第六章 慟哭・裏切りの黄昏・・・4

 テナントが全く入っていないらしい薄汚れたビルの横に車を止め、恵麻里は傍らの路地をのぞき込んだ。
 ちょうど退勤時間で、表の大通りからは家路につく人々のざわめきが聞こえてくるが、この裏通りにはほとんど人影がない。
 陽はほとんど暮れかかっていて、路地の奥を見通すのは難しかったが、それでも二つの人影がゆっくりとこちらにやって来るのが分かった。二人とも小柄だが、一方はひどく太っていて、もう一人は痩せている。


 「待ちくたびれたぜェ・・・」
 路地の入り口まで歩み出てくると、太った方の男が下から睨み付けるように恵麻里を見上げて言った。不細工な猪首をしているが、声だけは女のように甲高い。
 「6時の約束が、もう10分も過ぎてるじゃねェか。こういう業界だからこそ、時間厳守ってヤツが大切なんだぜ」
 「やめとけよ」
 痩せた方の男が、ネチネチと絡もうとするデブを押し殺した声で制して、
 「ゲーム(獲物)はどこだい?」
 「・・・・」
 恵麻里は無言のまま脇へどき、乗ってきた青いハイブリッドカーを目で示した。
 助手席には、目を閉じた三枝瑠璃花がベージュの制服のままぐったりと座っている。
 ただ眠っているようにも見えるが無論そうではなく、恵麻里に飲まされた睡眠薬入りのジュースによって深い昏睡状態にあるのだった。
 恵麻里にとって、いざ瑠璃花を拐かす決意をするのはやはり大変で、そのためこの場所に到着するのが遅れてしまったのだ。


 「間違いない。確かにこのお嬢ちゃんだ」
 痩せた男は窓越しに瑠璃花を覗き込み、手元の写真と見比べてうなずいた。
 男たちは「新世界準備会」とは別の組織のメンバーで、やはり「召還」犯罪を生業としているらしい。つまりクリスは、拐かした瑠璃花をよその組織に売り渡す段取りをつけていたのだ。
 犯罪組織同士の、こうした「横」の協力関係は珍しいことではない。しかもクリスの説明によれば、「新世界準備会」は誘拐や簡単な肉体改造だけを他の組織から請け負うことも多いのだという。
 そもそも商品である「マーメイド」は完全な注文生産なので、「新世界準備会」は末端までの販路を持っていない。だからその点で他の組織と利害を争ったり協力し合ったりをする必要はないのだが、商売柄どんなトラブルに巻き込まれないとも限らないので、そうした手間賃稼ぎのようなことも引き受けて、同業者同士の縁をつくろっておきたいらしい。恵麻里はその作業に利用されたのだった。


 「それじゃ、もらってゆくぜ」
 痩せた男は運転席側に回ってドアを開けたが、デブは突っ立ったまま依然ジロジロと恵麻里を眺め回している。
 「よく見るとスゲェ可愛い娘ちゃんだな。このさらってきた娘より、あんたの方がイカしてるぜ」
 舌なめずりをしそうな声で、デブは言った。
 「そんなに若いのに、あのクリスの手伝いをしているってことは、あんたもレズで、しかも相当の好きモノってことかい?え?」
 ぼってりと太った指先が、恵麻里のミニの裾にイヤらしく這い込んでこようとする。
 「勿体ねェ。あんなイカれた女なんかやめといて、オレとつき合わねェか?・・・へへ、こんなスケベな服着ちゃってよう・・・」
 「やめて!触らないでッ!」
 恵麻里に手を払いのけられて、デブはムッとした顔つきになり、
 「そう邪険にすることァねェだろ。遅刻の詫びに、自分からスカートまくって見せるくらいの愛嬌があってもいいじゃねェか」
 「オイ、やめとけって!」
 痩せた男が、今度はやや強い調子で言った。
 「『新世界準備会』と余計なもめ事を起こしたいのか?あのクリスが短気なことは知ってるだろうが」
 クリスがこの連中に、恵麻里のことをどう説明していたのかは分からないが、男たちは恵麻里を、クリスの忠実な部下とでも思っているらしかった。まあそれも、あながち間違いとは言えないが・・・。


 「へッ、一皮むきゃあクリスと散々乳くり合ってる変態女のクセによ。今さら気取る柄かよ!」
 デブは尚もブツブツと毒づきながら車の後部座席に乗り込んだ。
 痩せた男が乱暴に車をスタートさせる。青い車体は最初の角を左に折れて、たちまち見えなくなってしまった。
 気に入っていたハイブリッドカーだったけれど、もう二度とこの目で見ることはないだろう。そして三枝瑠璃花に再び会うことも、もう決してないのだ。
 (・・・許して・・・瑠璃花ちゃん・・・・)
 何の罪もない、しかも恩人の愛娘を、自分が地獄へと突き落としてしまったのだ。
 重い十字架に押し潰されるような心境で、恵麻里は車が去ったのと反対方向へ歩き始めた。


