12『 皇女の寂寥 』
『 皇女の寂寥 』
アルビオン公国の公都シアルフィーから皇都フレンツェに帰還すること早二週間が過ぎ、ヴェンツェル皇国第四皇女レティシアが私室に籠ったまま、公然の場に姿を見せなくなったのは事実である。
「御加減は如何ですか・・・姉上様」
それだけにこれまで活発的に活動をしてきた彼女を知る者ならば、体調や病気を気にかけるのは無理からぬことであったかも知れない。
実際、この二週間の間に顔を合わせた人物は、後見役を務めてくれている老騎士ローエンが毎朝必ず皇女の私室に訪問し、一日の予定を確認した後に退出していった。他には身の回りの世話を担当する侍女のマリーダ。一つ歳の異なる異母妹がこうして挨拶に訪れてきてくれただけであった。
その異母妹たちの、第五皇女メリエル、第六皇女ユリアの訪問を受けているのにも拘わらず、レティシアは自分の豪奢なベッドに突っ伏したまま、顔さえ合わせようとはしなかった。
これは何も姉妹たちだけに限らない。ローエンやマリーダに対しても、レティシアは自身のベッドから顔を見せることは少なかったのだが、姉妹たちはそのレティシアの・・・異母姉の態度を当然のものと察していた。
「無理もありませんわね・・・」
第五皇女メリエルの溜息交じりの言葉が洩れる。
「お目をかけていたエリス君に振られたんですから・・・」
それに第六皇女ユリアの言葉が続いて、レティシアはその的外れな言葉に無言の怒りすら憶えていた。
「仕方ないですよ。
姉上様の胸は絶壁! なんですから・・・」
「お顔は大変宜しいのに。胸、だけが全く伴わないなんて。
・・・お可哀想なペッタンペッタンの姉上様ですもの」
「その垂直な絶壁さえなければ・・・」
「エリス君もきっと、絶望的な絶壁に絶望されて・・・
それだけが受け入れられなかったのでしょうね」
と、言いたい放題の異母妹に、レティシアの不機嫌指数は上昇していく。
わ、私の胸だって・・・(少しは)成長しているもん!
毛布を包みながらも憤慨せずにはいられなかった。
一年前ならいざ知らず、現在のレティシアの胸は絶壁ではない。さすがに衣装の上からでは判りづらいが、脹らみを増しているのは事実である。だが、それも絶壁が超貧乳となったぐらいのレベルの差でしかないが。
ちなみに一つ下のメリエルとはそれでもほぼ同格。ユリアに至っては比較するまでもなく、完全なまでに劣っている。それだけに反論すれば、より惨めな現実を突きつけられることになるだろう。
このため辛辣な異母妹たちの言葉に釈然としないまでも、反論ができないレティシアであった。
メリエルは姉妹の中で一番、レティシアの容姿に似ている美少女であろう。ブロンドの腰まである長い髪をストレートに、身長や体格まで似ており、傍目からではレティシアとよく間違われる異母妹である。姉には皇位継承権第一位のフレアがあり、姉妹揃って絶世の美少女ではあろう。
ユリアは薄い桃色の髪で、こちらは先日アルビオン公国の嫡子に嫁いだ第三皇女マリアンヌの妹に該当する。身長や体格こそレティシアと大差ないが、姉妹の中でも一番に胸の発育が良く、それだけに羨望の眼差しが彼女の胸に注がれる。
「あ〜でも、エリス君。可愛いですよね〜♪」
「ですよね。私は振られましたけど・・・」
と、この中で一番下の妹が爆弾発言。
それはメリエルだけでなく、その場にいた全員が初耳であった。
「そ、それって!!?」
思わずレティシアが驚愕している表情で勢いよく起き上がった。メリエルが口元に運ぼうとしていた紅茶のカップを溢してしまう、それぐらいの勢いであった。
「あ、熱っ・・・」
「大丈夫ですか!? メリエル皇女殿下!」
侍女のマリーダとユリアが慌てた様子で手拭を手にして、彼女に零れた紅茶を拭きとろうとするが、ドレスは染みとなり、メリエル自身の身体のべた付きまでは無理だった。
「浴室の準備が終わっておりますので、そちらで流してください」
この時刻はいつも、レティシアの湯浴みの時間ではあったが、メリエルの惨状を思えばそれも諦めるしかない。メリエルは恐縮しつつも、異母姉の広い浴場を借り受けた。
傍目で見ればレティシアに酷似しているメリエル。
覗き見をする者がいたとして、彼女をレティシアと勘違いしてしまうのも無理からぬことではあっただろう。
無論、そんなことを知るはずもない、彼女たちではあったが。
「マリーダも手伝ってあげて」
