第零話『もう一つの序曲』

 

 喫茶店『マリオン』

 それは俺が店主を勤める小さな喫茶店の名前であり、首都圏のとある駅前にある、こぢんまりとした雰囲気の良い店舗だと思う。高校や大学が比較的近くにあ ることもあって、学生の利用客も少なくない。

 うん。いい感じの雰囲気だな・・・

 それは以前、俺がバイトしていた喫茶店『エコーズ』によって培われてきたものであったかもしれない。

 お勧めはやはり数十種類に及ぶ豆を厳選して拘ったコーヒーだな。

 そんな数十種類のコーヒーを振舞い、この優しい空間をお客様に提供する。

 それが俺の役目だった。

 そう、俺の毎日の・・・



「へぇ〜珍しいわね。クラシック?」

 出資金を出してくれたオーナー(彼女)も上機嫌だった。

 今日は随分とゆっくりとした朝であるらしかった。

「うん。最近流行っているらしいからね」

 俺は彼女のためのコーヒーを用意して、コースターに乗せた。

「まぁ、最後のボーナストラックがポップスなんだけど・・・凄くいい曲なんだよ、これ・・・」

「へぇ〜〜♪」

 彼女は綺麗に陳列されてあったCDケースの棚から、目当てのケースを手にすると小さく呟く。

 ・・・『峰城大付属軽音楽同好会』、『時の魔法』と。



 国際ピアニストの『冬馬かずさ』が来日し、追加公演とほぼ時を同じくして売り出された彼女の写真集に同封されてあったアルバムであり、何処もかしこも売 り切れ殺到を起こし、追加で再生産されても手に入れることは困難だったともいう。

 かくゆう俺もインターネットで予約して、何とか手に入れることができた次第なわけだけど。





「お父さん、お母さん、行ってきまぁす〜」

「あっ、お姉ちゃん、待ってぇ〜」

 もうすぐ中学生にもなる娘の、そんな姉妹が慌ただしく登校していく。

「いってらしゃい」

 俺は娘たちの元気な姿を見送って、再び彼女が待つカウンターに戻る。

「もう、あんなに慌てちゃって・・・一体、誰に似たのかしらね」

「ん、少なくとも・・・俺じゃ、ないよな?」

「・・・・」

 彼女は少し頬を膨らませて拗ねる。

 そういう可愛いところは今も変わっていない。

「ところで理奈ちゃん。もうすぐ八時だけど・・・今日の予定はまだ大丈夫なの?」

「うん。今日はほとんど一日オフなもんね」

 あ、だから今朝はこんなにゆっくりなんだ。

 だったら、昨日のうちに言ってくれれば良かった、のに。

「だから今日は・・・とことん冬弥くんとデートね」

「・・・いや、お店があるけどな・・・」



 彼女は未だに俺のことを『冬弥くん』と呼ぶ。

 もっともその俺にしても、妻の彼女を未だに『理奈ちゃん』と呼んでいるのだが。

 それには幾つかの理由もあるのだけど・・・とりわけ、そのうちの一つが、彼女が未だに現役の『歌手』・・・アーティストだということが挙げられるだろ う。

 『緒方理奈』・・・それが彼女の芸名であり、そして旧姓でもあった。



 俺と結婚してから五年が経過し、俺の強い要望もあって、音楽芸能業界に電撃復帰した彼女は、それ以降、常にトップ歌手としての座を守り続けている。つい 先月もアルバムを一枚発売しており、先週までこの店内に流し続けていたものだったが・・・



「white album・・・」

「えっ?」

「これもホワイトアルバム、っていうのね?」

 理奈ちゃんは手にしていたCDのジャケットを俺に見せた。

「そ、そうだね・・・」

 無論、俺がそれを知らなかったはずがない。

 そもそもこのCD(写真集だけどな)を購入する気になったのは、その名称にあったのだから。そしてまさか、そんな俺も・・・そして理奈ちゃんでさえも、 この名称の由来が、本当にあの『white album』にあったなんて解かるはずがなかった。

 あの『森川由綺』が歌った、あの『white album』に。



「・・・・」

「やはり、彼女のこと・・・思い出した?」

「い、いや、そんなこと・・・ないよ・・・」



 ・・・嘘だった。



 俺が森川由綺と最後に会ったのは、あのCDショップで偶然に再会し・・・そして本当に最後の別れともなった、あの日のことだった。

 俺と理奈ちゃんの関係を知って・・・それ以来の、久しぶりの由綺だった。

 その際に彼女から手渡された一枚のアルバム・・・

 森川由綺と緒方理奈による、最初で最後のコラボレーションアルバム。

 その楽曲の中にある、二人の『powder snow』を。



「・・・・」

 今も店内にあるCDケースの棚のお気に入りスペースに保管させておきながら、俺は一度としてそれを掛けることができなかった。



 きっと泣き崩れてしまうのが、とても怖くて・・・

 未だに彼女を忘れることができない、そんな自分の存在が・・・



 ・・・とても、怖くて。


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