「もっと他の服はなかったのですか?」
 「え?」
 猥雑に入り組んだ夜の街を、客引きを避けながら進む祐司に話しかける。
 「何か言った?」
 祐司は立ち止まり、琴音に向き直った。
 「服装ですよ。少しは、学生と思われない格好をしようとは、思わなかったのですか?」
 言われて祐司は、自分の服装をまじまじと見つめる。
 トレーナーにジーパン姿。足元はスニーカー。普段自分がしている服装だ。どこをどう見ても高校生そのものの姿。
 対して琴音はジャケット姿にハイヒール。
 確かに普通の高校生が着れば、多少年はごまかせるかもしれないが、そこは琴音。どう見ても背伸びした中学生が遊びに来ているようにしか見えない。
 「…何か言いたそうですね…」
 その表情から考えていることを読み取り、琴音は睨みを利かせる。
 祐司は「いや、別に…」と言葉を濁し、目を離した。
 「だいたい、少しは目星が付いているんですか?」
奏を夜の街で見かけたという話を聞き、心配になった祐司はその晩、さっそくこうやって夜の街に繰り出した。
 その行動を見越していた琴音は、家の外で待ち構え、祐司に着いてきたのだ。
 「そういうのは…別に…」
 祐司の歯切れは悪い。
 当然といえば当然。手がかりも何も、ここで奏を見かけた、という話以外何も情報はないのだ。
 はぁっと大きなため息が返ってきて、祐司は歩みを速めた。
 「だったらほっとけっていうのか!?琴は奏さんが心配じゃないのか?!」
 「私たちに心配されるような人じゃないでしょう、奏さんは」
 「心配しちゃいけないって言うのか!?」
 「だったら祐司さんに何が出来ます?こうやって歩き回るだけで、何が変わるんですか?」
 「冷たいよ、琴は!!」
 祐司は歩を早める。
 雑踏に消えてゆきそうな祐司を、琴音は必死で追いかけた。
 別に琴音が特別冷たいというわけではない。琴音には琴音の考えがある。
 奏の噂についてだが、考えられるとすれば二つ。
 一つは誰かのスキャンダルを追って街に出ているところを誰かに見られた。
 もう一つは、奏に恨みを持つ者が根も葉もない噂を立てた。敵の多い奏ならば、この可能性は高い。
 前者ならば、スキャンダルの証拠を掴み、それを盾に取れば奏の勝ち。
 後者ならば、奏は身を潜め、反撃の機会を窺っているところなのだろう。
 三つ目として、スキャンダルを追われた人間が、奏の追及を逃れるために噂を流したという可能性も考えられる。
 何にせよ、祐司が出る幕はない。
 どころか、こんなところを歩いているところを誰かに見つかれば、余計な心配が一つ増えるだけだ。
 雑踏に頭だけが見え隠れする祐司に、必死で追い縋る琴音。
 だが二人の距離は、少しずつ離れてゆく。
 「痛っ!」
 追いかけるうち、向かいを歩いていたサラリーマンにぶつかり、よろめく。
 サラリーマンは「すみません」と歩いていってしまったが、祐司は完全に見失ってしまった。
 「全く…」
 琴音はバッグから携帯を取り出すが、なぜかそれを使うことは躊躇われた。
 