「あ、ついでにユリアも手伝います」
慌ただしく浴場に消えていった異母妹らの姿を見送って、レティシアは溜息を吐かずにはいられなかった。
「・・・はぁ」
まだ、二週間・・・
それは気が遠くなるような時間だった。
エリスと会えなくなってから、まだ二週間と経過していない。勿論、彼が侍従を辞めることになった理由も解かっている。彼の意思も理解していたつもりだった。
エリスは今、騎士を目指して、現在は皇都フレンツェの騎士養成所にいる。・・・騎士となり、戦功をたて、自分なんかと・・・レティシアなんかと結ばれるがため。ただそれだけのために。
「・・・・」
それを誤解している異母妹たちに言いたかった。
だが、今は駄目だと懸命に自制する。エリスが騎士を目指すきっかけともなったカルマーン帝国の『戦姫』クリスティーヌにしても、アーレスとの関係は彼が十二分な功績をあげるまで、極力、秘密裏に密会を繰り返していたのだという。
彼女たちを良き先例とする意味でも、レティシアもまた、エリスとの関係は彼が功績をたてるまで控えなければならない。それぐらいに一国の王女と(レティシアの場合は皇女だが)臣下が結ばれるのは難しいのである。
仮に。もしエリスが間に合わず、父皇王ダグラスがレティシアの縁談を決めた場合には、彼女は既に国を捨てる決断を迷わず選んでいる。エリスと共に帝国への亡命である。
亡命先をカルマーン帝国としてあるのにも、ちゃんと理由はあった。
『そうか・・・
なら、その時は遠慮なく私を頼るがよい』
それは一つ間違えれば、ヴェンツェル皇国とカルマーン帝国の国際問題に発展しかねない大胆な発言ではある。
『名を変える必要があるかもしれない。いや、まともな生活さえ約束してやれないかもしれない。それでも二人が一緒に居られるよう、尽力することをこの場で誓おう・・・・だから、もしその時が来てしまったら、遠慮することなく迷うことなく私を頼ってくれていいぞ?』
だが、レティシアの揺るがない意思に本気を見取ったクリスティーヌは、その時はできる限りに助力を惜しまないことを確約した。
だが、それでもこの二週間は・・・銀髪の少年と会えなくなってしまったこの二週間は、レティシアにとって相当に辛いものでしかなかった。
彼との夢を見れば、朝から涙し・・・
どんな小さな出来事でもすぐに彼を想いだす。
「エリス・・・・
逢いたいの・・・」
彼は余り気付かないようだが、先ほどに異母妹が口にしていたように、異母妹だけに限らず皇宮内の少女の噂の的であった。そして一度だけ養成所に派遣したマリーダの証言からも、少女騎士らの中では相当な人気ぶりらしい。
それも当然ではあろう。
銀髪の整った顔立ち。若干幼さを残すそれも、僅か二週間足らずにして養成所のトップ候補生、第一級騎士候補生に選出されるほどの実力を示した英才なのである。それが騒がれないはずがなかった。
日が落ち始めた夕焼けに呟く。
「逢いに・・・行こうかな・・・」
と。
別にレティシアからエリスに逢ってはならない、という決まりはない。それは彼にもないだろう。皇都にある騎士養成所は馬車で数時間の距離。会おうと思えば、明日にでも逢えなくはないのだ。
「め、迷惑かな・・・」
少しだけ不安が過ぎる。
もしかすると少女騎士に囲まれているかもしれない。
「絶対に行こう!」
レティシアは信じていた。エリスがそう遠くないうちに騎士となり、数年もしないうちに自分を迎えに来てくれることであろう、と。そしてあの日の朝に二人で誓った日が訪れるだろう、とも。
だが、そんなレティシアも知らない。
エリスが既に騎士の叙任を済ませていたことを。
本日、彼が皇宮に訪れていることを。
そしてまさに今、彼が自分の私室に訪れよう、としていたことを。
・・・知る由もなかった。
・・・・。
皇王ダグラス・フレンツェ・ティア・ミステル。
在位してから二十余年。
今年で五十七歳となるダグラスは、統治にあたってこれといった失政もなく、長年の宿敵国であったカルマーン帝国との間に同盟を締結させるといった外交手腕からしても、十分に名君と呼ばれる実績ではあっただろう。
天然雪を彷彿させる真っ白な髪に、無駄な贅肉が一切ない印象を与える細身な体格の人物である。かつては側妾を相手に酒池肉林を強要するなど、かなりの精力絶倫な経歴の持ち主ではあったが、ここ近年は病臥に臥せっている日々が続いていた。
