その24



 月が、陰る。
 深夜、周囲から聞こえるざわめき。
 それがこの館の性質を表していた。
 夜、花開く者たちの嬌声。
 わずらわしくも思いながら、それでも聞き入ってしまう。
 そんな自分に嫌悪と、愛しさを感じてしまう、自分。
 天窓から見える月を、ひたすら眺めている。
 狂乱の時は過ぎ、
 すっかり清められた躰を、清潔な寝台の上に横たえている。
 すべてにおいて清潔なその部屋。
 ……いえ、一点だけ違う。
 悲しき苦笑を浮かべる。
 穢れきった、おのれの心、それ以上に穢された、その躰。
 その事実が、重くのしかかる。
 裏切りをおこなったのは、自分自身。
 それを否定することはできない。
 いままで死を恐れたことはなかった。
 それが証拠に、みずからの躰に施した忌まわしき術。
 女を殺すことを恐れなかった。
 であるのに、死を恐れるわけはない。
 そう、思っていた。
 いまでもそうだと思える。
 だた、快楽に、……負けた。
 肉奴隷としてつき従う悦びに、
 家畜として飼われる安堵感に、
 負けた。
 負けてしまった。
 それは、事実。


 カタン、
 ベッドで横たわるアリシアの耳元に、かんぬきの引き抜かれる音が聞こえる。
 首を傾け、入り口の方を見つめるアリシア。
 キィ……という音がして、扉が開く。
 立っていたのは、ミレルだった。
 身に纏っているのは、純白のドレス。
 飾りっ気も洒落もない、ただただ清純さを示すドレス。
 艶やかな金髪と、憂いを含んだサファイアグリーンの瞳。
 純粋に美しい……と、アリシアは感じた。
「かあさま、起きてる?」
 首をかしげ、問いかけるミレル。
「ええ、起きてるわ」
 静かに答えるアリシア。
「そう」
 ベッドに近づき、そしてそのままベッドに腰掛けるミレル。
「怒ってる?」
「…………」
「怒ってるでしょうね」
「………………」
 ミレルの言葉に沈黙を保つアリシア。
「かあさま、もうやめよう、復讐なんて」
 その言葉に、深いため息をつくアリシア。
「復讐できない躰にしておきながら、いまさら……」
 アリシアの言葉を聞きながら、月を見上げるミレル。
「かあさまが、前のとおさまを大好きだったのは知ってる。でもね……」
 そのまま月を見上げたまま、言葉を継ぐ。
「前のとおさまは、かあさまのことをそんなには愛していなかった」
「……な、何を言うのっ?!」
 アリシアの怒りの声が、部屋に響き渡る。
 その場に跳ね起きるアリシア。
「かあさまは大国の姫で、前のとおさまは小国の王。かあさまの実家の国は、前のとおさまの国が欲しくてかあさまを送り込んだの。国と、特に格式と権威が欲しくて」
「ミレル?!」
「そんなことは、かあさまも知ってたんじゃない?」
 ミレルの瞳が、アリシアの視線と重なった。
「……ええ、それは知ってたわ。でも、なぜあなたが?!」
「前のとおさまの国は、大国の後見が欲しくて、前のとおさまの意見を無視して、かあさまとの婚儀を強行したわ。前のとおさまにはすでに愛する人と、その子供がいたにも関わらずね」
 アリシアの問いかけを無視し、淡々と語るミレル。
「…………」
「国と、国としてはそうなるのは当たり前かもしれない。だけど、人が納得するのはまた別よね」
 その瞳に悲しみが宿る。
「前のとおさまの国が亡くなったとき、この国に来てしばらく経ってからも、わたし、命を狙われ続けていた」
「な、なにっ!?」
 愕然とした表情をするアリシア。
「相手はわたしを殺そうとする理由を言ってくれたわ。……懇切丁寧に。結婚後もいかに前のとおさまに愛されていたか、……とか、わたしが死ねば正統の王子は自分の息子になる、とか」
「おまえっ?! そんなことは一言も!」
「かあさまの態度を見ていたら、そうなるのが正しいのかもしれない、なんて思っていたから」
 部屋に沈黙が舞い降りる。
