第二話『始動』(視点・冬馬か ずさ)

 

「・・・・」

 防音が完備された室内にはピアノの音だけが響いていた。

 んっ・・・

 また鍵盤の上に置かれた時計に目が奪われてしまった。

「いけない、いけない・・・」

 明々後日からはいよいよ、およそ一ヶ月間をかけて日本横断となる夏のサマーコンサートが始まる。そのためにも、今日には北海道へ出発しなければならず、 今は追い込みをかけている、その最中のこと。

 だが、先ほどから集中力が欠けているのは顕著だった。

 一曲を弾き終える前にも時計に目が奪われているのが、その証拠だろう。

「・・・・」

 別に出立時間を気にしていたわけでも、まして練習時間を気にしていたわけではなかった。

 ・・・なぁ、そろそろ成田だよな?

 昨日、結婚披露宴を行ったばかりの二人だった。

「っ・・・」

 ・・・・。

 くそっ。とても集中なんてできるかっ!

「・・・・やめっ!」

 あたしはピアノの鍵盤を閉じると、深い溜息を洩らした。

 調子は決して悪くはない。そもそもあたしがピアノを弾く、ということは、春希を思い浮かべて、語りかけていることと同意である。

 既に雪菜のものになってしまった、あいつを・・・



「母さん、美代子さん。あたし、先に・・・あれっ?」

 先に帰るにしても一声かけておこうとして、来客中だったことに初めて気が付いた。

「来客中だった?」

「あ、かずささん。こちらは開桜社の、・・・」

「ああ、あいつんとこの・・・」

「勿論、愛しのギターくんは来てないわよ?」

「ば、ばかぁ・・・言うなぁ・・・」

 もう雪菜のものになっている、と頭では解かっている。解かっているんだけど、どうしても顔の熱さだけはどうにもならない。

「初めまして、私、開桜社の浜田と申します。いつも北原のやつがお世話になっております・・・あっ、そして、こちらがバイトの・・・」

「杉浦小春です。よろしくお願いします」

「彼女、峰城大付属出身らしいわよ?」

「あっ、じゃあ、あたしの後輩でもあるんだ・・・」

 このまま挨拶だけして帰るのも気まずかったこともあり、あたしも母さんの横に着席した。これまで春希以外の取材は悉く失敗・・・あたし自身の評判を落と すばかりか、ただストレスだけを溜めるだけのものでしかなかったが、まぁ、あいつの会社ならそんな心配もいらないだろう。



「では、かずささん、ずばり・・・明々後日から始まるサマーコンサートに向けての意気込みなどお聞かせ願いますか?」

「意気込み、ねぇ・・・」

 今更、って気もするけど・・・

「あたしはただいつも通りに弾くだけ・・・ですから」

「では、どんな心構えで弾いてらっしゃるのでしょうか?」

「んっ・・・」

 浜田・・・年齢的に恐らく、春希の上司であろう人物はあたしの素っ気ない言葉や態度などお構いなしに質問を重ねてきた。

「心構え、というか・・・あたしはいつも、一人の人物だけを思い浮かべて、その人物に聞かせたくて、口下手なあたしの代わりに語り聞かせているような、そ んな感じ、かな?」

「ほぉ・・・」

「それは北原先輩のことですかっ!?」

「えっ?」

 あたしは思わず驚きを禁じえなかった。

 それまで(恐らくは研修なんだろう)ずっと沈黙していた彼女・・・杉浦という記者の一言はあたしの胸中を見事に射抜いていた。そしてその彼女の発言に少 なくない怒気が含まれていたことにも、あたしには気になってしまっていた。

「な、なんで・・・」

「わたしは多少の事情に精通しています・・・北原先輩と小木曽先輩、二人のことを知っています」

「・・・・」

「これっ、杉浦、口を慎めっ・・・」

 浜田という上司が彼女を戒めるように諭していたが、あたしは一向に構わなかった。むしろ、彼女のような存在を求めていたのかもしれない。

「・・・今はもう小木曽じゃなくて、どちらも北原、だけど・・・な?」

「あっ・・・」

 あたしはさり気無く彼女の間違いを指摘して、言葉を続けていた。

「ねぇ・・・あんたの知っている、あたしの知らないあいつらを教えてくれない、かな? 勿論、取材時間は別に引き伸ばしてもいいから、さ・・・」

 あたしは来日するまでの春希、雪菜の事情をそれぞれから聞かされてはいたが、いずれも当人の口によるものでしかなかった。だから、当人以外の・・・彼女 の口から、あたしが五年前に日本を去って、残された春希と雪菜がどうなっていたのか、どうやって二人は再縁したのか、を知りたかった。当人たち以外の口か ら聞きたかった。

