(III) 勇敢な行為


彼女をヲルの餌にすることに、ティミイは反対していた。
ゲマインシャフトで“セーレ”と呼ばれている娘、アリシアを見世物にすることに。
「…彼女を傷付けたら、人々はシャフトに失望するのよ」
「でもヲルは無害なんだ。それくらいしないと、いいかげん皆の気がおさまらない。今彼女が無傷ってことの方が奇跡的だよ」
異論は許される。だがティミイに権限はないため、こうしてアルファンに訴えるしかなかった。そしてアルファンは妹に言われると弱い。
「俺たちは善良な市民だって利用している。彼女を同じように扱っても、それはシャフトの理念に反しない」
「でも、私たちは彼女を悪く思ってる。憎んでると言ってもいい。そんな拙い仕返しもシャフトの理念なの?」
“善良な市民”はヲルのデモンストレーションに使うためシャフトが拉致する若者をさしている。シャフトなりのけじめとして彼らには体力回復後に報酬を支払って解放している。
ティミイの言うことは昔から正しかった。その正しさが彼女の成長と共に説得力を持つようになったのをアルファンは感じていた。
「子爵は何も言ってこない。アリシアにも手が出せない。……」
若き総裁は逃げるように背を向けた。
「わかってくれ」
「彼女にあたるしかできないなんて、バカみたい!」
「俺だって…!」
―――俺だって、やりたくない。
ゲマインシャフトの旗標はブローカ子爵領における労働環境の改善と市民の解放であり、体制に対して革命より共存の方向で活動を展開している。当然アリシアは交渉の材料に過ぎず、彼女に罪のないことは皆知っている。
だが知っていれば割り切れる訳じゃない。
アルファンは続く言葉を呑んだ。弁解になってしまう気がしたからだ。
「…彼女には新種の『ヲル・リフル』の相手をしてもらう。決定事項だ」
「兄さん!」

さらってきた若者を監禁しておく施設がある。もとは牢だったのかどの部屋も天井が高く、窓も高い。一部の独房は石造りの壁に鋼鉄の扉を併せ持っている。
アリシアがそこに入ると、ティミイはなるべく彼女についているようにした。厚い扉にもたれて座り、夜は床に寝た。周囲の制止もきかなかった。
仲間が彼女に危害を加えることを恐れたのだ。
収容期間が長引くにつれ、二人は時折扉を隔て背中合わせで言葉を交わすようになった。その日アルファンから聞いた話を伝えるのに、ティミイはためらいを感じた。
「近いうち、あなたはよくない仕打ちを受ける…。だけど、それに伴う弊害や後遺症はありません。それだけは保証します」
「そう。あなたが言うのなら安心ね」
アリシアの口調はいつも穏やかで、真意を読み取ることはできない。それでも信用されているという印象は漠然とあったが、ティミイは気を遣うことで彼女から好感をもたれたくなかった。すべて自分のため―――シャフトのためにしていることだから。
「…子爵からの応答は、まだです」
「仕打ちがある前に助かるといいわ」
アリシアはまるで他人事のようにそう言っていた。

ヲルの演目が終わっても店の賑わいは途切れず働きまわり、営業を終えた店を片付けながらティミイは回想していた。
今夜の売り上げは良好だった。
新種も高値で売れた。
「(……)」
「ティミイ、上がっていいぞ。今日は疲れたろ」
掃除の指揮をしている同僚が声をかけた。ティミイはまだ働けますと言いかけたが、
「…はい。お先に失礼します」
やはりアリシアが気がかりだった。娘扱いされるのを嫌う彼女には珍しく早々に退けると、まっすぐアリシアのもとへ向かった。収容施設は目と鼻の先だ。
ヲルに殺された人間はいない。しかしティミイには別の不安があった。
到着し、息を整えながら建物を見上げた。背景の夜空は雲に覆われていた。
施設の唯一の門へ駆け込む彼女の前に、守衛が立ちはだかった。
「今はよせ、ティミイ」
「ジャマよ!」
胸騒ぎが強まり守衛を振り切った。らせん階段を駆け上がり、アリシアの部屋の前へ。
―――錠が外れている。
ティミイが重い扉を引くと、そこには悪い予感そのものの光景があった。
部屋の隅に転がっていたアリシアは、目隠しをされ手足を縛られていた。ティミイが店に出ている間に誰かが私刑を加えたのは明白だった。
そしておそらく守衛も黙認した。脅されたにしても、部屋の鍵を出せたのは彼しかいない。だからティミイを止めようとしたのだ。
ティミイは一瞬錯乱したがすぐアリシアに駆け寄り、目隠しをほどいた。
「アリシア…!アリシア!」
肩を揺らすとわずかに顔が歪んだ。息はあるようだ。
刃物がないため歯で手足の縄を引きちぎろうとする。アリシアは服を着せられていたが、肌の見えているところは全身痣だらけだった。衰弱した身体で、縛られたまま乱暴されたのかもしれない。
さすがに噛み切れないので縄の緩んだところになんとか手足を通して横たえた。出血はひどくない。
アリシアが目を開いた。
それに安堵して急に緊張が解けていく。
「ごめん…なさい…」
ティミイはうなだれて、冷たい床に涙を落とした。