「正しいよね。だって、かあさまが来なければ、その女の人の息子が王子になったんだもの」
「そう」
 ポツリとつぶやくアリシア。
「……聞いてはいたわ、あの人から。愛人がいるって。子供も、それでも……」
「前のとうさまは、かあさまを愛してくれた。そうかもしれない。わたしにはわからない。もう、誰にもわからない」
 再び、沈黙が舞い降りた。
「わたしを守ってくれたのはにいさまだった。直接わたしを守ってくれていたのは、にいさまの配下だったけど」
 苦笑を浮かべるミレル。
 その頬に暖かい色が宿る。
「にいさまはただ単に、戦利品の保護という義務からわたしを守っていたにすぎない。あの当時のにいさまの口癖、今でも覚えてる。きっと、にいさまは忘れていらっしゃるだろうけど」
 苦笑を浮かべつつ、囁くように語るミレル。
「『ミレル、お前は我が国の戦利品、我が国のもの。父上のもの。そしていずれは僕のモノになる。簡単に死なれては困るんだよっ!』って。うふふ、にいさまらしい言葉よね」
 再び、天にかかる月を見つめるミレル。
「わたしを守ってくれる人がいる。たとえ、それが愛でなく、信頼でなく、純粋な打算であっても。守ってくれる人がいる限り、生きていける、そう思った。だから、女の人とその子供を、わたし自身の手で刺し貫いたの。にいさまの配下にお願いして、身動き出来ないようにした後で」
 その顔に、狂気を浮かべるミレル。
「狂ってる? でもね、これこそがわたしがかあさまの娘である証。わたしにはこの狂気を飼い慣らしてくれる人が必要なの。そして、かあさまにも必要なのよ」
「なにを言ってるのっ!」
 震える、アリシア。
「わかってるでしょ? かあさまに必要だったのは前のとおさまではなく、今のとおさま。邪悪な毒蛇を飼い慣らす悪魔、それこそがかあさまに相応しい相手……」
「ミレルっ!!」
 アリシアの怒りの言葉を聞き、にっこりと微笑むミレル。
「とおさまは、かあさまが子供を産めない躰だと知ってらっしゃるわ」
「…………えっ?」
「かあさまが自分の躰にどんなに酷い術を施したか、知ってらっしゃるの。二度と子供を産めなくなる『禁断の避妊の秘術』をかあさまが使ったことを。そうしておいて、みずからの躰を武器に、リーフシュタインの復興をおこなおうとしていた決意を」
「まさか、そんなことはあるわけがないわ」
 馬鹿らしいとばかりに、苦笑を浮かべるアリシア。
「王妃を娶るのは、王子を産ませるため。子を産めぬと知っていて姫を娶る王なんて……」
「いたのよ。子を産む道具としてではなく、みずからの楽しみのために王妃を娶る王が、ね……」
「…………」
 しばし、呆然とミレルを見つめるアリシア。
「まあ、いずれにしても今のかあさまはとうさまの肉奴隷で家畜……」
 冷徹な視線をアリシアに向けるミレル。
「そうなったのを恨むのなら、ミレルにして。とうさまではなく、ね。……かあさまを今の境遇に突き落としたのは、ミレル。あなたの娘のであるミレルなの。けっして、とうさまじゃあないわ」
 ベッドの端から立ち上がるミレル。
「かんぬき、外しておくね。逃げるもいいし、ここに留まるのもいい。あるいは……」
 扉の方に躰を向けるミレル。
「ここから三つ右の部屋にとおさまが寝ていらっしゃるわ。抱かれたいと思うのなら行ってみれば? いずれにしろ、かあさまの好きにすればいい」
 そう言った後で、その顔に邪悪な笑みを浮かべて立ち去るミレル。
 その邪悪な表情を決してアリシアには見せず、ミレルは部屋を立ち去ったのだった。


 翌朝、アリシアはガリウスの懐に抱かれて眠っていた。
 やすらぎに満ちた表情で、
 すべてから解放された表情で、
 魂をすべて主人に捧げきった、肉奴隷の至福の表情で。



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