・・」
エリスは頷く。
(レティ・・・)
彼女とは、もう二週間も顔を合わせていないこともあり、寂寥にも似た感傷に囚われ、少年の胸中は穏やかではいられなかった。
・・・二週間!
たったの二週間でこの有り様である。
後悔、という二文字がエリスの胸を締め付けた。
彼女への想いを思い出すだけで、眠れない日々が続く。
彼女に好きだと言った。
そして好きだと言ってもくれた。
それなのに・・・
「・・・・」
もっとも、これが皇族と平民にとっては当然のことではあったのだが。
「ねぇ、本当に・・・そんなにレティシア皇女って、可愛いのかい?」
カリスが声量を落としたのは、皇族に対する不敬罪を恐れたこともあろう。同時に食堂ということもあって第三者の耳を恐れたこともある。この年頃の少年たちには、特定の女の子の話を・・・特に美少女の話題を恥ずかしくなるものだった。
「そりゃあ、僕も『皇国の至宝』って呼ばれていることぐらい、美少女だって噂は知っているよ?」
「・・・うん」
「本当にそんなに可愛いのなら、一度くらい会って話したいもんだよ」
「・・・そ、そうだね」
・・・・。
身分、という格差を改めて痛感する。
僕の選択は間違っていたのだろうか?
無論、答えなど出ようはずもなかった。
だが、侍従のままで居られたのなら、それこそ毎日。レティシア・・・レティと顔を合わせることができていたのだ。二人だけで会話することも、またあの時のように身を委ねてくれる・・・
お互いに確かめ合えた体温。大きくも確かな鼓動。熱の帯びた吐息に、触れてしまったレティシアの確かな二つの脹らみ。彼女が落胆しているそれ以上に、エリスの心を強く捉えてしまっていた。
そりゃ、全くないよりはあった方がいい。
少年にとって理想的なプロポーションの持ち主といえば、ヴェンツェル皇国のフレア皇女。カルマーン帝国の『戦姫』クリスティーヌの二人をまず想定するだろう。だが、そのどちらも決して巨乳などではなく、あくまでも美乳と呼ばれる範囲に留まる。
そしてその二人よりも、エリスはレティシアの小柄な身体に、その小さな胸であろうとも意識をせずにはいられなかった。愛しくも思えていたことだろう。
要はバランスなんだと思うのだ。
「・・・・」
エリスとて健全な少年である。レティシアと出逢ってから一年の歳月が経過し、これまで完全なまでに無知であった性的知識も持ち合わせられるほどに、確かな成長を遂げている証だった。
れ、レティの胸・・・・。
・・・・。
(////////)
思わず、ネグリジェ姿のあられのないレティの姿を思い浮かべてしまい、エリスは顔を真っ赤に染めずにはいられなかった。
「!?」
そのエリスの反応を見て、カリスが思わず微笑する。
「そうか、エリス。君は皇女に惚れているのかぁ」
「!!?」
それは以前、帝国の騎士、アーレスにも言われた似た言葉だった。
(その反応。やはり惚れているな、お前〜♪)
僕の反応って、そ、そんなに分かり易いのかぁ!?
そしてその癖毛のある赤髪の騎士の助言に従って、自分は現在、騎士を目指している。
「あっ、それでもしかして・・・騎士を?」
「・・・・」
そう。それが僕の騎士を目指す理由だった。レティと一緒に居られる、侍従という職を辞してでも・・・彼女との関係を皇国に認めさせて、彼女と添い遂げるためだけに、騎士となって功績をあげる必要があるのだった。
「そうか・・・なるほどね」
配膳された朝食を口に運びながら、カリスが意味ありげに微笑する。
「・・・ごめん、そんな理由で・・・」
「いや、謝る必要なんてないよ。惚れた女の子のために頑張る、って、そんな恥ずかしいことでも、まして悪いことでもないだろ?」
「う、うん・・・」
実際、このエクリプス騎士養成所において騎士になろうとする者にも、色んな理由や目的意識を持っている。エリスのように惚れた女の子のため、という者もいれば、中には出世して第八の公主を目指す者。貴族となって側妾を侍らせてハーレムを作ろうという、強者まで。
「それに・・・僕だって似たような理由だし」
その時、食堂に養成所の教官の一人が入室してきた。
一斉に室内に緊張が高まる。
食堂にまで教官が訪れるのは珍しいことであり、この時に呼び上げられた者は大抵、成績の悪い者や問題を起こした者が呼び出されるのである。
「第一級騎士候補生のエリスはいるか?」
えっ? 僕・・・?
