行間話【 後悔 】(視点・琴乃初音)


 ・・・・琴乃家。
 神崎グループが日本の全企業を掌握することになって、既に十余年の歳月が過ぎようとしていた。神崎グループは中核なる神崎家を中心に、四つの名家によって構成、運営され、その中でも中心となるそれだけに神崎家の資産力と発言力は他家を圧倒するものであっただろう。
 その神崎家の傘下にも、大原家(旧大原財閥)を始め、篠原家、宮森家などの名家が名を連ねる中、私の実家である琴乃家も、その神崎家の傘下の末端に含まれていた。
 もっとも琴乃家は、名家としての歴史が浅く、創設された際にも多くの資産が与えられたわけでもなかったが、神崎家を中心とする名家に対して、その影響力は極めて大きい。
 琴乃家の当主である、母様・・・・琴乃弥生は、同時に神崎家の当主である父様の後妻にも該当し、また母様が出産した和人に至っても、神崎家の次期後継者として、指定されているほどである。
「・・・・」
 神崎新邸がある静岡県の、その付近に屋敷を構えた実家の門扉を久しく眺めて、懐かしく思う一方、私は尚もまだ不安を拭えないでいた。
(本当に課長と来て、良かったのかな・・・・?)
 現在、母様・・・・琴乃弥生は三十五歳・・・・(の、はず)
 だが、その外見はまだまだ二十代後半のような若さと美しさを保ち、奔放三昧な父様とは違って、規則正しい生活を身上としている。私にとっての母様は、優しい保護者である同時に厳しい教育者であり、また礼節を重んじる絶対者でもあっただろう。
 琴乃家自体の歴史はまだ十年にも満たないが、母様は生まれながらの令嬢(旧草薙家出身)ともあり、ことに礼節に限っては私も厳しく躾けられてきた経緯があった。
 それだけに私は、憂鬱になる思いを禁じえないでいた。


「・・・・」
 その琴乃家の分厚い門を前にして、課長はただ驚愕の眼差しを向けている。
「課長?」
「こ、これが琴乃くんの・・・・?」
「はい。ああ、でも、この正門は見せ掛けで、実際はこっちの出入り口から出入りすることができますよ」
 重厚な門扉を開閉することは不可能ではないが、来訪があるたびに開け閉めするのでは意外と手間がかかり、実際は正門の横にある勝手口から出入りするのが、もはや琴乃家の通例であった。
「いや、そうじゃなくて・・・・深い堀や高い塀、それにこの敷地の広さといい・・・・」
「ただ無駄に広いだけですよぉ」
 まぁ、その分、幼少の頃は遊ぶ場所に困ることはなかったけども。

「初音様、お帰りなさいませ」
「うん。ただいま・・・・」
 出迎えの挨拶を受け、私たちは一礼をする。
「あ、こちらは私の上司の課長で・・・・あと私の・・・・」
「ええ、伺っております」
 その琴乃家の使用人である彼らの表情や素っ気ない態度からも、課長が全く歓迎されていないことを察する。当主である母様の影響を少なからず受けていることは、間違いのないことだろう。
 むぅ。
(もしもこれで、課長の機嫌を損ねたり、求婚を取り下げられたりでもしたら・・・・彼らはどうやって、その責任をとってくれるのだろう?)
 私は出迎えてくれた彼らを、その場に一人一人並べて、文句の一つや二つも言ってやりたい衝動にかられた。

 だから私は、実家に帰省することに反対をしたのにぃ!!

