第一話『過去と現在と未来と』 (視点・北原春希)

 

 俺は正直、困っていた。

 うん・・・た、確かにさ。黙っていたのは、俺が悪いと思う。

 でも、わざわざ雪菜に報告するようなことじゃなかった、と思うし、彼女が入社してから、まだ僅かに二週間・・・俺自身もまだ良くこの状況を受け入れられていなかったからだろう。

「あの娘、可愛いもんね・・・」

 ふーんだぁ、春希くんの馬鹿、と拗ねる雪菜。

「はぁ・・・」

 俺は深い溜息を漏らさずにはいられなかった。

 ・・・これが、新婚旅行当日の雰囲気とは思えない、それだけに。



 艶やかな栗色の長い髪。息を呑むほどに整った端整な顔立ち。恐らくは誰もがときめくであろう、そんな存在だった。

 旧姓『小木曽雪菜』という彼女は・・・

『信じられないよ・・・あの高嶺の花が、わざわざ俺なんかの目線まで下りてきてくれて・・・微笑んでくれて、さ・・・』

 それは付属時代における俺の正直な感想だった。

 そう、彼女はまさに高嶺の花だった。

 彼女が『北原雪菜』と姓を改め、俺の妻となっても・・・



「なぁ、雪菜・・・」

「・・・別に怒ってないよ?」

 と言いつつもちょっと頬を膨らませる彼女。

 うっ、なんか可愛い・・・って思っている場合じゃないな。

 この不穏な事態の発覚は、結婚披露宴のときのことだった。

 雪菜の心象を悪化させた、彼女の名前は・・・『杉浦小春』

 俺にとっての彼女の存在は、『峰城大学文学部』の後輩であり、かつてのバイト先の一つだった『グッディーズ』の後輩であり、そして現在は・・・俺の勤める『開桜社』のバイトに・・・しかも俺が所属する『開桜グラフ編集部』となったことで、職友でもあった。

 勿論、雪菜にとっても、彼女は決して無縁な存在なんかではない。

 雪菜の弟の孝弘君の級友であり、何といっても、俺と雪菜が復縁できた関係各所の一つを積極的に担ってくれた、超重要人物の一人でもあるだから。

 杉浦がいたから俺は前向きに立ち直ることができて、彼女が余計なまでのお節介を焼いてくれたから、俺はかつての自分を取り戻すことができた。

 自分にとって雪菜が、どんな存在であるのか、を・・・

 当時、どれだけその雪菜を傷つけていたのか、を・・・

「・・・・」

 だから、といって・・・俺としても違和感を憶えずにはいられなかった。

 付属高校と大学の後輩、そして彼女の教育係ともなったグッディーズでは、確かに偶然の産物ではあっただろう。それを非難することは、雪菜や俺でさえできない。

 だが、大学進学後に彼女がバイトを選んだのが、かつて俺が教鞭をとったこともある進学塾の講師、そして卒業後に俺が就職した『開桜社』とあっては、いくら鈍感な俺でなくても、故意に追いかけられている、と認識する。

 そして何より、気になるのは・・・その杉浦の姿だった。

 あれは、まるで・・・





「なぁ、雪菜。いい加減に機嫌を直してくれよ・・・」

「・・・・」

「本当に杉浦とは何も無いんだから、さ・・・」

「・・・・」

 空港へ向かうエクスプレスの中でも、雪菜は無言のまま、まるでとっても不機嫌ですモードを継続している。そしてこれを放置しておくと、とんでもないことになるのは、これまでの俺の体験が教えてくれている。

 とにかく雪菜は負の感情を内に溜め込んでいく傾向にあるのだ。

 かつてはその優しさによって、俺に自滅してしまったように。

 だから、今の俺は雪菜だけを見て、雪菜だけに心を砕かなければならない。



『俺の命を捧げます。

 ・・・自由に使ってください』



 それは俺が彼女に求婚したときの決意だ。

 そしてそれは本当に嘘偽りのない、俺の本音でもあったのだから。



「ほら、俺の一生は雪菜のもんだから・・・」

「・・・・」

「当然、旅行中は何でも雪菜の言うこと、聞くぞ?」

「・・・・」

「向こうに着いたら、雪菜の好きなことをしよう、な」

 夏のボーナスも入ったことだし、とりあえず資金面には不安はない。

 また岡山の親父(既にお袋とは正式に離縁が成立しているから、正確にはもう父親との縁は切れているのだが)にも、結婚することだけは告げて、親父なりのせめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだろう。