宰相を置いていなかったこともあって、エリスの行賞が遅れていた所以でもあろう。
「・・・・」
皇王には一つ困っていた懸念事項があって、亡くなった正妃の他に十二人の側妾があり、彼女らの間に八人の子供に恵まれはしたものの、いずれもが女子であった。
幸い、それで側近らが大過なく騒ぎ立てないのは、現在、皇位継承権第一位である、第二皇女フレアが十二歳にして卓越した政治手腕を発揮して、体調が思わしくない皇王を補佐し、サポートしてくれているからであろう。
それでなければ、きっと今ごろ重臣や近習らは、「お世継ぎを」「後継なさる男児を」と騒ぎ立て、様々な寵姫を押し付けてきたことに違いない。
それが望む、望まないにせよ・・・国の最高位に立つ人物の責任であり、責務でもあった。実際にダグラスは色恋に派手な人生を送っている。亡き正妃も現在いる七人の側妾も彼なりに好いてはいたのだ。
だが、彼が本当に愛した人物・・・側妾は、既にない。
ダグラスとの間に一子を・・・第四皇女を遺して逝ってしまったのである。彼が唯一に心から愛した女性であり、彼が初めて権力を振るってまで執着した、平民出身の美少女だった。
(ティアナ・・・)
それは今から十余年前のこと。
アルティス公国にある、ミラルドという地にて起きた出逢いだった。たまたま通りかかった農村で彼女を見かけたダグラスは、たった一目で彼女の姿に魅了されてしまったのである。
当時四十二歳。脂の乗った皇王はその農村ミラルドでの滞在を即断し、その胸中を吐露した皇王に、伝言を承ったミラルドの村長は十二歳になったばかりのティアナを伴って滞留を歓迎し、酒宴の席において二人だけとなるよう計らったのである。
三日三晩。昼夜問わず・・・二人だけの宴席は続いた。
ティアナの魅力に魅了され、酒にも酔ってしまった皇王のとった行動は想像することに難しくはない。最初は控えめながらにも抵抗し、悲鳴を上げて嗚咽していた彼女も、三日目の朝には皇王の存在を大人しく受け入れていた。
彼女には将来を誓った農民の三男がいたが、男爵の爵位と積まれた金貨の麻袋を手にして潔く身を引き、アルティスの公宮へと向かった。
一方の皇都フレンツェに護送されたティアナは、その道中も馬車の中で皇王の寵愛を一身に受け、皇都に到着するまでに懐妊。彼女が十三を迎えたときにはレティシアの出産を果たし、彼女が存命中の間は、皇王ダグラスの寵愛が揺らぐこともなかった。
・・・レティシアをお願いします。
ティアナは遺して逝くことになる娘の安否だけが気がかりであり、それだけが唯一に心残りであったのだろう。故にティアナの存在を心から愛していたダグラスは、その最愛の女性の手をとってこれを確約したのだ。
もし、あと五年もダグラスが若ければ、親子の禁を越えても可笑しくはないほどの溺愛ぶりであったそれだけに、残された彼の理性とティアナへの遺言のそれが未然に防いだともいえよう。
その皇王ダグラスの前に一人の少年が拝跪する。
短い銀髪の整った顔立ちをした貴公子風の若者であり、そのレティシアが侍従として発掘し重用していた人物、エリスである。
「フレア、わざわざご苦労であった」
病臥の自身に変わって派遣した娘の労を労い、ダグラスはその横に拝跪するエリスをゆっくりと見据えていく。もっとも愛しき女性との間で生まれた皇女の、レティシアの想い人ともあって、少しだけ複雑な心境を抱かずにはいられなかった。
謁見の間から第二皇女フレアが退出して、玉座には皇王ダグラス、それに拝謁するエリス。各部門の大臣が数名、居並ぶ廷臣と宮廷医師だけとなる。
「そう、畏まる必要はない・・・が、
こうしてそなたと話すのは、初めてであったな」
この一年。顔はこれまでに幾度もなく見た記憶はあった。レティシアや信頼するローレンから幾度もなく話を聞いていたこともある。だが、こうして直接に話をするのは、この日が初めてのことであった。
「今日はそなたの・・・アルビオン公国シアルフィーにおいての行賞を行うと思って、な。余の病状のために、今日まで遅れてしまったことを、まずこの場において詫びておこう」
皇王が謝罪を述べて頭を下げる。
これには居並ぶ廷臣たちを始め、拝跪するエリスも驚きの思いを禁じえなかった。
「お、お待ちください、皇王陛下・・・」
それだけにエリスは恐縮せずにはいられない。
「当時の自分は侍従であり・・・」
「ふふっ。功ある者を賞すは、君主の務めぞ?