 
 とあるホテルの地下駐車場。そこに三人の男に囲まれる、半裸の女の姿があった。
 奏である。
 奏は前に立ったサラリーマン風の中年のペニスを丹念に舐め上げている。
 後ろに回った男たちは、指でヴァギナを犯していた。
 ぴちゃ、ちゅく――
 「ふぅぅん…うぅん…」
 じゅっじゅっじゅ――
 奏の腰はくねくねと男たちの指を求め動いていた。
 「へへへ〜、いや〜本当にすけべな娘だな〜」
 「私にも同じぐらいの年頃の娘がいるんだけどね〜」
 「ははは!それじゃあ心配で仕方がないだろ〜」
 ちゅばぁ――
 「はぁ〜ん…あぁん…おじさんたちだって、だって、あぁん…こんなにチ○ポ勃起させて、せてせて、本当にスケベなんだからぁん、ふぁん…」
 奏はペニスから口を離し、今度は袋の裏へ舌を這わす。
 「おぉ…まったく、そんな年で手馴れた舌使いをして、この先日本はどうなるのやら」
 男は手を奏の胸に伸ばし、乱暴に掴んだ。
 「うぅん!もっと優しくしてぇ、してしてぇん」
 「へへへ〜、そう言ってる割には、こっちはモノ欲しそうにしてるよ〜」
 後ろに回った男が屈みこみ、奏のヴァギナを覗き込んだ。
 ヴァギナから溢れた愛液は太腿まで濡らしていた。
 「こんなに濡らしちゃって。お豆ちゃんもつんつんにとがちゃってるよ〜」
 「うぅん!」
 男がクリトリスに触れると、奏の体がビクンと跳ねた。
 「へへ〜、いやらしいお○んこだな〜。一体どのくらいのチ○ポ咥え込んだんだ〜?」
 「はぁん…今日はまだ二人だけぇ、だけだけぇ〜」
 ドッと笑いが起こる。
 「おじさんたちの前に二人も咥え込んでるのか!」
 「こりゃ遠慮はいらないな!」
 「そうだそうだ!助平な女にはお仕置きをくれてやれ!!」
 ペニスがヴァギナにあてがわれ、奏はこれから来る快楽の予感に喜び、震えた。
 「はぁん、来てぇ〜、きてきてぇ〜」
 「へへへ〜、嬉しがってちゃ、お仕置きになんないねぇ〜」
 じゅずぶぶぶぅ〜――
 「はぁん!いい!いぃ〜!!」
 「ほら、こっちもちゃんとしゃぶってくれよ〜」
 「むぅぅじゅぅ…」
 前に立っていた男が、奏の口にペニスを捻じ込んだ。
 上下の口を犯されている奏の視界の端に、見覚えのある人物が映ったような気がした。
 
 
 琴音はガードレールに腰掛け、ふぅ、と長い息を吐いた。
「まったく…何をやっているんでしょうか、私は…」
 履きなれないヒールの片方を脱ぎ、手でぶらぶらとさせる。
 散々歩き回ったが、結局見つけることは出来なかった。
 仕事終わりのサラリーマンや、大学生が溢れる夜の街で、一人の人間を探すなど、土台無理な話なのだ。
はぐれたのだから連絡ぐらいくれれば良いのに、携帯には一向に祐司からの電話は来なかった。
 別れ際が最悪だったのだったから、仕方がないと言えば仕方がないことではあるが。
 自分の言葉が足りないのはいつものことだが、どうしてこうなってしまうのか。
 もう少し感情を表に出せばいいのだろうか?
 だが、そういうのは苦手。
 いつからか?子供の頃は違ったような気もする。
 ふぅっとまた長い息。
離れた場所から雑踏を眺め、少し感傷的になったのかもしれない。
 とりあえず、もうしばらく祐司を探そう。1時間して見つからなければ、今日はもう帰ろう。明日学校で祐司に文句を言えばいい。
 それでおしまい。またいつも通りだ。
 そう思い顔を上げると、雑踏の中から、ずかずかと自分に向かってくる人物の姿が見えた。
 祐司だ。
 祐司は俯いたまま、鬼気迫るような気迫を背負い向かってくる。
 「祐司さ…」
 祐司は声を掛けようとする琴音の腕を掴み、そのまま琴音を引っ張って行く。
 琴音は片足が裸足のまま、祐司にぐいっと引っ張られ、よたよたと着いて歩く。
 祐司に掴まれた腕が、痛い。
 「ちょっと、祐司さん、痛い!!」
 だが祐司は耳を貸さず、口を開くこともなく、雑踏を掻き分け、歩みを緩めることもなく進んでいった。
 
 
 「……」
 「……」
 翌朝、バスで祐司と並んで揺られる琴音だったが、言葉がかけられずにいた。
 祐司昨晩からずっと無言のまま。口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せている。
 怒りとも、悲しさとも、悔しさとも似たようで違う感情が渦巻いているよう。
 琴音は昨日祐司に掴まれ、痣になった腕を気にしながら、祐司と肩を並べた。
 バスが止まり、生徒が吐き出されてゆく。
 二人もその流れに乗って、バスを降りていった。
 「祐坊〜」
 二人が降りると、そこで待ち受けていたのは奏。
 奏はにこにこと二人、いや、祐司に向かって手を振っていた。
 琴音は祐司を見上げるが、狼狽振りが見て取れた。
 登校する生徒たちが、三人の脇を通り抜けてゆく。
 「ど、どうも…」
 祐司は軽く会釈をするが、鼻を掻いたり額を掻いたりと動きが忙しない。
 「ねぇ、ねぇねぇ、祐坊。昼休みに暇ある?あるある?」
 対して奏はにこやかに笑顔で話す。
 二人の雰囲気のギャップに、琴音は怪訝な表情を見せた。
 だが二人は琴音の存在を無視するように、話を続けた。
 「ま、まあ…」
 「じゃあ、じゃあじゃあ、ちょっと話したいことあるから、からから、旧校舎で待ち合わせ、いいかな?かなかな?」
 「えぇ…はぃ…」
 小さな声で返事を返す。
 「じゃあ、昼休みにね、ねね」
 手を振り校舎に消えてゆく奏。
 祐司はその奏に何か声を掛けようとしたが、言葉は出てこなかった。
 「…昨日、何かありましたか?」
 琴音が聞くが、祐司は「いや…」と何も答えなかった。
 