 かなりの金額の援助を受けることができていた。

「彼女、可愛いもんね・・・わたしよりも可愛いもんね・・・」

「そんなこと、ないって・・・」

 はぁ・・・。

 付属時代には『ミス峰城大付』であった雪菜と付き合うことによって、付属の男子生徒全員を敵に回した。大学では最後の一年間だけであったが、その雪菜と復縁することができたことによって、大学の男子全員を敵にした。

 自分の容姿に無自覚、ってのは、確かに雪菜の美点なんだけど。

 そしてそんな境遇は、彼氏だけの特権でもあったわけなんだけど。

 ・・・でも、少しは自覚して欲しいか、な?



「・・・もし本当に、雪菜がそんなに杉浦のことが嫌なら、さ・・・」

 だから俺は、遂に伝家宝刀を抜く。

 ・・・って、それほど大層なもんじゃないけど。

 でも、これは本当に男にとって、深刻なほどの発言ではないだろうか?

「俺は開桜社を辞める・・・」

「えっ、ちょ、春希くん!!」

 さすがの雪菜にも、その俺の発言の意味を・・・その深刻さに込められた言葉の意味を理解してくれたのだろう。

「わたし、さすがにそこまでは・・・言ってないよ?」

「でも、雪菜が嫌がるんだから、俺は・・・」

「ううん。ごめんなさい。少し・・・わたしも我儘だったよね?」

 少し・・・か、どうかは微妙なところだったけど。

 これで雪菜の機嫌が直るのだったら、余計な言動は慎むべきだった。



 まして、ここ最近の雪菜は・・・情緒が少し不安定なのだから。

 ・・・・。

 原因は解かっている、と思う。

 いや、それしか考えられなかった。

 かずさが俺たちのところに帰ってきた。

 五年前、異国の地に去ったあいつが・・・

 そう、本当にあの頃の俺たちに戻ることができた。

 そして、雪菜を悉く傷つけてしまった、あの『三人』に。







 ――五年前――



 『付属祭』をおよそ一か月前に控えて、俺がギター見習いとして所属していた『軽音楽同好会』は、当時からの親友であり、そして当時は悪友でもあった『飯 塚武也』の軽率な勧誘によって・・・それに勧誘された『サークルクラッシャー・柳原朋』の存在によって、同好会は完全空中分解の憂き目にあった、そんな直 後だった。

『・・・・』

 よし。

『・・・これが、俺のラストステージ・・・』

 だから、これが最後の演奏とばかりに弾いた一曲だった。

 それが『white album』だった。

『やっぱり・・・いるんじゃん。

 今日も・・・今日までありがとう、な・・・』

 隣の第二音楽室のピアノに、俺は心の底から感謝の言葉を述べた。

 そして、こんな稚拙なギターに今日も付き合ったくれた第二音楽室のピアノの完璧なまでの伴奏。だから、たとえステージに・・・『付属祭ライブ』に参加できなくなってしまった、としても・・・もう、悔いはなかった。



 なかった・・・はず、だった。

『〜〜〜♪』

 このギターとピアノのセッションに合わせて、軽やかに歌ってくれた存在がなければ・・・



 その屋上で歌っていたのは、『ミス峰城大付・二連覇中』の『小木曽雪菜』であり、第二音楽室での伴奏は・・・俺の隣の席の、いつも無愛想なあいつ・・・『冬馬かずさ』だった。



 かくして俺は・・・小木曽瀬雪菜をヴォーカルとしてなんとか勧誘し、それから冬馬かずさを強引に引き入れることに成功した。

 それが『付属祭』まで、二週間を切っていたときのことだった。



 ・・・それからも色々なことがあった。



 武也には裏方(打ち込み)に回って貰ったり、無断外泊も・・・(音響設備の整った)冬馬邸では合宿を行ったりもした。

 最初の一曲目・・・『white album』を合わせられたのが、一週間前のこと。二曲目の楽曲に決まった『sound of destiny』、その超難度ギターソロをマスターできたのは、その前々日のことだった。

 学祭直前には、かずさが風邪でダウンすれば、俺が慣れない看病に付き添ったり、そのため前日の予行演習(リハーサル)のステージに、一人で立たされた雪菜は全く歌えなかったり・・・と。