「解かりました・・・って言っても、わたしもお二人を詳しく知ったのは、北原先輩たちが大学三年時だったころのことになりますけど・・・」

「うん・・・」



 あたしと杉浦という可愛い記者は隣室の別室に移動して、その間、浜田記者の対応は母さんと美代子さんに委ねた。



 あたしが聞かされた話は、当人たちから聞かされていたそれ以上に、もっと深刻で重々しいものだった。

 ・・・普段の春希は温厚かつ模範的な人間性をそのままに、極端なまでに人間不信に・・・特に自身に好意を向けられることが耐えられなかった、許せなかっ たらしい。

 ・・・本当に、あの春希が?

 一方の雪菜のほうも、そんな春希に悉く避けられ、深く傷つけ続けられてしまった結果、遂には自分の本心を擂り潰してしまっていた。付属時代に、あたしに 見せてくれていた本当の雪菜が・・・あたしがピアノに失敗し、支えとなっていた母さんが不治の病に侵され、自暴自棄になったあたしを立ち直らせる際には奮 闘してくれた、あの・・・雪菜が。

 ・・・・。



『本当に・・・大変だったんだからな?』

 かつて春希は当時のことをそう言っていたが・・・そんな一言で済ませられるような、とてもそんな内容ではなかった。

 そ、そんな・・・

 とある一件から春希が先に立ち直ると、ゆっくりと傷心の雪菜と向き合うようになっていったらしい。そして一度の失敗にめげずに・・・

 毎日、雪菜に電話でギターを聞かせ、ゆっくりと・・・歌えなくなってしまっていた彼女に、再び『歌』を取り戻させるために・・・



 それが一日限りとなった『峰城大付属軽音楽同好会』の、二人だけの限定ユニットとなった、主な経緯。



「わたしが知っているのは、こんな感じですけど・・・」

「・・・・」

「ですから、もう雪菜先輩を悲しませるようなことは謹んで欲しいんです」

「・・・うん、解かっているよ。あたしも春希は、もう雪菜のもんだって認めているんだ」

「えっ?」

「決着はついたんだよ、あたしと雪菜では・・・」

「そ、そうだったんですか・・・」

「・・・・」

 彼女はそんなあたしの心情を察してくれたのだろうか、途端に語尾が弱々しくなっていき、重ねて謝罪を口にしていく。

 何故だろうか・・・そんな彼女と話していると、春希を特に思い出してしまうのは・・・

 彼女があたしの知る人物(部長など)らに『小春希』と呼ばれていた所以を知る由もなかったのだけど。





 あたしと杉浦さんの密談が終わったあと、再び室内に戻ってきたあたしに浜田記者が尋ねてきた。

 母さんは体調(白血病のため、無理をさせられないため)が思わしくなく、美代子さんに寄り添って貰って、先に退出させてもらったこともあり、残りの取材 はあたしが請け負うことになった。

 あたし一人を残すことに、物凄く心配そうな顔をしていたけど・・・



「それでは・・・もう一つの、冬馬かずささんが所属する『峰城大付属軽音楽同好会』についてお聞きします」

「あっ、ちょっと待って・・・」

 あたしはその言葉を遮って訂正する。

「あたしが所属している同好会ではなく、あくまであたしたち三人が揃って初めての同好会、だってことを理解して欲しいんだけど・・・ちょっと細かいけど、 さ」

「解かりました・・・」

 完全に理解はして貰っていなかったと思うけど、とりあえずあたしの主張を受け入れてくれたらしい。

「それではかずささんから、メンバーの紹介をお願いしてよろしいですか?」

「メンバーの・・・?」

 あたしは思わず問いかけていたが、それはそうであろう。

 現在、『峰城大付属軽音楽同好会』において素性が明らかになっているのは、あたし一人だけである。そう遠くないうちに・・・二人を引き込むつもりでは あったけど。

「それじゃあ、まずはヴォーカルの『SETSUNA』から」

「お願いします」

 浜田記者はボイスレコーダーをセットして伺ってきた。

「ヴォーカルの『SETSUNA』は、あたしの親友で・・・ただ一人の男を奪い合って、あたしから奪い取った・・・あたしにとって不倶戴天の恋敵・・・っ てところかな?」