(か、課長・・・・)
 私は恐る恐る課長の機嫌を損ねてしまっていないか、課長の横顔を盗み見る。幸い、およそ普段と変わらない、穏やかな表情がそこにあった。課長自身の度量が広いのか、もしくはこの程度の応対は覚悟していたのであろうか・・・・恐らくはその両方であっただろう。
「・・・・」
 だが、私は昨晩の出来事を思い出させずにはいられなかった。
 光学用メモリードライブで撮影される中、私は課長に求められた誓約を宣言し、自慰による痴態を最愛の人の前で晒したのである。
 だが、その結果は散々なものだった。
 自分一人では絶頂に果てることもできない、私の身体は欠陥品であり、それだけに惨めな思いであった。そんな哀れな私に同情をしてくれたのだろう。私は抱き上げられ、課長にSEXをして貰うことによって初めて、絶頂に果てることができたのである。
 自分の愚かな過失によって課長の子供を身籠り、愛する人を満足させることもできない、こんな腐れマンコの私に対して、それでも課長は身籠らせてしまった、その責任を負おうとしてくれているのだ。
 気位だけが高い琴乃家に仕える面々も、出自や家名という外聞だけに捉われず、こんな私なんかに求婚してくれた課長には、むしろ感謝して出迎えるべきはずなのに・・・・

「それでは大広間のほうで皆様がお待ちです」
 私は不満を余所に頷いた。
 『皆』というのは、無論、母様の琴乃弥生と父様の神崎和馬、そして一つ年下の弟である神崎和人の三名であろう。
 昨日のうちに課長は父様との対面を済ませており、少なからず好印象を憶えてくれたようであった。また弟の和人に至っては、私が直接に連絡を取っておいたこともあり、一つ年下の割に話の解かる性格でもあったから、その弟が同席してくれることは正直、ありがたく思った。
「そうか、琴乃くんには弟がいたのか・・・・」
「はい。一応、父様の後継者ですから、私とは姓が異なりますけどね」
 そんな課長の様子に安堵しつつ、私は笑顔で質問に応じた。
 和人は同世代の男子に比べて、童顔ということもあって頼りなく見えるものの、神崎家の次期後継者として、母様より厳しく育てられた影響もあって、心の芯は揺るぎないほど強い。
 その弟がおおよそながら、私の味方をするよ、と言ってくれているのである。私にとっては非常に頼りになる増援なのは間違いなかった。
「・・・・」
 だが、それだけで楽観する気にはなれない。
 そう、一番の肝心な問題は・・・・母様だけなのだった。


「私は断固反対です!!」
 それが一同の顔を揃えた開口一番、母様の言葉であった。
 その上で課長が事情と謝罪を兼ねて頭を下げ、私がその擁護と課長への想いを口にしても、頑なに家風を重んじている母様であっただけに、取りつく島を与えることはなかった。
「しかし、実際に初音は妊娠しているし・・・・内藤さんだって、その責任を痛感して、こうして申し出てくれているんだぞ?」
 さすがにこんな状況を見かねてか、父様が諭すように語ってくれた。
「お前も変に意固地にならずに、二人の結婚を認めてやらないわけにはいかないだろう?」
「初音は私の娘です! 和馬さんは黙っていてください!!」
「あ、いや、俺も一応・・・・父親、のはず・・・・」
 ギロッ、と視線を向けられると、途端に黙り込んでしまう父様。
(弱過ぎでしょ!!)
 な、なんて卑屈なまでに弱腰なのだろう。
 そんな情けない父様の姿に、私は心の中で涙交じりに悪態をつかずにはいられなかった。
「帰りましょう、課長!」
 私は立ち上がって、尚も座していた課長の腕を引っ張った。
「こんなところに長居するなんて、全くの無意味です!」
「あ、いや、し、しかし・・・・」
「待ちなさい!」
「今の母様には何を言っても無駄でしょうからぁ!!」
 バチバチィ、と私と母様の視線が激突する。
 自分の興した家を重んじる余りに、個人への感情を全く理解できない母様とは思わないが、さすがにそれを今すぐに、というのは性急に過ぎることだろう。
「もう姉ちゃんの好きにさせてやればいいじゃん」
 父様に代わって、今度は弟の和人が口添えをしてきてくれた。『場合によっては、敵にもなるよん』と、軽口を叩いていた和人であったが、それだけに嬉しくもある。
「ほら、姉ちゃんぐらいの年頃じゃ、学校の先生を好きになる、って話はよくあるパターンじゃん・・・・しかも話を聞けばさ、そもそも姉ちゃんのほうから迫ったんだろう?」
「か、和人!」
 思わず赤面して、弟の言葉を遮る。
 だが、それは揺るぎようがない事実であり、そしてまたその過程で、私は課長の子供を妊娠してしまったのである。本来ならば、課長が責任を負わなければならない、という謂れはなかったのだ。
 頑なに反対をする母様も、その辺の事情だけは理解して欲しい。
「和人。もしそうなれば、この人が和人の義兄さんになるのよ?」
「まぁ、そうなるね。僕の義弟になる、っていうのなら、正直複雑な心境にもなるだろうけどさ」
 母様の手厳しい追及をその後も笑ってかわす和人。
 我が弟ながら、大物だとは思った。
「実際に会ってみてさ、とても悪い人には思えないよ。しかも姉ちゃんのせいで、謂れのない責任も取ろう、って人だしね・・・・」
 だから和人も、私を応援しよう、って思ってくれたのであろう。
「・・・・」
 場は四対一・・・・母様の劣勢は明らかであった。
 その劣勢の状況を自覚したからであろう。
「と、とにかく! 私は反対ですからね!!」
 母様はそう言い残して退出していった。
「・・・・」
 私は深い溜息を漏らす。
 課長の気が変わらないうちに結婚を承諾して貰うには、その最後の大きな関門が、尚も私の前に立ちはだかっているようであった。