そこに従者も騎士もあるまいよ・・・」
正論ではある。だが、当時のエリスはレティシアの侍従であり、簡潔に言えば彼女だけの臣である。例えエリスに功があっても、彼女から・・・レティシアの都合のうちから褒賞を賜るのが必然ではあった。
「無論、後ほどレティシアにも褒賞を与えることになるだろう。
ハルメド大臣。では、まずは彼への褒賞目録を」
大臣は了解を得て、皇王の署名付きの書状を開封する。
「まず・・・このエリスをローレン・ハルート男爵の家名を認め、ハルートの姓と男爵の爵位を与えるものとする」
この瞬間、エリスは最下級の男爵位とはいえ、ヴェンツェル皇国の貴族として迎えられたことを意味していた。これに前後してローレンにも子爵位が贈られている。
だが、エリスへの褒賞はまだ続く。
「続いてエリス・ハルートを、アルビオン公国シアルフィーにおける功績に対し、特例的に騎士として皇女付き騎士に加えるものとする」
「まずこれらはその功に対して、余からのささやかな気持ちである。快く受け取って貰いたい」
廷臣らエリスの前に三つの品を並べる。
一つは魔法金属ミスリル製の剣。しかもエリスに扱い易いように誂えさせた特製であり、ブロードソード並の長さに調整されてある。これは地上戦だけでなく馬上戦にも想定された短剣、ショートソードの一種だ。
真ん中には蒼色の鎧だった。それも機能性を重視した部分鎧であり、『対攻撃魔法絶対防御』という追加特性を持っている。材質はオリハルコンにアダマンタイト。軽量さを重視した部分鎧とはいえ、最高峰の一級品には違いないだろう。
最後に金貨が詰まった麻袋。それが三つ。エリスが一生遊んでも生活に困ることはない金額だった。
これらを与えるに当たって、一部の廷臣からは「余りに厚遇し過ぎでは」という声も確かに上がってはいた。皇王ダグラス自身にも大盤振る舞いした気がしなくもない。
勿論、皇王とて単に引き籠った皇女の心情を思って、エリスを騎士に叙任したわけではない。如何に最愛の女性との間で設けた愛娘とはいえ、それだけで栄光ある騎士団の栄誉を汚すような危険性は看過できなかった。
・・・だが、これでいいんだな?