 瑠璃花を車ごと相手に渡すことは、あらかじめクリスから言いつけられていた。したがって恵麻里は、ここから「サンクチュアリ」までを徒歩で戻らなければならない。距離にすれば1キロと離れていないはずだが、彼女の歩調はセカセカと余裕がなかった。
 (急がないと。もう時間が無いわ・・・)
 アゲットに処方してもらった不活性剤の持続猶予は、あと15分程しか残っていないはずだ。
 もしも効果が切れて、あの地獄のような官能に再び支配されれば、とても「サンクチュアリ」まで帰り着ける自信がない。まさにバイオチップは、恵麻里の肉体そのものに仕掛けられた非情な時限爆弾と言えた。
 と、その時・・・。


 「恵麻里ちゃん・・・」
 不意に呼びかけられ、恵麻里はギョッと身をすくませて立ち止まった。
 恵麻里の前方、小規模な民営駐車場の入り口近くに、長身の男性が黒々と影のように立っている。
 「し、慎也さん!・・・・」
 あまりに意外な遭遇に、恵麻里はかすれたような声を上げた。
 男は、電話で別離を告げた、あの青井慎也だった。
 「ど、どうしてここに?・・・」
 問いかけながらも、思わず2、3歩後ずさる。
 ・・・慎也は、一体いつからそこにいたのだろう?ひょっとして、闇の組織に瑠璃花を引き渡した現場を見られたのではないだろうか?


 「ずいぶん捜したよ・・・」
 ゆっくりと歩み寄ってきながら、慎也はホッとしたような口調で言った。
 「知り合いのハッカーに頼んでね。ハイウェイの監視ネットに違法アクセスして、君の車が降りた出口を突き止めたんだ。あとはその周辺をしらみつぶしさ」
 「何故、そんな?・・・」
 「話がしたかったからさ!昼間も言ったけれど、君は誤解を・・・・」
 「こっちへ来ないでッ!」
 激しい口調で制されて、慎也は狼狽えた様子で足を止めた。同時に恵麻里の、何かただならない気配にも気がついたようだった。


 「何かあったのかい?」
 恵麻里の下卑たファッションを不審そうに見つめながら、慎也は心もち声を落として、
 「君、何だか変だぜ。顔色が真っ青だ」
 「あなたには関係ないわ。私、仕事中なの。話なんかしているヒマはないのよ」
 にべもなく言いながら、恵麻里は慎也が電話で言ったセリフを思い出していた。
 (・・・S・Tは危険極まりない、綱渡りの様な仕事。これまでは何とか無事に渡ることが出来たかもしれないが、今日は綱から落ちないという保証はどこにも無い・・・)
 ・・・まさに彼の言うとおりだった。恵麻里は無様に綱から転落し、静音と共に絶望の底を藻掻きさまようことになってしまったのだから・・・。
 (・・・あの時、慎也さんの言うことを素直に聞いてさえいれば・・・)
 ほんの6時間ほどの間に全く変わってしまった自分の運命に、張り裂けそうな悔恨の情がドロドロと心中を満たしてゆく。
 もう、何もかも手遅れなのだ。恵麻里の心も身体も、すでに慎也と愛し合う資格を失っているのだから・・・。


 「話はすぐに済むよ」
 と慎也は慌てた口調になって、
 「誤解を解きたいんだ。僕が早坂先生の事務所を辞めて独立した、本当のワケを話したい。生涯話すつもりはなかったんだが、この際全部打ち明ける決心をした。だから・・・」
 「うるさいわね!聞きたくないって言ったでしょッ!」
 鋭く叫び、恵麻里は慎也の横をすり抜けるようにして走り出した。
 これ以上一秒でも慎也の前にはいたくない。汚され、淫らに造り替えられてしまった身体を、無理やり着せられた下品な服を、愛した男の視線にさらすのは堪えられなかった。
 「待ってくれ!恵麻里ちゃん!」
 「ついてこないで!もしついてきたら、あなたを殺してやるからッ!」
 思わず後を追おうとした慎也に、恵麻里はさらに激しい言葉を投げつける。
 「殺す」というショッキングな宣告に、慎也が背後で立ちすくむ気配がしたが、かまわず走り続けた。


 「くッ・・・くッくッくッ・・・・」
 熱い涙が目尻から溢れ出るのと同時に、とても押さえきれないような笑い声がこみ上げてくるのを、恵麻里は感じた。惨めな自分の境遇が、何故か可笑しくて仕方がなかった。
 (・・・そうよ、私に近づいたら殺してやるわ!誘拐だってやったんだもの、殺人だって平気だわ!私はあの魔女、クリスに傅く奴隷なんだから!)
 涙と鼻水が恵麻里をむせかえらせる。
 自分が腕利きの少女S・Tだったのが、まるで遠い昔の出来事だったような気がした。
 (・・・あのチンピラの言ったとおりだわ。私は最低の女よ!クリスに身体中を責め抜かれて、淫らに悦んでいる変態女だわッ!・・・・)
 激しく泣き、そして笑いながら、恵麻里はネオンの灯り始めた街を走り続けた。
 身体の中心が、またあの淫靡な感覚によって次第に強く熱を帯び始めていた・・・。


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