 私が久々に(不本意ながら)帰省したということもあり、課長にも泊まっていくように父様から提案をされると、私は一通り、屋敷の主だった部屋を案内して回った。
「課長。今晩は勿論、私の部屋で泊まりますよね?」
「い、いや、それはさすがに遠慮しておくよ」
 課長は苦笑しながら、やんわりと私の誘いを断った。
 むぅ。
(昨夜、いつでも、って・・・・誓約をさせられたのにぃ!)
 それだったら、例え強行軍になったとしても、課長に頼んで都内のマンション(既に私の頭の中には、女子寮という考えはない)に帰るべきだったかもしれない。
(そうしていたら、きっと、今夜もお願いすれば・・・・)
 それとも、やっぱり私の身体は・・・・腐れマンコだから・・・・

 私は渋々、課長が泊まることになる客室用の部屋を案内し、部屋の傍で控える執事の人たちにも、くれぐれも課長の機嫌を損ねることがないように念を押しておいた。
「ここに居たか・・・・」
 と、そのとき父様が来室してきた。
 琴乃家に父様がこれほど長く留まるのも珍しいことであっただろう。
「あ、コーヒーを三つ頼むよ。俺の分は甘さを控えめにな」
「父様からも言ってやってください!」
「んっ?」
「客人に対しての非礼は許さない、って」
「ああ、そうだな」
 さすがに神崎家の当主である父様からの指示ということもあり、彼らも慇懃なまでの姿勢で応じるしかなかった。
「それで父様、何しに来たのですか?」
「ん、初音も、もう高校一年か・・・・早いものだな」
 それまではずっと放置しておいたくせに、何を今更に言うのだろう、と私はそっぽを向いた。親子水入らず、と気を遣ってくれようとしたのだろう、(肝心の)課長は部屋を中座しようとする。
「あ、内藤さんも同席していて欲しいかな。貴方が居れば、どうやら娘も暴発はしないみたいだし、な」
 ぼ、暴発って・・・・。
「ち、父様!」
「いや、精神的(好きな異性ができて、その前では慎ましく振る舞おうとすること)に成長した、って褒めたつもりだが・・・・」
「暴発という言葉の何処が、褒め言葉なんですかぁ!!」
 私は父様の発した言葉を額面通りに受け取って、ただ睨みつけるだけであった。