夜中に眠りから覚めたケセラ。
その視覚が最初に捉えたのは見慣れた顔だった。
「ロネ?」
がばっと身体を起こす。
薄地の寝衣。ふかふかのベッド。部屋は明るく広く、他に空のベッドが5つ。
この場所は知らない。
それでも彼女が状況を把握する早さは目覚ましい。
「ヲル・リフルは無事?!」
「ああ。きっかり4頭搬入した。目下解析中だ」
目下寝室らしき部屋に雛罌粟の支局長と二人。どうにも危機的状況とは思えない。
「訊きたいことは?」
首を回してロネが言った。枕もとの椅子に腰掛けて足を組んでいるが、そうしてずっと彼女についていたのかもしれない。
彼は30歳にして雛罌粟ブローカ支局の事実上局長を務める。長年面倒をみているケセラとは兄妹のような間柄だ。
再び室内を見回し、ケセラは首をかしげた。
「…ここは地獄?」
「俺はまだ死んでない」
確かに訊きたいことは多いが、想像がつく気もした。
「まあ大方、幸運にもあの電車にうちの局員が乗っていた、ってとこでしょ」
一度連れ去られてからの救出は時間的に不可能だ。麻酔針の効力は10時間未満だから、電車で決着がついたのだろう。
「ご名答」
「じゃ、あの男は――――」
と、次の問いが終わらぬうちに細身の男が一人入ってきた。男はケセラが起きているのを見ると口元を緩めた。
「調子はいかがです?」
男はロネと向かいのベッドに掛けた。彼はケセラより2つ年上だが、ケセラより地位は低いのでやや腰も低い。厳密な上下関係はないけれど。
ロネは男をちらっと見て言った。
「幸運にも電車に乗り合わせた人だ」
「ミモザが?」
「こいつが機転をきかせて乗客を追い払って、お前に応急処置をとろうとしたら体当たりされたって話だが」
ロネの視線を受け、ミモザと呼ばれた男は額に手を当てた。
「なぜか刺されそうになりました」
「……」
それは結局、わかりやすい単純な話だ。ただ、気持ちが事実を受け入れるのにもう一拍要った。
「つまり、あのときの医者が、あんた?」
「ははは」
ミモザは愛想笑いした。ちっとも笑えなかった。
「それなら一言そう言ってよ」
「何で身内に自己紹介しなきゃならないの。目でもやられてたんですか?」
「…うん」
意識の消える間際最悪の事態を想定していただけに、この真相は拍子抜けだった。
「ならどうして刺し返したのよ?条件反射?」
「いや、苦しそうだったから楽になるようにと思って」
「ったく冗談きついなおい」
ケセラは大ざっぱな性格で、言葉遣いも雑だ。育ちがよくないからしかたない。
「そう言うな。ミモザが乗ってなければ厄介なことになっていた」
「いえ、運がよかっただけです。
…それでケセラ、具合は?」
「どうかな」
そう言ってキルトの中で両脚を軽く擦り合わせてみた。
「あくぅっ!!」
途端、列車内の悪夢が再び身体を突き抜ける。
「噛まれたばかりなんだ。しばらく安静にすることだな」
夜も遅いのでロネはもうケセラを休ませようと思った。ところがミモザがちょっかいを出した。ケセラに歩み寄り股に手を滑り込ませたのだ。
「あらら。こんなことされると困っちゃう?」
「ややっ?!うぅっ…!」
不意を突かれたケセラは無防備な声を漏らした。
「この感度なら朝まで一人プレイし放題ですね」
とか言いながら大胆に揉まれ、反射的にケセラは両手で腕を引き離そうとした。
「あ、後でひどいわよ」
だが腕を握る以上の力が入らない。反対にミモザが空いた手で彼女の両手首をつかみ、高く持ち上げた。
「あっ」
「このへんかな…」
と、さらに狙いをつけ、寝衣の上からヴァギナに中指を押し込んだ。
「っああああ!!」
ケセラがもがくので腿に乗って抵抗権を奪う。シャレのつもりだったが、意外に反応がよくて楽しくなってきた。
指を曲げて抉ってやるとケセラは目を閉じてひたすら首を振った。
「しかしさっきの表情もよかったな。あのときはホント、仕事をまっとうするか刹那の愛に生きるか真剣に悩んでしまった」
冗談に聞こえない一言に、ケセラは目で猛烈に抗議する。それが面白くて、ミモザは2本の指を突くようにヴァギナを弄り始めた。
「あっ!ああああ!!だめっ、だめぇっ!!」
ケセラが髪を振り乱す姿にロネはあっけにとられていた。どちらに加勢するか迷っていた訳ではない。
やがてミモザが指を回し根元まで食い込ませると、強く絞られるのがわかった。
「うウッ―――――!!」
ケセラは全身を緊張させた。息を吐ききって、マリオネットのように頭を垂れる。
「(ヤバい…やり過ぎた)」
彼の指は寝衣を破っていた。急に怖くなり上下の手をそっと離すと、ケセラはベッドに倒れ、しゃっくりするように断続的に震えた。
「いけない、急用があったんだ」
ロネに一礼してそそくさと部屋を出ようとするミモザに、ケセラが背後から呼びかけた。
「待て」
「は、はい」
「今度会ったら握りつぶす…」
一瞬凍りついた後、ミモザは扉も閉めず走って逃げた。
……。
「ロネもさぁ、ボサッと見てないで止めてよ。一応偉いんでしょ?」
伏して息を整えながら見据えられ、けおされてロネは目をそらした。長居するとミモザのとばっちりを受けそうだと思った。
「あ…すまない。着替えを準備するか?」
「いい、疲れた。起きてからでいいや」
「わかった。それじゃ、俺ももう行くよ」
しかし立ち上がり去ろうとしたとき、ケセラが急に身体を起こした。
「そうだ局長、話があった」
「寝ないでいいのか?」
彼女が局長と呼ぶときは何か含みがあるのをロネは知っている。
「すぐ済むから」
それ故椅子に掛け直した。
「仕事の話か」
「うん。シャフトの競売でヲル・リフルにやられた女、領主の娘かもしれない」