「・・・こ、これはオフレコ、ですよね?」

「んっ、真実のことだから、別に隠す必要はないよ?」

 あたしはそんな断りを遮って微笑した。

「次にギターの『HARUKI』は・・・あたしが唯一に愛する、そして唯一に愛した男で・・・そしてあたしを振った、最低な男だね」

「・・・こんな暴露記事、曜子さんに通りますかね?」

「あの人なら、ケラケラ笑って了承するね、間違いなく」

 娘のあたしが保証する。

 母さん自身からして、良く言って『恋多き人』である。まして数年前にも失礼極まりない(北原の)記事を、ゲラゲラ笑って承諾したほどである。

「・・・読者が、これを信じますかね・・・」

「ん、それも問題ない・・・」

 あたしは微笑む。これこそ会心の微笑みだっただろう。

 次の『開桜グラフ』が発刊されるころには、恐らくそれと前後して、あっちも発売されるころだから。

 あの二人を完全に、こっちの世界に引き込むための、あれが。





 浜田記者と杉浦記者は慌ただしく帰っていた。

 今回の取材がスクープになったのだということは、二人のそんな慌ただしさを見れば明白ではあっただろう。

「さてと・・・それじゃ、そろそろあたしも・・・出発するにしても、美代子さん一人じゃ大変だろうし」

 冬馬曜子オフィス東京支社の唯一の社員である『工藤美代子』さんは、療養中の母さんの片腕として、そしてあたしがピアノだけに専念できるように、色々と 骨を折って貰っている貴重な人材である。

 時計を見れば、もう午後になりつつあった。

 もうあいつらの飛行機は行ったよな?

 空港でばったり・・・なんて、ないよな?

 そもそも向こうは成田で、こっちは羽田なんだから・・・大丈夫だよな?

「はぁ・・・なんであたしがこんなに気を遣わなきゃならんかなぁ?」

 振られたのは、あたしのほうなのに・・・







 ―翌日―



 現地について、最初の練習を終えて、美代子さんに手にしたピアノの具合を相談する。コンサートは明後日だが、直せるところは直しておきたい。たとえそれ が些細なことであっても。

「それじゃ私は会場に指示しておきますから、かずささんは先に食事にして、明日の予行演習(リハーサル)に備えて早めにお休みなってください」

「ん。そうさせてもらう」

 あたしも素直にその言葉に甘えさせて貰って、先にホテルへ帰宅した。途中でマスコミに捕まってしまったが、あたしは『開桜社』のみに取材を請け負ってい るのは、もはや周知の事実であった。

 ・・・正確には、春希の取材のみだったけど、それも昨日の取材で変わったことだし、今後はもう少し愛想よく応対してみるべきだろうか?