生じた迷いに頭を振って振り払う。
それでも八年前の忌まわしき事故――かつて皇国最強とも言われた騎士団『ローゼンクロイツ』の一件を今でも忘れる日はない。
「・・・・」
ダグラスに決断を促したのは、彼自身がもっとも信を置いた人物の助言。ローレン・ハルートの推挙と進言によるものであった。かつては騎士団の副団長を務めあげ、カルマーン帝国の戦場では身を挺してまで忠誠を示した人物が保証したのである。
廷臣らの言葉や自身の思惑なんかよりも、そのローレンの進言に勝るものは何一つとしてなかった。
・・・・。
書状が大臣の手から廷臣の一人に手渡され、それがエリスの手へと渡る。そこには皇王ダグラス直筆の署名捺印によって、エリスの近衛騎士の証明書となり、この後の配属先・・・この少年が忠誠を捧げるべく人物の名前が記されている。
「では、これよりエリスの叙任式・・・忠誠の儀を行う。
エリスを除き全ての者はこの場から退出せよ」
忠誠の儀とは、騎士に任じられた人物が自らの剣に忠誠を誓約する儀式であり、恒例ならば重臣や廷臣らの前で行われるべき行事である。エリス自身、レティシアの侍従時代に立ち会った機会もあった。だが、皇王ダグラス自身が退去を命じている以上、その臣下にはそれに抗う理由はない。
こうしてエリスを除く人間が退去して、皇王と若き騎士の二人だけになると、ダグラスは玉座の前にある階段に腰を下ろし、初めて破顔した。
「こうも堅苦しいと肩が凝っていかんわな・・・」
「えっと・・・」
エリスと皇王の僅かな間には下賜された短剣があり、その目の前の短剣を持って皇王への忠誠を誓約しなければならない。銀髪の少年が恒例の風習に則って忠誠の姿勢を表そうとすると、皇王ダグラス自身が制止させる。
「あ、よいよい。
そなたの忠誠はレティシアに捧げてくれ」
「は、はぁ?」
「ふふっ。まだ私の真意が解かっていないようだな。
何故、君に貴族位を与えた、のかも・・・」
「・・・・」
銀髪の少年は無言のままに頷く。
・・・・。
聞いていた話の通りだな。
それだけにダグラスは微笑する。
確かに少年は素直であり、余りにも無欲だった。いや、皇族の娘と添い遂げたいと思った時点で無欲ではなかったかもしれないが、少なくとも素朴な性格であったことは否めないだろう。
ローレンにはレティシアを娶りたい、と公言していたらしいが、それまでの段階が余りにも漠然として曖昧なのだ。
確かにこれなら、あのような事態にはなるまい。
・・・・。
・・・あのような悲しき事態に。
「・・・・」
ダグラスがエリスに貴族位を与えたのも、後に彼がレティシアの想いを汲んで娶れるためのその下準備であり、娘の騎士として数年・・・例えその間に戦功がなくても、ダグラスはレティシアの婿に据える腹積もりだったのである。
・・・・。
謁見の間を退出した後、エリスは宮廷の廊下でただ唖然とせずにはいられなかった。手にはこれから忠誠の儀を行うべく下賜された短剣。そして皇王ダグラスの直筆による騎士任命書がある。
「・・・・」
騎士になりたい、と思ったのは二週間前のこと。カルマーン帝国の騎士アーレスの助言に従い、いずれはレティシアと添い遂げたいがためだけに。
そのためにレティシアの侍従を辞して、騎士養成所に入所したはずだった。
だが・・・
『娘・・・レティシアを頼むな・・・』
皇王ダグラスの言葉がエリスの脳裏に甦る。
しかも皇王はエリスに確約したのだ。
『これは公にはできぬが、婚約者として数年・・・』
『数年・・・その間に戦功がなくても、娘を与える』
『またそれを周囲にも認めさせるがための、その貴族位だ』
とも。
侍従時代にも見慣れた扉の前に佇む。
皇居を護る近衛に呼び止められることもなかった。恐らくは皇王が配慮して手配してくれたのであろう。
侍従時代のエリスなら、門前で官姓名、そして来訪目的を問われていた。皇王や皇族らが居住する皇居を守護するのである。当然の対応ではあろう。
「・・・・」
こんなにもすぐに騎士になれるとは思っていなかった。
こんなにも簡単に、皇王から認められるとも・・・
皇居において唯一に知る部屋の扉が目の前にある。
そこはレティシアの私室であり、皇都フレンツェにあるときは、この扉の前で彼女の出発を待つのが彼の置かれた立ち位置であった。
だが、今は・・・今の自分は違う。
一年前のただの侍従でしかなかったエリスは、レティシアだけの騎士となっていた。そして皇王ダグラスに公認された婚約者という立場も得ている。
・・・それまでにレティシアの変わらなければ、という条件付きではあったが。
それだけにノックするのも躊躇われた。
レティシアに嫌われなければいい。愛想さえ尽かされなければ・・・このまま数年ほど遣り過ごすことができれば、エリスはレティシアと添い遂げることが許されるのである。
少年が逃げ出したい心境に駆られるのも当然のことであった。
扉の前で逡巡していたのは、僅か数秒のこと。
だが、それだけに・・・
「エリス!!」
「は、はい・・・」
突然、自分の名前を叫ばれて扉が開けられてしまうと、ただただ唖然と返事をすることだけしかできなかった。
目の前には彼が仕えるべく主君であり・・・
『皇国の至宝』とも呼ばれた超絶の美少女でもあり・・・
少年が忠誠を尽くすべく少女でもあり・・・
そしてエリスの婚約者となった・・・
彼にとっても愛しき、レティシアの姿があった。
・・・・。
無性にエリスに逢いたくなっていた。そして一度そう思ったら、居ても立っても居られなくて・・・気が付けば既に外装の準備を終えている自分に気が付く。
今から逢いに行っても・・・・いいよね?