ティミイは真夜中の森を駆っていた。馬に乗り、領主の娘を背に。
アリシアを逃がす決意をした彼女は守衛を誘い出して独房に閉じ込め、アリシアをなかば引きずって施設を抜け出した。どうにか馬に乗せロープで自分にくくりつけて、夜道を急ぐ。人目を避けやすいルートとはいえ、森にも野犬やオオカミが出るのだ。
アリシアは歩けない上に脳の機能も麻痺しているようで発話に支障をきたしていた。これは珍しくない症状なのでさほど気に留めないが、さっきから一言も交わしていない。
彼女と初めて話をしたのは、アリシアの部屋を守り始めて5日目のことだった。
「あなた、どうして私を守ってくれるの」
長い沈黙を破る一言は、捕虜の方から発せられた。扉には小窓があるが、もちろんずっと覗いている訳ではないのでティミイは一瞬動揺した。
「勘違いしないで。監視しているだけです」
「嘘。監視にしては頼りないわ」
「あなたよりは強いですよ」
抵抗組織に捕らわれた公女にしては待遇が良かった。アリシアは袋叩きなり輪姦なりの洗礼がなかった理由をあれこれ考えたが、最も有力な答えは扉の向こうの少女自身だった。
ティミイが容疑を認めた。
「私は…私たちの大義を守っているんです。あなたは敵に変わりない」
「それでも、そばに居てくれる人がいて私は嬉しい」
捕虜が気丈なため、どちらが内でどちらが外かわからない。ティミイの言葉は本心だったが、もともとアリシアに非はないし、一緒に居れば自然と情が移る。ティミイは事務的に接するよう努めてきたが、ついにシャフトに背くことになった。
しかし後ろめたいことはないので、カタがついたらシャフトに戻るつもりだ。
静かな森の闇に馬の駆ける音だけが響いていく。
「ティ…ミイ…」
不意に背中でアリシアが口を開いた。
「何?」
「仲間を、責めてはダメ…」
「……」
そう言われてティミイは自分の感情がよくわからないことに気づいた。確かに怒ってはいるかもしれない。
「私、穢されていない。これは、領民の…痛みっ」
「わかった、無理しないで」
言葉をさえぎるように手綱を引いた。今は何も考えたくなかった。
けれどアリシアには、もう一つ言いたいことがあった。
ずっと言いたいことがあった。
毒された身体で馬に跨って揺られるのは無謀だ。ほとんど拷問に近い。
だがそれをティミイに、組織を裏切って自分を助けてくれた人に言い出せない。
アリシアのせいではないといっても、こんなときに「騎乗位はやめて」なんて不謹慎ではないか。