 『届かない恋』

 三曲目。ラストナンバー・・・そう、俺たちのオリジナル。俺が作詞して、かずさが曲をつけて、雪菜が歌う・・・俺たちだけの。

 学祭当日・・・『付属祭ライブ』の前日のことである。このため、本当にそれからの二十四時間は、練習漬けの・・・そんな一日だった。



 ・・・だから、だろう。



 そんな充実した時間であり、俺たち『三人』の絆を深めて・・・あの『付属祭ライブ』のステージは、確かに最高の瞬間だったんだ。

 ・・・あの瞬間こそ、俺たちが本当の意味で『三人』でいられた、本当に楽しかった瞬間だった。

 そして、この日を境に・・・

 俺たち『三人』は・・・俺たち『三人』の崩壊が始まっていった。







「あっ・・・」

 俺と雪菜は成田空港に到着して、俺は・・・いや、雪菜にとっても、決して忘れられないであろう、その位置で足を止めてしまった。

「っ・・・」

「・・・・」

 そこはかつて、俺が雪菜の目の前で裏切ってしまった場所。

 ・・・そう、決定的に。

 雪菜の目の前で、かずさを抱き締めて・・・そしてキスをした場所だった。

「せ、雪菜・・・ごめん・・・」

 ・・・あれから五年の歳月が過ぎた。

 だが、あの光景は恐らく・・・雪菜には忘れ難い、いや、一生忘れることができないものであろう。

「っ・・・」

「そして・・・ごめん・・・」

「・・・えっ?」

 俺は手にしていた荷物を落として、公然の場所にも関わらず、雪菜の身体を強く抱き締めた。

 ・・・五年前に、かずさにしてしまったように。

 ・・・その記憶が忘れられないものである以上。

 俺は絶対に許されてはならない。

 俺は償わなければならない。

 ・・・雪菜だけ、に。

「んっ・・・」

 俺はそのまま雪菜の唇を奪った。







 ・・・かつて、俺の行動は悉く雪菜を傷つけてしまった。傷つけ続けてしまっていた。お互いに好きだ、と言って付き合い始めたのに・・・俺はかずさへの想いを決して忘れることができなかったのだから。

 雪菜との関係を深めながら・・・かずさの存在を求めてしまった。

 雪菜の誕生日パーティの日には・・・必ず行くから、という約束を破ってまで、彼女に嘘を吐いてまで・・・俺はかずさと会っていたのだから。



 ・・・酷い話だ。

 なんて男だ、と自分ながらに思う。

 だが、俺の裏切りはこれだけに留まらない。

 俺が初めて「冬馬」を「かずさ」と呼んだあの日・・・俺は雪菜からの着信を知りながらも、かずさの姿だけを追い求めて、そして彼女を抱いて・・・



 全てを話しても、雪菜は俺を責めなかった。

 酷い裏切りなのに・・・彼女は絶対に俺から離れようとはしなかった。

 そして・・・

 かずさが日本を去り・・・二人ではなく、一人と一人が日本に残された。





 大学に進学した俺は・・・それでも許して、そんな最低男に優しくしようとする雪菜を避け続けた。彼女の慈愛に満ちた優しさが辛かった。とても許せなかった。たとえ彼女が俺を許しても、こんな自分を自分が許せなかった。



 そんな状態が三年半も続き・・・俺は無論、雪菜もボロボロだった。

 特に雪菜の精神状態は・・・深刻なまでに。



 付属時代からの親友だった飯塚武也、水沢依緒。

 『開桜社』のバイド時代の上司だった、風岡麻里さん。

 付属時代には俺とも雪菜とも縁があった、一つ後輩の柳原朋。

 あらゆる意味で後輩となった、杉浦小春。

 ・・・そしてこれは俺も与り知らないところだったが、和泉千晶の干渉にもよって、俺たちのボロボロだった関係は、次第にゆっくりと修復されていく。

 勿論、それまでにも、それからも失敗はあった。だから改善をした。それまでにも困難がいくつもあった。でも結局は立ち向かった。

 ・・・二人で立ち向かうしかなかったのだ。



 それが・・・『大学祭』の『バレンタインコンサート』

 俺のギターと雪菜だけの、二人だけの一日限定のユニット。

 そして雪菜の誕生日であり・・・

 俺と雪菜が初めて結ばれた日でもあった。



 こうして三年前に壊れてしまった俺と雪菜の絆は、およそ三年の歳月を経てゆっくりと修復していく。特に深刻なほど精神的に参っていた雪菜には、リハビリという時間がどうしても必要不可欠だった。