 そしてその場に三つのコーヒーカップが運ばれて、父様は更に人払いを命じる。その指示も速やかに遂行され、周囲には物音が一つしない静音が保たれようとしていた。
「父様、それで!?」
 一体、何しに来たのだろうか?
 できれば、課長との二人だけの時間を無駄にはしたくないのに。
「そうだな。後悔だけは、初音にして欲しくないな・・・・と思ってな」
「後悔・・・・ですか?」
 私と課長はほぼ同時に疑問を口にした。
 父様の手前で、それは少し嬉しかったかも。
「ああ。俺の高校一年の一年間は、本当に、後悔だけしか残らなかったからな・・・・」
 父様が自ら過去の話をするのは、非常に珍しいことであった。
 ・・・・もっとも、一般の家庭に比べて、ただ会話できる機会が極端に少なかっただけなのかもしれないけど。
「あの一年間だけで、俺は身近な人間を四人も失ってしまった」
「父様のことですから、どうせ女の人のことでしょ?」
 私の酷い物言いに苦笑する父様。
 日頃の行いもあって、さすがに反論はできなかったらしい。
「残念ながら、二人は男で、もう一人は妹のことだ・・・・まぁ、最後の一人だけは反論できんが・・・・」
「い、妹・・・・?」
 父様に妹が居た、とは、父様の娘である私でさえも初耳であった。
 あ、私が生まれる前に亡くなっているのだから、私が知らないのも当然のことだったかもしれない。
「男の一人は父親な。末期の癌で・・・・結局、最期を看取ることもできず、もっと親孝行をしておくべきだったな、と今更ながらに思ったよ」
「・・・・」
「もう一人の男は、俺にとっては・・・・そう、まさに兄のような存在だった。俺が誕生したときから仕えて、俺の我儘をよく聞き入れ、その最期までも俺を庇って、生命まで投げ出してくれた・・・・」
「そ、それが、直人さん?」
「ん、弥生から聞いていたか・・・・」
 父様に否定せず、私はゆっくりと頷いた。
 真田直人・・・・父様にとってはかけがえのない存在であり、また存在であっただろう人物である。今でも父様はその故人の死を惜しんで、十二月二十五日は・・・・世間ではクリスマスを派手に祝うその日に、敢えて喪服を着用し続けているほどである。
 また同時に次期後継者として期待した和人の命名に至っても、父様からは『和』、直人さんの『人』の一文字ずつが与えられた、その由縁でもあった。
「今でも思う。もっと直人に報いることができたはずだ、と・・・・もっと色々なことを教わり、もっと長い時間を共有することができたはずだ、とも・・・・」
「・・・・」
 父様は激しい後悔と深い落胆を隠すように、コーヒーカップを啜り、私たちも静かにそれを習った。
「妹は俺の一つ下・・・・そう、今の初音と和人と同じ年齢だった」
 つまり、当時・・・・十四歳、中学三年生だった妹。
「既に母親を失っていたこともあって、普段から俺にべったりでな。まぁ世間で言う、ブラコンってやつかな」
「その妹さんも、病気か何かで・・・・?」
 課長の疑問はもっともなものであったが、父様から告げられた回答は、私たちの予想を遥かに凌駕するものであった。
「俺の手違いによる事故。その結果、での・・・・投身・・・・」
「・・・・」
 思わず、私は言葉を失った。
「当時の俺は、妹の傍に居てやることができなかった。俺のその当時の状況も言い訳にはならない・・・・俺はその妹の気持ちに気付いていたのだからな・・・・」
「・・・・」