皇都内とはいえ、一人で出歩く時間には少し遅すぎたかもしれない。今朝方に今日の予定を伺ったローレンにも何も告げていない。侍女のマリーダも浴室で異母妹たちの世話で退出したまま。
でも、レティシアは時折、不安になる。
もしかしたらエリスが心変わりしてしまうことに。会えないうちに新しい出会いがあって、自分のことなんて忘れてしまう、そんな不安。人の心が絶対でないで以上、その可能性が全くない・・・なんて誰にも言えないのだ。
そしてこうしている間にも、別の美少女たちが(しかも胸が大きい)現れてエリスを誘惑している可能性だって・・・
「そ、そんなの・・・嫌ぁ・・・」
エリス・・・
(エリス・・・)
「エリス・・・」
今すぐ会いに行こう。
そして侍従や騎士という立場に関係なく、定期的に――できれば毎日――顔を合わせられるようにしよう、と心に決める。
「エリス!!」
その切実なまでの思いを扉の引手に伝えて開く。
「は、はい・・・」
えっ!?
?????
レティシアの求めた人物そのものが、引き開いた扉の前に佇んでいた。
・・・およそ二週間ぶりの再会であった。
銀髪の少年が片膝を付けて跪く。
(エリス・・・)
二週間ぶりだった。それは決して永くはないはずの期間。だが、それでも彼に恋焦がれる少女にとっては、十分に永過ぎる日々でしかなかった。
「汝の願いに報いて、我が騎士とたらん。
我が言葉なく罷免されることなく、
我が許しなく地位を離れることも叶わぬ。
汝の全てを持って我に仕えよ――それを誓うか?」
「・・・この剣に誓って、我が忠誠の全てをレティシア皇女殿下に捧げます」
レティシアから託された剣を受け取り、エリスが忠誠を約した。この儀式によってエリスがヴェンツェル皇国の騎士であらんとする限り、レティシアに忠誠を捧げなければならない。
またこの誓約を解除できるのは、レティシア以外には皇王ダグラスのみであり、もしくはエリス自身が騎士団から除名され、彼の騎士権そのものが剥奪される、それ以外にない。
アイスブルーの瞳に涙が浮かぶ。
(エリス・・・)
「・・・・」
エリスが既に騎士になっていたこと。
しかも私だけの騎士に、だ。それは以前の侍従時代よりも更に身近な存在になっていたことを意味する。
これから、また毎日、エリスに会うことができる。
しかもレティシアが解任にしない限り、彼は私だけの騎士であり続けなければならない。
それだけに小さな胸の鼓動が高鳴った。
・・・彼の一生を独占。
エリスの全てを束縛できるかも、と思うと・・・
――ちょうどその頃・・・
そこは皇宮でも彼女に――第二皇女フレア・フォード・ティア・ミステルのような絶世の美少女に似つかわしくない場所だっただろう。
「ご苦労様です」
「これが皇王の認可証です」
敬礼する衛兵に監禁されている人物との面会を求める。
「確かに」
無論、それは正規の手続きで得た認可証ではない。ただし偽物でもない。彼女の政治的な権限によって発行された文書である以上、衛兵には面会を妨げることはできない。
二重の錠前を開錠させ、目的の人物と対面を果たす。
「・・・・」
その人物を一言で表すのなら、野獣。
まさに野蛮的な猛獣であり、もしくは獰猛な野獣を彷彿させることだろう。だが、それだけに眼光は鋭く、その迫力は十分。屈強な騎士たちを従えていなければ、皇女でさえ竦み上げるほどに。
「・・・ベルガー元侯爵ですね?」
――ジェイド・ベルガー元侯爵。
それはヴェンツェル皇国でも悪名高き存在。
かつては皇国内最強とも謳われた『ローゼンクロイツ』
その最強騎士団、最後の団長を務めた人物の・・・
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