 そして更に二年後・・・

 異国の地で俺とかずさが再び出逢ってしまったとき、壊れてしまったはずの三人の絆が・・・三人の時間がゆっくりと動き出していく。

 ・・・相対的に、雪菜を傷つけることによって・・・



 再び三人になっても、色々なことがあった。



 かずさの日本初公演の失敗。それに前後して冬馬曜子の白血病の発覚。それに伴う、かずさの失踪事件。

 そんなかずさを俺は受け入れることができず、そのためゆっくりと崩壊していく、かずさと俺の精神状態。

 もう・・・どうにもならなかった。自暴自棄となっていくかずさ、それを支えきれない俺の未熟さ。俺の精神状態も限界だった。そこで雪菜が瀬戸際まで踏ん張って・・・俺を救って、そしてかずさを立ち直らしていく。



 かずさが立ち直った後の一週間は、今、思い返してみても地獄のような七日間だっただろう。恐ろしいほどに多忙で、まさに寝る間も惜しむようにがむしゃらで・・・そして楽しくも、そんな毎日が充実していた日々だった。

 ・・・だって、俺たちが本当の意味で『三人』に戻ることができた、そんな瞬間だったのだから。







 雪菜は・・・許してくれた。

 こんな最低男の悪行の数々を・・・

 生涯、彼女の傍にいることを・・・



 俺には初めから、雪菜しかいなかった、というのに・・・







「なぁ、雪菜・・・」

 飛行機に搭乗しながら、俺は雪菜に問いかけた。

「んっ、春希くん、どうしたの?」

「俺は・・・杉浦を振るべきか、な?」

「えっ?」

 これは少し、おかしな話だったかもしれない。

 俺は別に杉浦から告白されたわけではないのだから。ただ彼女が俺の後を追うようにしているだけで、傍から見れば自意識過剰とも受け取れられなくもないだろう。

 しかし、俺は杉浦の状況が気になっていた。

「・・・似ているんだよ、彼女が・・・仕事に、バイトに逃げていたころの俺の姿に・・・大学時代の俺の・・・」

 俺の敬愛する当時の上司は、俺にこう言った。『仕事に逃げるなよ、恋の傷は恋で癒せよ』と。確かにその上司が指摘したように、当時の俺はまるで自己破滅を自らに望むような、そんな無茶ぶりを繰り返していた。

「俺が雪菜を避けるようにしていた、あのころの俺に、さ・・・」

「春希くん・・・」

「まぁ、これが俺の思い違いだったら、ただ痛いだけだけどなぁ・・・」

「・・・・」

 俺は疑念を隠すように笑って見せた。

「ねぇ、春希くん。帰国したら・・・わたしに彼女と話をさせて貰える?」

「えっ?」

 ・・・雪菜が、杉浦に?

「お願い」

「ん、解かった・・・」

 俺には雪菜に対しての拒否権はない。

 俺の人生を彼女がどう扱おうと、俺はもはや異論を挟まない。

 俺はもう彼女の我儘を全て受け入れる。彼女の主張そのものを全て受け止めるのだと、既に決めたのだから。

 ・・・だから。

「とりあえず、旅行中は杉浦のことを忘れよう。旅行中の間は・・・俺は、雪菜のことだけを考えるように、そうしたいから・・・」

「っ・・・は、春希くん・・・」

 そんなストレートな物言いに頬を染める雪菜。

 指を絡めて握り合っていた手にも熱がこもった。





 飛行機が目指す地は・・・俺たちの新婚旅行先は、妥当に『イタリア』であり、『ナポリ』『ローマ』『フレンツェ』『ミラノ』『ヴェネツィア』と廻って、滞在期間の予定は一週間だった。



 ・・・だから、この一週間、俺はひたすらに雪菜のことだけを考える。

 そして一週間が経てば、再び穏やかな日常が始まる・・・そんな日常に戻れるのだと思っていた。

 ・・・穏やかな、俺と雪菜の新婚生活に。



 ・・・だが、それが甘い幻想だったのだと、俺は痛感することになる。



 事態はゆっくりと、そして確実に時を刻んでいた。


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