 父様の懺悔にも似た苦悶に、重々しい空気が流れていく。
「と、すまんな。こんな暗い話をするつもりは・・・・」
「ううん。父様の過去、初めて聞かされたから・・・・その、上手くは言えないけど・・・・」
 少し父様を見直していた。
 私が知らなかっただけのことであったが、自由気まま、放蕩三昧のような父様にも、そんな重い過去があったとは思ってもいなかった。恐らくは課長も同様の思いであっただろう。
「そ、それで・・・・最後の人は、女の人なんだよね?」
「んっ・・・・ああ、初恋だった・・・・」
 父様はそれだけを口にすると、重々しく口を閉ざしてしまった。
 初恋・・・・
 私は今になって思うことがある。私の初恋は、課長であったのだろう。
 確かに私はひーくんに・・・・幼少の頃から一緒に育ち、幼馴染の彼に憧れてはいた。その気持ちを否定するつもりはない。だからこそ私は、彼を追いかけるように、親元を離れて上京したのである。
 だが、そのひーくんに抱いていた感情と、今、隣に座している課長に抱いている感情は、全くの別物であった。こんなことを課長に伝えても、言い訳にしか聞こえないかもしれないが、私は確信を持って実感していた。
「彼女とは偶然に出会って、俺は一目惚れをしてしまった・・・・」
「・・・・」
「その彼女には遠恋の彼氏が存在していたことも知っていたが、俺は、何が何でも彼女を手に入れようと、躍起になった。それこそ手段を問わずに・・・・な」
 私はその父様の告白に共感することができた。
 無論、父様のその傾向は今も変わっておらず、今も権力を持て余して美しい愛人を(母様の知らないことであったが、その一人は娘である私と同じ年の少女)囲っている、それには同意するつもりはない。
 だが、そんな父様でも叶わなかった恋がある。
(・・・・しかも、それが初恋の人)
 私は自分の初恋である課長とその状況に置き換えて鑑みれば、きっと私も心の底から、課長の存在を求めていたことだろう。

「父様・・・・」
「彼女を失って初めて、俺は自分の軽挙を嘲り・・・・激しい後悔だけしか、俺には残らなかった」
「・・・・」
「だから、初音・・・・お前には後悔だけはして貰いたくない」
「う、うん・・・・」
 私は頷いたが、同時に父様の表情が一段と厳しく、険しく一変する。
「なら、内藤さんと本当に一緒になりたいのなら、弥生に少し強く反論されたから、といって、簡単には引き下がるなぁ!」
「ち、父様・・・・」
 さっきほどまでの父様とは違って、いや、激しく後悔する父様だからこそ、私に強く忠告してくれるのであろう。
「もしお前がここで引き下がり、その結果、内藤さんがお前に愛想を尽かしたら、お前は一生、この日を後悔することになるぞぉ!!」
 私は《ビクッ》と震えた。
(か、課長に・・・・愛想を尽かされる・・・・)
 それは今、私がもっとも恐れていた事態であるのだから。
「い、いや、それは絶対にありませんから。私のほうこそ愛想を尽かされるのなら、ともかく・・・・」
 父様に対して苦笑するような課長。
 だけど、私は・・・・全然笑えなかった。私の身体は欠陥であり、課長の全てを受け止められない、満足もさせてあげられない、腐れマンコなのである。
 そんな私に課長が結婚を申し込んでくれたのは、あくまでも課長の子供を身籠ってしまったためであり、またその後も課長の子供だけを身籠る、と誓約したからなのだ。
 私は父様の思いの募った忠告と、容易に想定できる最悪の想像に、ボロボロと涙を流すことだけしかできなかった。
「内藤さん・・・・」
「は、はい」
「こんな我儘で、まことに身勝手な娘ですが・・・・」
 その光景は、課長は無論、娘の私でさえも驚嘆を禁じえなかった。
 傍若無人の振舞で高名のあの父様が、他人に頭を下げたのである。
「か、神崎さん!」
「なにとぞ・・・・なにとぞ、不束な娘をよろしくお願いします!」
 父様が・・・・少なくとも私の知る限りでおいては、人に頭を下げたところを見たことがない、また聞かされてこともこれまでになかった。
 その父様が・・・・


「・・・・」
 正直、今日の父様には驚かせられるばかりであった。
 その客室を退出する間際に至っても、最後まで私の未来を案じてくれていた様子がありありと窺える。
「まぁ、弥生の説得は俺のほうからも行ってみる・・・・少し時間がかかるかもしれんが、あれだって、最終的にはお前の幸せを優先にするだろう」
「父様・・・・」
 およそ普段から琴乃家には寄りもせず、娘である私とも一年に一度会えるかどうか・・・・それでいて、母様を前にすると全く頼りない印象の一面でしかなく、全く家庭を顧みない人物なのだとも思っていた。
 そんな父様が、こんなにも私を気にかけてくれるなんて!
「課長、もう一度、母様と会ってきますね」
「うん」
「だから、その・・・・か、課長から勇気を貰えますか?」
 私は顔を見上げて瞳を閉じる。
「んっ・・・・」
 確かな感触が唇に触れ、課長の口から奪った唾液を嚥下すると、私は今一度、母様と対面する覚悟を決めた。
 それでも、母様は課長との結婚を認めてくれないかもしれない。だが、そのときは・・・・琴乃家を捨て、母様とも肉親の縁を切る。
 その決意を胸に秘めて・・・・