 
 昼休み――
 旧校舎前。目前に迫った木々が風に揺れ、音を立てる。
 そこで右ひじを左手で庇うようにした、独特の立ち方で待つ祐司。
 「やっほ〜、待った?待った待った?」
 遅れてやって来た奏が、手を振りながら駆け寄ってくる。
 重い表情の祐司に比べ、奏の表情は明るい。
 「いえ、別に…」
 「ここじゃなんだから、中でね、でねでね」
 ちゃりんちゃりんと鍵を鳴らす奏。
 「その鍵?」
 「うん。部室の、のの」
 軽くウィンクをして、奏は旧校舎へ消えていった。
 祐司もそれについて歩く。
 
 二人が旧校舎の中に姿を消すと、校舎の影から琴音が姿を現した。
 後ろめたいことをしている自覚から、表情は重い。
 「はぁ…本当に昨日から、何をしているんでしょうか、私は…」
 祐司と奏が二人で、どんな話をしようと自分には関係のないことなのに、気にする必要もないのに。
深い、深いため息。
 「昨日から、ため息ばかりですね…私…」
 自分の行動を反省しながらも、二人を追いかけた。
 
 
 部室の鍵を開けた奏が、祐司を中に入るよう促す。
 祐司を先に入れ、後から入った奏は鍵を閉め、他に人が入ってこないようにした。
 「…あの、奏さん…」
 部室の中ほどまで進んだ祐司が、重い口を開く。
 奏は笑顔を浮かべるだけで、何も答えない。
 沈黙。
「…昨日…駐車場で…」
 沈黙に耐えかね、目を逸らしながら言葉を続ける祐司。
 「やっぱり、見てたんだ、たんだたんだ…」
 奏の口調はとても静かなものだった。
 祐司は黙ったまま、こくんと頷いた。
昨日三人のサラリーマンに犯されているとき、祐司の姿が入り口付近に見えた気がしたが、見間違いではなかったようだ。
 それは祐司にとっても同じこと。見間違い、勘違いであって欲しいと思っていたことが、事実であったと教えつけられた。
 「昨日、奏さんが男の人たちと歩いてるの見つけて…追いかけていって…」
 「う〜ん、どうしよっかな〜、かなかな〜…一応部長には黙ってる取材なんだけど、けどけど」
 「取材?」
 祐司は強い違和感を覚えた。
 昨晩のあんな行為を、「取材」の一言で済ませてしまうのか?
 「取材って…なんの取材ですか…例の事件の?」
 「事件とは関係ないんだけど、けどけど。う〜んっと、色んな人のセックスの趣向の違いについて、をね、ねね。結構サンプルも集まったんだけど、けどけど」
 「なんでそんなこと!!」
 軽く言葉にする奏に怒りを覚え、思わず怒鳴ってしまう祐司。
 奏は目を丸くした。子供の頃から、こうやって祐司が怒鳴る姿を初めて見た。
 「何でそんなことするんですか!?そんなバカなこと、すぐ止めてください!!もっと自分を大切にしてください!!違うでしょ!奏さんはそういうことする人なんかじゃ…奏さんは…!!」
 祐司は言葉に詰まる。
 奏は笑顔を浮かべ、祐司を抱きしめた。
 少しだけ、祐司の方が背が高い。
 「…好き…なんです、奏さんが…だから…」
 か細い声で、祐司が搾り出す。
 「うん…そうだったんだ、たんだたんだ…だったら…」
 ようやく言えた。長く、ずっと抱いていた気持ちを。
泣きそうな気持ちを必死で抑える祐司。
 もし、奏がこれで道を改めてくれれば、それだけで祐司は救われただろう。
 だが…
 「ここでヤッちゃう?ちゃうちゃう?それで取材のことも、もも、黙ってもらえるといいんだけど、けどけど」
 奏の答えに祐司は愕然とした。
 まるで崖の上から突き落とされたような気分。
 「したいんでしょ?でしょでしょ?私とセックス。祐坊の希望も叶えられて、てて、私も取材が続けられる、れるれる。一石二鳥じゃない、ないない?」
 血が頭に上っていくのが分かる。
 「どうして…どうしてそんな風に言うんです!!僕は本当に奏さんのことが好きで、それで、ずっと想ってきたんです!!それをなんでそういう風に言うんですか!?」
 「えぇ〜、セックスしたくないの?ないのないの?」
 「僕のことが嫌いなら嫌いだって言えばいいじゃないですか!!そう言ってくださいよ!!そう言えよ!!何で茶化すんだ!!本気で言ってるのに、何で本気で言ってくれないんだ!!」
 「祐坊…なんで怒ってるの?るのるの?」
 「もういい!!」
 祐司が奏を突き放す。
 奏はガタンと床に倒れてしまうが、祐司は気にすることなく鍵を開け、部室を出て行ってしまった。
 部室の前では琴音が背を壁に預け、決まり悪そうに立っていた。
 祐司は琴音を一瞥だけして、ずかずかと怒りを足音で表すように歩いていってしまった。
 琴音はしばらく動けず、その場にじっとしていた。
 「たたた〜…あ、琴…もしかして、聞いてた?てたてた?」
 腰をさすりながら、奏が部室から顔を出す。
 琴音は目も向けず、ただ黙っていた。
 「う〜ん、祐坊昨日のこと黙っててくれるかな〜?かなかな〜?ねえ、琴。琴からも言っといてもらえない?」
 「最低ですね、あなたは」
 琴音は一瞥もくれず、その場を後にした。
 