 勿論・・・あたしのピアノに関してではなく、音楽に関係ない取材をするような記者には、断固お断りするが。



 ホテルにチェックインしたあとは、ディナーのために展望台付きレストランに案内され、あたしは一人で夜景を眺めつつ食事をすすめた。

「春希と雪菜は今ごろ・・・」

 と、二人の新婚旅行先の『イタリア』との時差に思いつき、向こうは既に早朝だった、いうことに今ごろになって気が付いた。

「そっか・・・やっぱり、色々とあったんだね・・・」

 昨日、杉浦記者から聞くことができた二人の逸話。

 あたしって・・・恥ずかしい、な。





 そう、あたしは・・・雪菜に言ってしまったのだ。

『笑いに来たのか? 罵りに来たのか? それとも哀れみ来てくれたとでも言うのか?』

『かずさ・・・』

 あたしは知らなかった。雪菜がかつて自分の本心を殺してしまった、本当に灰色の世界に堕ちてしまっていた事実を。だから・・・

『お前の慰めなんか、まるで心に響かない。何もかも持っている奴の憐みなんか、苛つくだけだ』

『そっか・・・』

 そんな暴言に雪菜は小さく肩を落とした。

『母さんがいなくなったら・・・もう・・・』

『かずさの周りにだっているよ。あなたが見ようとしないだけで』

『いるもんかっ!』

『いるよ・・・わたしがいるよ、それに春希くんだって!』

 雪菜にその名前を言われるのが・・・辛かった。

 彼女のものになってしまった、あたしの愛する男の名前を・・・

 だから・・・

『春希はあたしを捨てたんだ』

『かずさだって、かずさだって、わかってないくせに。わたしがあの日からどんな思いをしてきたか、全然わかってないくせにっ!』

『せ、雪菜・・・?』

『あなたがいなくなってから・・・あなたが決着を先延ばしにしてから、どれだけもがいて、悩んで、苦しんで、泣いたか・・・っ』

『勝手なこと言うな・・・そんなのあたしのせいじゃない。その証拠に今お前たちは愛し合っているじゃないかぁっ!』

『ここに来るまでに何度擦れ違ったと思っているのよ! 何度離れそうになったと思っているのよ! 何度諦めかけたと思ってるのよぉぉっ!』

『でも、愛し合っている! あたしのことなんかすっかり忘れてぇぇ!』

『違う! 春希くんは忘れなかった! かずさのこと、一度たりとも忘れてはくれなかった!』

『だったら、どうして振られるんだよ、あたしっ!?』

 実際にあたしは春希に振られたのだ。

 偽りの愛情でもいい、と言っても、あいつはもうあたしを受け入れてはくれなかったのだから。

『あなたが五年も彼を放っておくからじゃない!』

『なんだよ! あたしのせいだって言うのかよっ!』

『それ以外に理由なんてあるわけないじゃない! 全部あなたが臆病なのが悪いんじゃない!』

『っ・・・雪菜・・・そこまで言うか? 何かも手に入れたお前が、何かも失ったあたしに、そこまで言うか?』

『そっちこそ勝手なこと言わないで。彼の気持ちをずっと独り占めしてきたくせに、今さら被害者みたいな顔しないでよっ!』

『〜っ!』

《 ピシッー 》

『っ!?』

 あたしは不意に雪菜の頬を叩いていた。

『あっ・・・っ』

『・・・っ』

 でも・・・

 叩かれたほうよりも、叩いてしまったあたしのほうが驚く。

『せ、雪菜?』

『ぅぅ・・・っ』

『あ、あ、あたし・・・』

『ぅぅ・・・ぁ、ぅぁぁ・・・ぃぅ・・・』

 まるで何かに震えるように。

『ご、ごめんっ、その・・・あたし・・・っ!?』

『っ!』

 《 ピシッー 》

『な・・・』

『どうしてすぐ奪いに来なかったのよ・・・』

『せつ、な・・・』

『かずさが日本に残っていれば、春希くんはあなたのものだった。なのに、どうして逃げちゃったのよ・・・』

『だって、お前がっ! お前が、あいつを・・・』

『そうだよ。わたしが彼を奪った。・・・でも、あなたはわたしに何も言わなかった。戦おうとはせずに逃げちゃった』

『っ・・・』

『あのとき、かずさは春希くんをわたしに譲ったんだよ。春希くんのこと、諦めたはずなんだよ』

『それは、それは・・・それはぁ・・・っ』

『なのに、五年ぶりに再会した途端にこんな・・・今さら気が変わったなんて言われても知らないよ!』

『うるさぁいっ!』

《 ピシッー 》

『臆病者っ!』

《 ピシッー 》

『偽善者っ!』

《 ピシッー 》

『馬鹿っ!』

《 ピシッー 》

『言うなぁぁぁぁ、雪菜、雪菜ぁ〜』

 《ゴロゴロ》と取っ組み合い。

『かずさの馬鹿、馬鹿、馬鹿、大馬鹿ぁぁぁっ〜〜』

『馬鹿で悪いかぁぁぁ!』

『悪いに決まっているじゃないっ!』



 ・・・・。





 もう、あれから四ヶ月が過ぎようとしていた。

「はぁ・・・せめて、彼女の話を来日したときに聞けていれば・・・あんな醜態を雪菜に晒すことなかったはず・・・なのに、さ」

 正直、気分が滅入るよ。

 ・・・・。

「って、いうかっ・・・このピアノ」

 この抑揚のない旋律があたしを苛立たせていた。そうだ、そうに違いない。決してそのピアニストの技量が下手だったわけじゃない。音程だってちゃんと合っ ている。でも・・・本当に淡々として、メリハリが全くなちゃいなかったんだ。

 まぁ、プロのあたしが文句を言うのは筋違いってものだろうけど。

「えっ・・・?」

 あたしは思わず、その鍵盤を弾く人物を見て目を見張った。

「う、嘘でしょう・・・い、いや、でも・・・」

 それはあたしの知っている人物だった。

 正確には、あたしの知っていた人物、というべきだろうか?

 でも、あたしの知っている彼女は・・・

「で、でも・・・う、嘘・・・」

 あたしは目の前の女性に、その姿に唖然とされられずにはいられなかった。

 その彼女の姿に・・・


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