それだけに銀髪の少年は驚きを禁じえなかった。
「は、はい・・・」
「朝食中にすまないが、至急、登城するようにと要請があった」
登城・・・何か、あったのだろうか?
エリスが一番の最初に思い当たったのは、当然にレティシアのことである。というか、それぐらいしか王城の人間との接点がない。
まさか、という嫌な思いが駆け巡る。
最悪の事態は・・・レティシアが負傷、ないし事故にあったことだろう。エリスが侍従を務めるきっかけ、そして務めている間にも、彼女は多くの存在に狙われていたのである。
「っ・・・」
レティ・・・
――無事にいてくれ、と強く願った。
「エリス・・・」
「今度、カリスのその理由も教えてよ」
「ああ・・・」
心配する相部屋の相手に頷き、エリスはゆっくりと席を立ち上がった。
唐突に登城を命じられればそれも当然ではあろう。だが、そんなエリスにもまだ解かってなかった。
もうこの養成所には戻ることがないのだということを。
エリスは登城するのに恥ずかしくない服装に着替えて、養成所の出入り口に停車する、その彼のために皇宮が用意した馬車へと赴く。
・・・この服を纏うのも侍従時代以来だ。
「えっ?」
皇国が用意してくれた馬車に乗り込み、エリスは既に乗車している搭乗者を確認して唖然とせずにはいられなかった。
「お久しぶりですわね」
透き通るような桃色の長い髪に芸術とも思わせるような端整な顔立ち。絶世の美少女と言っても過言はない。
ヴェンツェル皇国第二皇女フレア・フォード・ティア・ミステル。
現在、このヴェンツェル皇国の皇位継承権第一位の持ち主であり、エリスの主君だったレティシアの異母姉に当たる人物でもある。
「ふ、フレア皇女殿下?・・・・」
「こうして話すのも初めて、だったかしら?」
まさか用意された馬車の車内で、レティシア以外の皇族と会うとは予想外の出来事であった。
「さぁ、どうぞ・・・」
「ありがとうございます」
二人の屈強そうな近衛騎士を左右に従える皇女は、空いている対面の座席を薦めた。
エリスが搭乗したことによって、車体に揺らぎが生じる。ゆっくりと馬車が出発したのだ。次第に加速を告げる窓に流れていく景色。皇都の一角にある養成所からヴェンツェル皇国の居城フレンツェまではおよそ一本道。この速度なら四時間とかからず、城門に到達できることだろう。
「僕は何故・・・」
レティシアの身だけを案じていたエリスは、フレア皇女に問うまで、僅かな時間の覚悟が必要だった。
「・・・?」
「僕は何故、お城に呼ばれたのでしょうか?」
「ああ。まだ用命まで伝えられていなかったのですね」
エリスと同じ歳となる皇女はおっとりとした微笑みを浮かべたまま、今回、エリスに登城が求められた経緯を語っていく。
「皇王ダグラス陛下が・・・ぼ、僕に?」
「ええ。先月の・・・公都シアルフィーにおける、暗殺者部隊の撃退。その行賞ということですよ」
それは先月。ヴェンツェル皇国の一公国、アルビオン公国の公都シアルフィーにおける一連の事件であった。いずれも凄腕だった暗殺者集団が公都に潜入し、公宮に滞在していた皇族を狙った犯行である。
当時、エリスはレティシアの侍従を務めており、彼女の後見人であり、老騎士ローレン、そしてカルマーン帝国の近衛騎士アーレスらの助力を得て、撃退することに成功したのだった。
「改めて私からも御礼申し上げますね」
フレア皇女の整った顔立ちの頭がエリスに向けて下げられる。
これに驚いたのは、彼女が従えている騎士たちである。エリスには知る由もなかったが、彼女の平民蔑視の傾向は皇宮でも知られたものであり、そんな彼女が素性も定かでもないエリスに頭を下げたのであるから。
「あ、いえ・・・自分は・・・
アーレスにも際どいところを助けられましたし」
実際、あの場にアーレスが駆けつけてくれていなければ、エリスは死んでいたことであろう。しかも悔やむに悔やみきれない後悔を残したままで。
「でも・・・良かった」
「どうか、なさいましたか?」
「いえ、その・・・登城を命じられたとき、真っ先に思い浮かんだのが、レティシア皇女殿下の・・・」
えっ?