 
 ボイラー室裏。
 誰も近づかないその場所で、祐司は一人膝を抱えていた。
 ガサと音がして、目を向けた。
 目に映ったのは琴音の姿。
 「…こんなところで、何をやっているんですか…」
 随分探し回ったのか、琴音は息が上がり、制服が乱れている。
 琴音は制服の乱れを直し、隣に座る。
 「もう昼休みが終わりますよ」
 「…いいよ、もう…」
 「そうですか…」
沈黙が訪れる。
 木漏れ日が二人を照らし、木々に冷やされた風が二人を通り抜ける。
 二人の背後から、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 「……子供の頃から…奏さんのこと…追いかけてたんだけどな…」
 ふいに、祐司が口を開いた。
 「わかってるつもりでも…知らないことの方が、やっぱり多かったんだよな…」
「…奏さんの、どういうところが…好きだったんですか…?」
 琴音の胸が、ズキリと痛んだ。
 「…どこかな…昔から一緒に遊んでて…気づいたときには、目で追いかけるようになってたし…」
 「……」
 琴音は何か言おうとして口を開くが、結局そのまま黙ってしまった。
 「…行動的なところかな、強いて言えば。何でも自分で決めて、みんなを引っ張っていくところとか」
 「おかげで、周りが迷惑を受けることはありますけどね」
 「ははは、結構ね。覚えてる?小学校のとき、奏さんに言われて三人で山に行ってさ」
 「迷って、みんなが探しに来たときのことですよね?」
 祐司は、少し寂しそうに笑った。
「そうそう。奏さんがずんずん進んでいくからさ、遅れないように必死で琴と追いかけて」
 「私は帰るよう言ってましたよ。それなのに二人が聞かずに、山に入って行ったんじゃないですか」
 「そうだったっけ?」
 「…そうですよ」
 寂しそうに、琴音が呟く。
 「…楽しかったのにな、昔は…」
 できることなら、いつまでもあんな関係を続けていたかった。
 いつから、こうなったんだろう?
 いや、もしかしたら、自分が気づかなかっただけで、最初から違っていたのかもしれない。
 「…どうして、こうなるんだろ…」
 長い沈黙。
 二人が風の音に、耳を澄ませる。
 沈黙を破ったのは琴音だった。
 「やっぱり、奏さんのことが、好きなんですか?」
 「…うん…たぶん…振られちゃったけどな…」
 「そうですか…」
 よしっ、と琴音は立ち上がった。
 スカートについた埃を払い、制服の皺を伸ばす。
 「大丈夫です。すぐ、元通りになります」
 「琴?」
 琴音はにこりと笑い、その場を離れた。
 