「領主の娘…って、行方不明のアリシアか」
公になっていないが、ブローカ子爵の一人娘が失踪したのは一頃雛罌粟で話題のニュースだった。
ロネは軽く唸って首をひねった。
「なぜに?」
「おいおいしっかりしろよ。シャフトなら動機も人員もじゅうぶん…
だからそうやって人を試すのはやめろ。私は大人だ」
「1200万の品物と心中しかけたのは誰だったろうか」
残念ながらそれには返す言葉がない。しばらく言われるんだろうなとケセラは思った。
「あ゛――。アリシアは誘拐された確率が高い。あの箱入りが消えるとしたら家出か誘拐ってとこだけど、失踪から今までに誘拐の声明がなければ子爵は堂々と大掛かりに捜索するはず。公表できないのは、さらわれたことが知られると諸侯に対して体裁が悪いから。
さて、もし誘拐なら公女をさらう目的は何かしら」
「復讐、陰謀、社会的変革」
ロネは黒い言葉を並べた。
「でしょ。身代金狙いにしては手間もリスクもバカみたいに大きい。付け足すと、個人レベルで公女の誘拐はほぼ無理」
―――よって、ゲマインシャフトによる誘拐説は有力。
一息してケセラはロネに目を遣った。“これで気が済んだ?”
「うん、そこは理が通るけどな」
ロネは人差し指を立てた。
「シャフトは結局、誘拐の事実を公表したいのか?」
「つまり?」
「シャフト、もしくは違う勢力にしても、今まで世間に隠してきたのは間違いなく意識的だ。シャフトが犯人として、隠してきた公女をそんな場所で披露する理由がない。苦労して手に入れた切り札だろうからな」
さらにまくしたてる一言。
「そもそもお前、アリシアの顔を今まで何度見た?」
幽閉と言われるほどアリシアは人前に出ない。これは当然の問いだった。
「…1回」
ロネは苦笑した。しかしケセラも食い下がる。
「アリシアが消えてシャフトに動機があるのは事実。もしそうならアリシアを救出して子爵に恩を売ってもいい。やってみる価値はあるよ」
「……。
わかった、そうも言うなら調べさせてみよう。まあ、仮に誘拐としても雛罌粟はわざわざ介入しないがね」
腿に手をついて立ち上がる。話し終えてお嬢様もやっと寝る気になったようなので、さっさと出よう。
そして扉に手をかけたとき、思い出したように振り返った。
「なあ、ケセラ」
眠りかけの瞳を小さく開けてケセラが呟く。
「なんだ?」
「いやほら、例えば一人寝が淋しくなったときはいつでも…」
「ならん。去れ」


ティミイの当面の問題は、アリシアをどこで手放すかだ。
後は勝手に逃げてくれと言いたいところだが、なにせアリシアは歩けない。敵対関係になければ屋敷まで送ってやるほどだ。
誘拐を公表していたずらに社会を混乱させるのはシャフトの意思ではなかった。アリシアが自力で帰れず送ることもできないとなれば、向こうを―――子爵の家臣を呼ぶしかない。
屋敷は背後の山と一面の林に囲まれていて、街へは距離がある。山林にアリシアを下ろしてのろしを上げれば家臣が駆けつけてくれるだろう。街で警察に処理させたほうがずっと安全に済むが、この件が明るみに出るのはシャフトにとっても体が悪い。アリシアに乱暴したことが立場をより悪くしていた。
森を抜けて草原に出る頃、アリシアが再び口を開いた。
「ティミイ…少しらけ、馬から、下ろして」
「いえ、できるだけ屋敷の近くまで送らせて。私のことは心配ないから」
ティミイは大まじめだ。
「そ、そうじゃなくてっ」
堪らずティミイにしがみつく。二人を乗せた馬は長い夜を駆け抜け、朝の光に包まれようとしていた。


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