途端に、目の前のフレア皇女からエリスにこの場に似つかわしくない違和感を憶えた。
殺気ではない。殺気ではないけど・・・これって。
エリスが持つ『察知』と特殊技能もあって、殺意や敵意というものには非常に敏感なのである。またこの技能があったからこそ、レティシアの侍従として過不足なく務めることができ、また先月の暗殺者の存在を捉えたのであった。
「・・・こほん。ごめんなさい」
「・・・・」
先ほどの違和感がまるで嘘のように、フレア皇女は眩しいばかりの微笑みをエリスに浮かべている。さきほどの違和感がほんの一瞬のことだっただけに、エリスも勘違いかな、と思わせるぐらいに。
細い人差し指を形良い唇に当て、皇女が思い出すように紡ぎだす。
「レティシアなら、あれからほとんど皇居から・・・私室から出てきていないわね。皇宮にいる私でも全然見かけないんですから・・・」
「風邪か、もしくは病気で?」
「私の聞いた話では・・・違うとは思うのだけれど・・・」
ちなみに風邪も病気の一種である。
・・・・。
エリスは気が動転して気が付かなかったようだが、フレアも敢えてそれを指摘することはなく、二人はその初めての邂逅ともなる会話を続け、馬車はいよいよヴェンツェル皇国が居城フレンツェの城門を捉えていた。
エクリプス大陸における三大国の居城、ということもあって、皇居フレンツェの外装は壮観華麗と呼ぶに相応しい様相だろう。皇宮を護るように囲われた二重の城壁には十四にも及ぶ監視塔が設置され、分厚く塗装された城門と城壁には破城鎚を受け付けない硬度、あらゆる攻城兵器を跳ね返し、全ての魔法を無効化とする超硬金属――アダマンタイト――で構築されている。
「・・・・」
二週間前まで侍従として入城してきたエリスであっても、唖然とさせられずにはいられない威容がそこにはあった。
城門を抜けて、皇宮に至るまでにも四つにも及ぶ広大な庭園を抜ける必要があり、そこには四季に応じて様々な植物が訪問者の目を楽しませて決して飽きさせない。
また皇宮へ繋がる主要路には、エクリプス大陸において崇められている神々の白亜の巨像が一対にして居並び、威容としても芸術としても登城する多くの人々の心に残していくことだろう。
ここに神々の像が祀られているのは当然のことである。
皇都フレンツェはヴェンツェル皇国となる以前、エクリプス大陸における神々を祀っていた大神殿跡地なのであり、ヴェンツェル皇国初代皇王が、法皇とも大神官とも呼ばれた所以でもあるのだ。
皇宮には広大な練兵場の広場の他に、各式典や儀式が催される各建造物。皇宮に勤める貴族や上級騎士たちの私邸。各国の大使が滞在する外用大使館。城内の最深部には皇帝や皇族のみが住む皇居があり、魔の存在を寄せ付けない強力な結界を皇都全体に覆う空間装置も城内の最深部にあった。
そして謁見の間には、何千人もの人間が一同に揃うほどの広大なスペースが確保されてある。当然ではあろう。元々は大神殿の大聖堂でもあった謁見の間でもあるのだから。
城門への主要路にもあった白亜の巨像が等間隔に設置されて、敷き詰められた赤く柔らかな絨毯の上で各国の使者の用命を、臣下や騎士たちの報告を壇上の玉座から受け取るのである。
「確か・・・当時の大神官が『神聖婚』によって王国の王女を娶り、ヴェンツェル皇国を興したんですよね・・・」
「それはエクリプス大陸創世記のお話ですね」
皇女の返答にエリスは頷く。
同時に伝説ともされた『神聖婚』の、唯一の成功例でもあった。
当時の記録や文書は既に失われ、伝承によって語られる、伝えられるだけとなってしまっていたが、その唯一の成功例である『神聖婚』では、当時の大神官と王女が深く愛し合った末に結ばれたのだという。
その『神聖婚』を成立させた大神官は、当時の国王から王位を継承し、それは現在のヴェンツェル皇国へと発展していくのである。
「不思議な話ではありますよね・・・」
「と、申しますと?」
「あ、いや・・・確か・・・」
エリスは素朴に抱いていた疑問を問いかけてみる。勿論、それをフレア皇女が必ず答えられるとは思っていない。あくまで疑問を口にしてみただけのことだった。
『神聖婚』に用いられる伝説の指輪。その名も『エターナルリング』
その指輪には『神聖婚』成立の暁には、永遠の寿命に不死の力が与えられるとも伝えられているのだ。勿論、銀髪の少年にとってそんな話は眉唾ものだ。だが、伝承ではそう伝えられているのは事実であり、フレア皇女の知る伝承でおいても同様のことだった。