 父様と入れ替わるように今度は和人が来室してきたこともあって、弟に課長との相手を任せて、私はその間に母様との面会を望んだ。
 その母様は今、屋敷の奥にある弓道場にいた。母様はストレス(父様の夥しい限りの身辺上、それも無理もない)が溜まると、大抵はその場所で弓矢の修練に励むのが習慣であった。
 矢をつがえて弓の弦を引き下ろし、狙いを一点に定めて解き放つ!
 その凛とした姿には、娘である私からでも憧れるものであった。
 そんな母様が私の姿を一瞥するわけでもなく、次の矢をつがえ、構えたままの姿勢で告げてきた。
「悪いことは言いません。子供は堕胎しなさい」
「嫌です!」
 私はきっぱりと母様の言葉を拒絶した。
 これは十五歳の小娘に過ぎない私にとって、課長の妻となれるかもしれない必要最低限の条件であり、お腹の中の子供は、課長が私なんかに求婚してくれた、その大切な生命(恩人)でもあるのだ。
 でなければ、こんな十五歳の小娘なんて・・・・しかも腐れマンコの私なんかを、きっと歯牙にもかけてくれなかったことだろう。
「貴女はまだ十五歳です」
「もう少しで十六になります」
「でも、まだ高校一年生には変わりません・・・・貴女が母親になるのには、まだ早過ぎます」
「・・・・」
 常識的に考えて、その母様の言葉は正論ではあっただろう。実際に私にも不安が全くなかった、というわけではなかった。
 出産が近づいてくれば、学校を休学ないし、退学にしておくべきだろう。また休学する場合においては、その後の子育てを思えば、もうまともな高校生活は望めないに違いない。
 だが、そんな不安なんかは・・・・昨日、課長から求婚されることによって一掃された。そして、父様が私に諭してくれたように、どんな些細な不安なんかよりも、課長との繋がりを失ってしまうことのほうが、今の私には遥かに恐ろしかった。
「本当に、強情ね・・・・」
「母様の娘ですから」
「全く・・・・」
 その私の反論に思い当たるような節があるのだろうか、母様もそれ以上の発言は控えていた。
 次の矢が放たれ、それは見事に的の真ん中へと突き刺さる。
 そして間を置いて再び、次の矢をつがえようとして・・・・その動きが止まった。
「明日。もう一度、話し合いましょう」
 溜息を一つ漏らして、初めて私のほうに振り返る。
「和人が言っていたわね・・・・確かに誠実で真面目そうな方で、悪い人には見えなかったわ」
「は、母様・・・・」
「でも、まだ結婚には賛成できませんけどね」
 ただ母様が一歩譲歩してくれたことだけは確かであっただろう。少なくとも、確かな進展はあったのだと思う。
 その僅かな進展を全身で感じとりながら、この母様との対話を決意させてくれた父様に、そして勇気をくれた課長に感謝する思いであった。


 父様の知られざる過去。
 恐らく多くの人々が知らないであろう、それは父様の暗い闇であり、重い後悔の懺悔であっただろう。その思いに満ちた忠告を受け、私は心から課長を絶対に手放さないと誓った。
 課長に愛想を尽かされた、というのなら、まだ解かる。
 まぁ、こんな身体だから・・・・ね。
 ただ、だからといって、私の方からは少しでも妥協してならない!
 課長のことに関してなら、尚更だろう!


 もしもそれを怠れば、きっと絶対に後悔をすることだろうから。
 そう、きっと。
 深い後悔による懺悔に満たされた、父様のように・・・・


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