 
 次の日の放課後――
 祐司は授業が終わっても、自分の席を立つこともなく虚空を眺めていた。
 はぁ〜っと重い気持ちを全て吐き出すようなため息。
 そして祐司は椅子の背もたれに全体重を預けるように、ぐてぇと反り返り、天井を見上げた。
 昨日は結局5時間目は休み、6時間目だけ出て、部活には顔を出さずに帰ってしまった。
 「また今日も休もうかな〜…」
 奏と顔を合わせる可能性のある部活には、まだなかなか行きにくい。
 「でも、二日も何も言わずに休んだら、部長さんとか、心配しそうだし…でもなぁ…」
 この調子で先ほどから、かれこれ30分ほどずっと悩みっぱなし。なかなか踏ん切りがつかないでいた。
 と、鞄の中に入れてあった携帯が鳴り始める。
 誰からかと確認すると、画面には「部長」という文字が躍っていた。
 確かに以前連絡用にと番号を交換したが、実際大和から電話が来たのは、今回が初めてだった。
 部活に来るようにと催促なのだろう。
 祐司は一旦躊躇したが、電話に出ることにした。
 「はい。もしもし」
 『ああ、よかった。私です。久保山です。分かりますか?』
 「久保山」と言われ、一瞬「?」の文字が浮かんだが、そう言えばそんな苗字だったと思い出す。
 「はい。すみません、今から部室に行きます」
 『そうですか。それならよかったんですが、いや、実は誰もやってこないから不安になりまして』
 「誰も、ですか?」
 
 
 祐司が部室に入ると、確かに大和以外の人間の姿は、どこにもなかった。
 「遅れてすみません…」
 頭を下げる祐司に、大和はニコニコと笑った。
「いえいえ。垣内君だけでも来てもらえて、安心しました」
 「他の人は?」
 「竹内君と井上君からは、用事があって来れないと連絡がありました。多田君と井口君と、それに皆川君とは先ほどから連絡がつかないんです」
 「琴に?」
 やはり琴音も、昨日の今日で顔を合わせにくいのだろう。
 「まあ、あれ以来、なぜか生徒会室もしつこく言ってこないので、井口君の件は一段落ついたのかも知れませんが、ここしばらく顔を見てませんからね。何か聞いてませんか?」
 「いえ、別に…」
 祐司は大和から逃れるように、自分の席に着いた。
 「そうですか…あと、皆川君も昨日来なかったのですが、何か知っていますか?」
 「それもちょっと…」
 「そうですか…何度か電話したのですが、携帯にはつながるんですが、出てくれなくて…多田君と井口君は、電源を切っているようでつながらないのですがね。何かあったのかと、心配で」
 「電話、してみましょうか?」
 「お願いします」
 祐司にしてみても、あんなことがあった後で、琴音とも顔を合わせないのは少し心配になる。
 いや、琴音で寂しさを少しでも癒したいのかもしれない。
 なんにせよ、祐司に今欲しいのは、一緒にいてくれて、心を開いて話せる人間だ。
 その意味で気心の知れている琴音の存在は、大きい。
 『トゥルルル――トゥルルル――トゥル、カチャ』
 意外にも早く、3コール目の途中で琴音の声が聞こえてきた。
 『もしもし』
 「あ、琴。今どこにいるんだ?部室にさ、誰も来なくて部長さんも困っててさ」
 気持ち「誰も」を強調する。
 『それですが、私はしばらく学校に行けませんので。新聞部にもそのように伝えておいてください』
 「はぁ?どういうことだよ、それ?」
 『学校も部活も休むということです』
 「いや、そういうことじゃなくてさ」
 『5月1日あたりには戻る予定ですから、心配しないでください』
 日にちの指定とは、何のつもりだろうか。
 「なんだよそれ。一日に何があるって言うんだよ!」
 『それではこうしましょう、風邪ということで』
 「いや、風邪ということで、じゃなくて」
 『インフルエンザです。インフルエンザ。ごほんごほん。ほら、タミフル打って安静にしてないと』
 「ほらじゃない。今完全にわざと咳きしたじゃねぇか」
 『では、これで』
 「おい、こら、琴!ちゃんと説明しろ!!」
 『プツ、ツーツーツー』
 聞こえてくるのは電子音。
 頭にきた祐司はもう一度電話を掛けてみるが、
 『現在この電話番号は、電源が切られているか…』
 「電源、切りやがった…」
 「皆川君は、なんだと?」
 「いや…なんか、一日まで休むって…」
 「ふむ…」
 大和は扇子を額に当て、なにやら思案する。祐司と二人のみで、どうするのか考えているのだろう。
 「あの…これからどうします?」
 どのみち琴音一人が来たところで、どうこうできるような状態ではない。
 「そうですね…とりあえず」
 大和は扇子でポンと額を叩き、祐司に笑いかける。
 「この間の生徒指導室の原稿、書き上げてもらえますか?」
 「僕が…ですか?」
 「ええ。他にいませんので」
 「はあ…」
 とは言ったものの、文章を書くのは大の苦手な祐司であった。


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