「では、何故、『神聖婚』を成立させたはずの初代皇王陛下や、その王女様は亡くなったのでしょうか?」
「・・・そう、ですね・・・」
問いかけられた皇女も、従えている近衛たちもエリスの疑問に当たって考えてみる素振りを見せたが、誰一人としてその疑問に答えを出せる者はいなかった。いや、この場だけに限らず、ヴェンツェル皇国の誰もが答えられなかったことだろう。
「もしかすると・・・まだ生きておられるのかもしれませんね」
「えっ?」
「私たちが、ただ気が付かないだけで・・・」
なるほど、とエリスも頷く。
・・・そういう考えもあるのか、と。
ただエクリプス大陸創世記、神話時代から数千年の歳月を経て、全く姿を見せない、誰も気付かないというのも妙な話だとは思うが、伝承が間違って伝わっている可能性もある。
もしかすると、初代皇王は亡くなっていない、というフレア皇女が口にした可能性。また伝説の指輪に無限の寿命、不死の力などない、という可能性もあるだろう。
・・・・。
『神聖婚』かぁ・・・
感慨深く口にしたエリスではあったが、無論、この時点において彼が知る由もなかったことだろう。
後に伝わることになる『勇者の物語』及び『神聖婚伝説』においては、後の勇者であるエリスは、レティシアとその『神聖婚』によって結ばれ、大陸史上二組目の成立者となっていくのである。
・・・・あくまでも、伝説上、では、だが。
皇宮の一室に勤める人物に、ダン・フレーム伯爵という人物がいた。年齢は三十四歳。出自こそ悪くはなかった人物だが、肥満気味な体格とその風貌が全てを台無しにしてしまっているような、そんな人物ではある。
無論、独身・・・社交界では誰も嫁手が現れないだろう、とは、彼の残念な後ろ姿に誰もが思う言葉であっただろう。
彼は自他ともに認める野心家であり、この年齢になっても未だ公爵になる夢や八つ目の公国の公主に、そして皇女を娶るぐらいの気持ちは些かも萎えていなかった。特にレティシア皇女には年齢差を越えて欲情さえ憶えてもいたのである。
もしフレア皇女がフレーム伯爵にレティシアの凌辱依頼を持ちかければ、伯爵は喜んで請け負っていたことだろう。それに疑う余地はない。ただそれが実現しなかった理由には、フレア皇女自身、フレーム伯爵の存在を好ましく思っていたこと、そして成功する見込みが全くなかったことが挙げられる。
前者の理由には、レティシアと性交する相手とも思えば、むしろ好条件と思われたことだろう。実際、フレーム伯爵だろうとその辺の野盗であろうと、レティシアを辱め、純潔を散らすことが叶うのなら問題はなかったのである。
故に最大の理由は後者となろう。
伯爵はその肥満した体格の、無駄な贅肉からして解かるように無能である。それも底抜けするほどの。親から受け継いだ財がなければ、到底にして伯爵位を得られるはずがないほどに。故に国政に携わることもあるフレア皇女には、軽蔑と嘲りの対象でしかなく、レティシア凌辱の秘事を持ちかけることはなかった残念な小人物でもあった。
ただそれだけにフレーム伯爵は、ここのところ上機嫌であった。
レティシアが自室に籠っているとはいえ、皇都フレンツェから暫く離れることがなかったからである。
(レティシア皇女殿下が皇都に滞留されておる・・・)
伯爵は擦れ違う男爵、子爵らの挨拶もソコソコに自室へと急ぐ。
時刻はいよいよ夕刻。
それは伯爵の一日における、お楽しみの時間が迫っていたのだ。
老執事や素性定かでもない侍女の出迎えを受けたあと、即座に私室に戻って室内に設置された等身大の鏡を凝視する。
「はぁ・・・はぁ・・・」
粗い息に暑苦しいまでの汗も関係もなく、伯爵は鏡を凝視する。
「・・・・」
それは特殊技能の一つ、『千里眼』に似た性質を持つ魔法製の鏡であった。
ただし本家本元の『千里眼』とは異なり、何処でも見通せるというものではない。あくまでも映し出されるのは限定して、対となる鏡が設置された地点のみとなる。これが『千里鏡』とも、『遠映鏡』とも呼ばれる由縁でもあろう。
伯爵が受け継いだ莫大な財の一割をなげうってまで手に入れた希少な品であり、その千里鏡が映し出す場所は・・・
「おおっ・・・」
伯爵が食い入るようにして鏡の中を凝視する。
湯煙の中から現れたのは、超絶なほどの美少女の後ろ姿だった。
普段は一つないし二つに纏めていた長い髪を腰まで流し、小柄な身体ながらに引き締まった腰のくびれ。小さく割れたようなおしり。まさに光沢を放っている美脚。
千里鏡に映される光景は小さく、発ちこめる湯煙もあって鮮明ではないが、そこはレティシア皇女の浴室であり、現在は湯浴みをしている最中の少女の後ろ姿であった。
フレーム伯爵は大枚を叩いてその筋における専門職を雇い入れ、皇女の浴場にこの鏡の映像地となる鏡を設置させることに成功した。今から数年前のことである。皇女の浴場には普通の鏡でも、こちらにはその鏡が映す鏡像が届けられるようになったのは・・・
「・・・・」
伯爵は切実に願う。
こっちに・・・向いてくれ、っと。
伯爵の日頃の行いの賜物か、それともただの偶然であったのか。
「・・・・」
伯爵の目が恐ろしいほどに見開かれる。
鏡を設置すること、数年と数ヶ月。
少なくとも伯爵の切実な願望は遂に叶えられたのだ。
一年前と比較して明らかに脹らませつつある、二つの確かな脹らみ。それに君臨する小さな蕾のような薄桃色の果実。一糸纏わぬ裸体の臍。陰毛もなく硬く縦に閉ざされている縦筋。
め、目の保養じゃぁ・・・
が・・・眼福じゃあ・・・
伯爵は知らぬ間に固くなった股間を扱き始めており、未だに本当の女性の身体を知らない逸物を扱いていく。
既に鏡には、レティシアの姿はない。皇女の湯浴みの時間は終わり、それは伯爵の一日の最大の楽しみが終わった瞬間でもあっただろう。
ああっ、レティシア皇女殿下・・・
だが、伯爵の瞼にはくっきりと残っている。
『皇国の至宝』とも称される、美少女の裸体が。
鏡の映像は小さく鮮明でもなかったが、それを脳内補完によって補うだけの想像力には満ちている人物ではあった。
《 どぼぉっ!! 》
それだけに凄まじい量の、濃厚なエキスが吐き出された。
夥しくも、盛大な迸りが無人の浴場を映す鏡に放たれる。
「はぁ・・・はぁ・・・」
レティシア皇女殿下・・・
この私の愛を・・・この子胤を是非、お納めください。
それが叶わぬ想いであることも解かっている。それだけに虚しさが伴うが、それが現実というものだった。
「・・・・」
伯爵は野心家である。
「い、いや・・・レティシア皇女でなくてもいい。
あ、あの皇女たちの一人ぐらいは・・・」
人一倍に野心を抱いている、と言っても過言ではない。いずれは公爵。八つ目の公主の座、そしてレティシア皇女は叶わぬとも美少女揃いの皇女の一人は娶りたい、とも。
「・・・・」
だが、同時にフレームは己の身の丈を・・・身の程を知っていた。自分が無能であることを弁えてもいたのである。故に親から受け継いだ財を浪費することはあっても、これまでに破産や破滅から免れてきた証明ではあろう。
『叶えてやろうか?』
そんな伯爵に語りかける存在があった。
『その願いを・・・』
「だ、誰だ!?」
フレームが周囲を見渡しても、私室には伯爵一人しかおらず、扉を開けた廊下に至っても無人のままであった。
「そ、空耳・・・?」
『ふふふっ・・・お前が望むのなら、手を貸してやらないでもない』
伯爵は唖然とする。それは空耳ではなかった。そもそも耳にではなく、直接脳裏に届けられるのだと悟る。
『そうだな・・・数年で、公爵に。この皇国の宰相ぐらいにはさせてやらんこともないぞ? 無論、その頃には皇女を降嫁されることも夢ではないだろう』
その囁きは何と甘美なことか。
れ、レティシア皇女が・・・私の、よ、嫁に!?
思念は一度として「レティシア」とは告げてはおらず、それは伯爵の勘違いではあったが、思念の相手は敢えて訂正しようとはしなかった。
それは伯爵の甘美な夢を邪魔する邪推なものでしかない。
またレティシア皇女と断定はしたものの、伯爵が思い浮かべた人物は、フレア皇女から生誕したばかりの第八皇女までが含まれていた。
「そ、そなたの名は・・・?」
とりあえず伯爵は話だけでも聞いてみよう、とは思った。これが利用できるのならよし、無謀な話だと思えば断ればいい、とも。だが、皇女を娶れるかもしれないと知って、多少の冒険をする気にはなってもいた。
思念で語りかけてくる人物が名乗る。
『我が名は魔軍司令、ヴァーミリオン・・・』
と。
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